踊る禍いビジネス

─ワクチン音頭メイキングセオリー

加齢臭という言葉が定着してしまいましたが、私は解せない類いのひとつと思っています。資生堂が1999年にノネナールという物質を発表したことから始まっているようです。それ以前からニオイに対して過敏になった風潮が出ていたと思いますが、整髪料やスプレー等、無香料や無臭性の商品が席巻するようになっていきました。

時期と詳細について覚えていませんが、当時五木寛之氏がそんな事象を批評する言説に触れた記憶があります。潔癖であるあまりの脆弱さを指摘していた···いや、これは記憶がだいぶ薄くなってしまい、水の量が多すぎる水割りウイスキーのような観を呈するのでやめておきますが、水に流すには微妙に引っ掛かるものがあります。五木氏の言葉の方ではなく、資生堂が宣った加齢臭の方です。
これを、仮にマッチポンプマーケティングとでも言っておきましょう。負を指摘し、それを解消する製品を売りさばくというやり方です。一般的には、害毒を撒き散らす商品を売るわけではないので、何の咎(とが)もないことです。しかし、2018年に資生堂がストレス臭を公表する記事に出合った時は「来たぞ」と思いました。今のところストレス臭は普及に成功していないように思いますがどうでしょうか。それだけに、加齢臭のマッチポンプマーケティングの手法が際立って感じられるのです。

日本国のおよそ二千七百年の歩みの間に老化臭はずっと存在していたわけで、殊更に高齢者に偏向視点をもたらした面がありますが、そこで商売されることは何のコンプライアンス上の問題があるわけではなく、そこを問題視するかのような私の方が、加齢臭を発してますよと言われても仕方がないことではあります。

誰もが気になっていたニオイの成分を科学的に突き止め、名前を与え、その対策商品を展開する、こんな社会的貢献は歓迎されている以外の何物でもないでしょう。
この意味で、正確にはマッチポンプは当てはまらない言葉ではありますが、マッチポンプ的な構造があるのではないか、という気がします。この世に負はいくらでもあるわけで、この点ではマッチポンプマーケティングは必要な手法とも言えましょう。

踊ってるネ、あの子

「コロナ禍」という言葉もすっかり定着してしまいましたが、今は「ワクチン禍」のフェーズにあるように思います。ワクチンの安全性をめぐって大きな対立が発生しているからです。その安全性については神のみぞ知る領域のことになってしまいますが、私にはあやしいビジネスが、キレッキレッで踊っているかのようにも見えます。

それは、中国の武漢研究所から発生しました。しかし、それに関するアメリカの調査レポートの公表はバイデン大統領が抑え込んでいるとされます。その研究にはアメリカ自身が資金投下していたようで、アメリカの研究内容への関与しだいでは、マッチポンプが成立してしまう話なのでしょうか?得体の知れない疫病が出現しその後、WHOは「中国からの報告に基づいて」COVID-19と感染症名を決めた、とされています。(SARS-COV-2はその病原体名)

これは需要の発生を意味します。これが出てきた時、専門家や製薬会社は、SARSやMERSの頃から研究が為されていたらしいワクチンに思いが及んだことはたやすく想像できます。悉く動物実験で失敗した末に研究を中止したとはいえ、目前の喫緊の課題に対し時間のなさを思えば、これまでの研究実績は突然光輝くものとなったに違いありません。製薬メーカーは免責を得た上で、いよいよ人体実験に取り掛かる運びとなったわけです。このあたりの商品発売に至る安全性や効能研究の詳細は知る由もありませんが、一定の手続きを経て(*)、世界中に発生した需要に対して、メーカーサイドは色めき立ったことでしょう。一瞬にして地球規模のビッグマーケットが出現したわけですから。当然ユーザーサイドも両手を上げて歓迎したわけです。

ファイザー社もモデルナ社も幹部は昨年、自社株を売却していたということです。かつ、ファイザーのCEOは59歳で健康体だそうで、ワクチンを打たない意思を自ら公言しています。これは一体何を意味するのでしょうか。(こんな危ういビジネスが、今、進行中)

契機的にはユーザーオリエンテッドで始まった、というより消費者ニーズありきで始まった、とは言えると思います。ワクチン待望論が世に満ちていたことは間違いありません。一気にプロダクトアウトに邁進したように見えます。需要があるから供給が生ずるわけであり、消費者が製品の品質見極めに慎重であるような空気をを封じ、疑問をはさむ余地のない気分を演出し、過去のワクチンと変わらない体で、その購入は推進されています。
先日、公園で鳩を見ていたら気がつくことがありました。50羽程度の集団ですが、1羽の動きに引きずられるのです。1羽が餌に気づいて突進すると、他の鳩が一斉にそれを追いかけます。1羽が危険を察知して飛び立つと、他の鳩も一斉にそれに追随します。最初の鳩が本当に餌の在りかを見つけたかどうかの確認などなく、闇雲にというか、その1羽の動きに反射的に従っているように見えます。1羽がイノベーターであり、大半はアーリーアダプターとして従い、ラガードの2~3羽が我関せずと取り残される場合もあります。

君の魔力は10000ボルト

人間のワクチン接種行動も鳩と同じだ、と言いたいのではなく、このような鳩的な動きにもっていく、仕掛ける側の巧みさに用意周到さを感じます。ほぼ洗脳と言っていいかもしれません。呪術的なニオイさえ感じられます。
アメリカが接種を始めたら日本もやらなくちゃ、と思う。ここ無意識に進行します。
まるでアメリカ崇拝です。令和3年、2021年とは、まだ戦後といっていいでしょう。姿・形は日本人でも、GHQの遺伝子は政治家・官僚、学者、医療従事者に埋め込まれているのではないでしょうか?日本弱体化政策はガッツリ効いたままではないでしょうか。

社会学者の宮台真司氏は「日本は終わっている」と明言しています。状況はすでにその色合いが濃厚と感じざるを得ないとは思います。しかし、一抹の未練もないなら、そういうことを語ることすらしないのではないでしょうか。腐れ切った世相にカンフル剤を打ちたいということなのでしょうか。見た目には「ドスの効いた」「強面のする」氏特有のレトリックと映りますが、ファイザー社のワクチンほど需要があるようには感じられません。

情報ラガードの私にも、今回のワクチン供給に関して、ディープステートの関与や、Qアノンの情報が入ってくるようになりました。当然それはあることでしょう。50年前に読んだ「実存主義入門」(外国人著者名失念)という本では、人間の求めるものとして「富」、「名声」、「快楽」の三つをあげていました。われわれ一般人はその一つも入手できず、それを獲得した場合など想像しにくいのですが、そこを無理にイメージしてみることは、できないことではありません。もし「富」や「名声」を我が物としてしまったら、いろいろな意味での「快楽」、それはセクシャルな意味だけではなく、政治家もできない壮大な世界変更に欲情することはあり得ることでしょう。何も表舞台で行なうことはないわけで、むしろ裏側でこっそり仕掛けることに、触手が動くでしょう。陰謀論陰謀論と否定に走る人ほど、陰謀当事者に加担する構図になってしまいます。
そもそも武漢で起きたことが何だったのか。発生時からのマッチポンプが成立するかどうかはともかく、発生した状況にすかさず乗るというやり方でのなんらかの大きな変更を目論むことを、誰かがやっても不思議ではありません。
感染症発生とともに不安解消症候群が蔓延します。それはワクチンの供給先の確定を意味し、並行して、そこに利害や利権の連鎖が発生して、A国→B業界or b地域→C各個々人と繋がっていき見事に浸透します。 この意味では日本ほど同化させやすい国はないでしょう。

組のひと

反ワクチンの考え方も出てきますが、不安解消症候群に罹患した人々に付ける薬はなく、厚労省による一人2回国民の60~70%の接種推進がまかり通り、いつのまにか3回目も必要と、需要拡大強化施策が打たれます。感染症の広がりというより、ワクチンという医学を装った恐怖思想のマジックが、成功を納めつつあるように見えます。この一連の流れは、マッチポンプマーケティングの構造と重なっているように受けとれるのです。この意味で世界的なビジネスが成立するわけですが、恐怖という仕掛けが鳩たちを呼び寄せたかのようです。

問題はワクチンのリスクそのものに触れることは、それを声高に言うことは、別の軋轢を生むことに貢献し、いわゆる分断を醸成します。例えば、九州の一市議がチラシで中学生にそのリスク訴求をすると、それがけしからんという勢力が騒ぎ立てます。

また、「アメリカ通信」という世界情勢を地政学視点から解説する奥山氏と和田氏のネット番組がありますが、ある日の同番組で奥山氏が、ワクチンパスポートを作ることを推奨し、医療機関を逼迫させないことに協力しよう、という趣旨で呼び掛けていました。私は耳目を疑いました。私は、このことで、今までの数々の優れた情報と解説のこの番組が急速に色褪せていくのを確かに見た思いがしました。ワクチンに対する疑いを1ミリも持たない方が、世界のパワーバランスを解説している?悪政を棚上げして国民が医療機関に気を使う?いつの間にか、「アメ通」はお笑い地政学へと戦略転換をはじめているのかもしれません。
(民主主義にもとる番組の錯乱と、番組側と私との意見が対立してしまう図式の形成)

問題は、ある意味こちらの方が大きいと言えます。ワクチンに纏わる混乱と分断という構造の形成です。小屋で鶏たちが右往左往するかのようで、狭い日本国内の緩やかなまとまりが失われていくようです。

結局、鶏小屋の喧騒とは日本にヒビを入れることに寄与し平時の文化を破壊する、そういうベクトルを持っていると考えられます。目論んでいる者の意図は、実はこの辺にあるのではないか、とも思われます。少なくとも、不要不急の緊急事態宣言で、我国の経済は淀んだままであり、思想面と経済面の両面から弱体化は進行し、悪い方に寄りきれば仕掛人の思う壺です。

ほぼ戦争が進行中であり、かつてのアルビン・トフラー氏による21世紀のこんにちを予測した意味合いに関わらず、裏世界のある意味での「パワーシフト」という見方は今こそリアルに保持すべきでしょう。トフラー氏の指摘を正確に理解しているかは自信がありませんが、知識と情報を持つ顔の見えない輩が世界を動かしているイメージは、陰謀論などではなく至極当たり前のように思われます。

ワクチンを「禍いをもたらすビジネス」と捉える側面は、
①そのワクチン自体のリスク
(神または悪魔のみぞ知る領域)
②その是非をめぐってのリスク
(人間世界の派生領域)
とがあり、本稿ではビジネス的な構造から、後者をクローズアップしたいと思っているわけです。コロナ関連商材のメーカーやサプライヤーサイドは、今回莫大な利益をたらし込んでいます。
マイピュア上人

その一方で、「禍いを活用するビジネス」も台頭してきているように思います。鎌倉時代一遍上人が令和のこの世に現れているのです。疫病と宗教の関係は昔から言われています。もちろん、〇〇教といった外見ではなく、たとえば、説得力ある講演家や癒しのセミナー講師といったスタイルで現れ、コロナの時代の不安を解消し、講師の才能ある話術でしっかり、自分の仲間を育てていきます。ワクチン禍の裏世界の最新情報も駆使しYou Tube等の動画とともに、踊り念仏で知られる一遍上人の全国行脚よろしく各地を回り「布教」活動を展開します。これは、人心を魅了するキャラクターや、信者の魂を鷲づかみにする話し方等、特殊な才能が大きな要素のように思われます。根本的には、このコロナの不安時代のビジネスマーケットをきっちり見据えている着眼は、尋常の能力でできるものではありません。信奉者としてこんな世界に足を踏み入れたらどんなにか穏やかで、救いのある人生となることでしょう。

こういう活動は、救いのあることなので、
前向きに評価すべきでしょう。しかし、私は、誰かに信仰的にすがるのではなく、もうちょっと別のあり方を求めています。それはともかく、ワクチンの「禍いをもたらすビジネス」の一方で、「禍いを活用するビジネス」もある、と考えています。

ビジネスつまり、金儲けの側面で非難したいわけではありません。世の中を回すしくみとして機能しているわけであり、需要と供給の関係構図を確認したかったところです。したがって、アメリカの製薬企業を悪の張本人として糾弾するところに眼目があるわけではありません。

その上で、「富」も「名声」も成し遂げた誰かを明らかにできればとは思うものの、
事実そういう人間や組織があったところで、せいぜいネット界で暴かれるばかりで、表の世界に出てくることはないでしょう。すでに、利益享受者側でのワクチン情報非公開カルテルが結ばれているとも伝わります。着々と事は進められているのかもしれません。「周到な計画は陰謀を装う」これが私の感想です。

梅原猛氏によれば、「19世紀における最も
優れた哲学者はニーチェであり」とした上で、ニーチェは「強い絶対肯定の意志で生きる人間こそ超人であるとし」、「ニーチェの意志を絶対肯定する哲学は、ある意味で世界支配を目指すヨーロッパの文明にふさわしいものでもありました」と述べています。このようなエクリチュールに触れますと、実存主義的な個人の「快楽」欲求や、ビジネス的な金儲け動機を持ち出さなくても、人間の形而上的な思考として西洋哲学の遺伝子を持った方々は、世界的な現状変更を良かれとして普通にアクションに及ぶのではないか、などと思ってしまいます。

「現状変更」や「文化侵略」とは、すなわち戦争の言い換えに過ぎません。この意味では真に緊急事態であることを認識する、我国の牽引者は存在するのでしょうか?
(国会議員60人程度はワクチン不接種とも伝わります。これが事実なら救われるような気がします。)
そもそも根本的におかしい、あやしい事柄は三つあると考えています。

①病原体SARS-COV-2は病原体として医学的に未証明。WHOは中国の言われるままにCOVID-19感染症とした。
(コッホの四原則での証明者なし。武漢研究所の事故の実態は未究明)

②これに対応するとされる接種薬としてファイザーやモデルナ社等はmRNAワクチンを開発した。
(①の通り武漢で発生した感染症病原体の根本がそもそも不分明。にも関わらず何故ワクチン開発が可能なのか?それに関わる起源情報のリンクを下欄に貼付、ご参照)

③日本の新型コロナウイルス感染症の病原体は不明のまま、原体SARS-COV-2が引き起こす感染症COVID-19の予防接種薬として、上記二社のワクチン接種が日本国民の間に進行している。
(大橋名誉教授は、米国製薬会社のワクチン政策を推進している厚労省の法的根拠のなさ、すなわち予防接種法への病原体名不記載、事実上の違法行政を提訴した。)

以上の文脈は「陰謀論」の存在に加担しているように受け取られるかもしれませんが、結果としてそう思われるような構造があるのではないかと申し上げたいのです。
動機づけが点火されれば(マッチ)、利権と利害の連鎖として供給が成立する大きな流れ(ポンプ)と、それに纏わって発生しかつ派生する混乱に対し、「救済」に頼ることなく「理」と「智」で最適な対応を求める思考で、禍いビジネスの世をブレークスルーできないか、と思うのです。いま、わが国は危機的状況にあるようにも見え、国民も専門家も知識人も為政者も、日本人の民度がさらされているような気がします。

ちろん、一部の、強烈な情報発信を行なったり、司法的手続きに訴えたり、「気づいている人々」の動きが希望と言えます。
「火のない所に煙はたたない」なら、火を点けた輩に負けることなく、煙に巻かれず惑わされず、一人一人が覚醒すべき時ではないかと考えるものです。


*英国の世界史上初の医薬品規制庁「MHRA」がmRNAワクチン(COVID-19対応ワクチン)の使用を承認した。





私はスキップしない

日々、マスクをつけて行動することが当たり前になっています。おかげで、初めて会った人の場合、フェイスの全貌をついに知ることなく終わることも生じています。これはもう、半顔(はんがん)時代になっているのかもしれません。
マスクは下半身ならぬ下半顔を覆ってしまいますので、加齢を表すとされるほうれい線も覆うことになります。このことは、顔のほうれい線を隠すことには資するのですが、マスクをはずした全貌が現れた時、マスク顔の印象より老けて感じられるという気がします。人の顔でも、鏡に映る自分の顔でも。

こんな効果以外に、相手と話していて声が聞きにくくなり、何度も聞き返すことになったり、表情を含めたコミュニケーションが不自由になっているのではないかといった負も感じます。何か、少し息苦しい生活が日常化しているのではないでしょうか。

しかし、この程度のことは、まだいかよう にでも対応可能であり、自分の面差し全容を見られたくなかったら、むしろマスクは何も気にすることなく、大手を振って身につけられる今日この頃というわけです。この点では、社会心理的に半顔時代は犯罪者に加担しているのでしょうか。

武漢のなぞ

バイデン大統領になってから、アフガンでの失策を脇に置いて言えば、数ヵ月前から一つ大きな期待がありました。それは、武漢発のウイルスについて、大統領が徹底調査を指示し、公表すると伝えられていた件です。そのレポートが世界に公開されたのですが、それに対する論評の冒頭部分を引用すると、

「いま全世界を苦しめるこのコロナウイルスの発生が動物から人間への自然感染だったのか、それとも武漢ウイルス研究所からの流出だったのか、を調べる調査だったが、90日の期間の調査を経ても結論は出せないという、バイデン政権らしい曖昧なまとめだった。」(産経新聞 古森義久氏)

当初からくすぶっていた疑義が白日の下にさらされるはずでした。そうすれば世界のC国に対する反発が一気に過熱することになるかもしれない、との予想も語られていました。しかし、上記のような概要となり、米国内から批判が上がっているようです。あとは、米国議会が大統領を締め上げるよう期待したいものです。ところが、この武漢の研究所にアメリカ自身が費用を注ぎ込んでいたらしく、この国の威信に関わることという意味では、簡単には公開されないのかもしれません。
また、先月、徳島大学の大橋名誉教授は、東京地裁に、今行なわれている予防接種=お注射に関して提訴するということがありました。これは、わが国の行政が音頭をとって、というか、世界や世論の同調圧力に負けてファイザー社やモデルナ社の新型コロナウイルスに向けた「ワクチンと称されるもの」の接種推進を行なっているわけですが、この政策の法的根拠がないことを訴える驚くべき内容となっています。どういうことかと言うと、要するに、接種推進のエビデンスとなるこの法律(予防接種法を見ると、病原体名の記載がないのだそうです。

法令の核心に根拠なし

今世界を騒がせているウイルスは、中国からの報告に基づいて、WHOがCOVID-19感染症(SARS-CoV2ウイルス)と命名し、アメリカの製薬会社が作った「ワクチンと呼ばれる」お注射薬は、これに対応しているものです。しかし、厚労省の法律には病原体の記述がないというわけです。日本で起きているものは、新型コロナウイルス感染症とは言っても、法案を作成した官僚は、WHOの感染症名=COVID-19(ウイルス名=SARS-CoV2)と、日本で起きている感染症とを結びつけてはいないということです。
つまり、「ワクチンと呼ばれるもの」の医療政策的な行政施策と、その根拠としての法令とは無関係ということでしょう。根拠がないというか、これは明確に違法状態であり、その上で世の中が進行しているということです。だから大橋教授は、司法的にこれを明らかにすれば「ワクチン」を止めることができると構想しているようです。

これは、一体どういうことでしょうか。私が思うに、法案を書いた官僚は、今日本で進行している感染症とCOVID-19はイコールではないと思っているか、イコールと認められないというか、または、感染症の原因が何なのかわからないや、WHOの認定したCOVID-19が何なのかわからない、という事実を表現しているということなのかもしれません。不分明なことをリアルに定着させたとも読めます。
当然、厚労大臣が「ハンコを押した」からこそ日本中接種を進めているわけです。官僚は後で問題化した時に、正確に事実を記載することでリスクヘッジしたのかもしれません。ハンコを押した責任者は重大なミスを犯したということであり大橋教授は、この不記載を見抜いたというわけです。

わかりにくいことかもしれませんが、提訴された以上、これが表面化すれば国家を揺るがす大問題となりましょう。新総理の選出、衆議院選挙が控えており、この問題はしばらくは、沈潜するものと思われます。どうなるのでしょうか、表に出てこないで葬られることになるのでしょうか?しかし、普通にはこれが露見しないわけにはいかないでしょう。週刊誌も黙ってはいないでしょう。私は期待しています。過去には薬害エイズの問題などもありました。何せ曰く因縁の厚労相起源です。

コロナ騒動に関して二つのエピソードを述べましたが、ひとつはC国への非難につなげられる国際政治の問題であり、もうひとつはワクチン行政が出鱈目であることを暴く国内の問題です。
東京オリンピック2020が終わったので、そろそろ次の北京五輪がクローズアップされるでしょう。当然、このC国での開催反対やボイコット問題が一気に噴き出すと想像されます。また、これまで何度も医療等に関して問題を起こしてきた厚労省が、また大問題にもなりそうです。いや、政治そのものも問題になり、現首相まもなく前首相の責任問題に発展する火種ともなりましょう。当然、厚労大臣も責任追及となりましょう。

私は今世界を混乱に導いているC国の動きを牽制したいのと、C国発で蔓延している
感染症の「ワクチン」問題を封じ込めたいと願っています。
後者については、例年のインフルエンザ以下の問題に関わらず、感染を煽りまくっているマスコミや、尾身会長の政治的ふるまいや、医師会の「医者魂」を忘れた動きが、新型コロナ以上の国内汚染を拡大しているのではないか、と思っています。
ですから、早くこの国の運営について正しい戦略的意思決定のできる首相を決め、2類を5類を下げ、従来の風邪と同じように、保健所を経ずともすぐ町の医者に行けるようにしてもらいたいと考えているものです。

一体何が蔓延しているのか

ここに至るまで、私が「ワクチンと呼ばれるもの」を否定的に捉えているとお気づきでしょう。しかし、ここで否定論を展開するつもりはありません(誰もが否定すべきだという論調では書きません)。この道の専門家でもないし、説得力はないでしょう。ただ、公開情報に基づいて、私自身は「ワクチン」を否定します。その上で、今はびこっている、ある状況について、自分の見方と意思を示そうとしているだけです。今、世界で、日本で、壮大な「おかしなこと」が蔓延しているように思われます。地球全体にマスクがかけられて、全貌や真相が見えにくくなっているようです。
私は「ワクチンと呼ばれるもの」というまどろっこしい書き方をしていますが、昨年からこの「ワクチンと呼ばれるもの」を疑って見ていました。ある専門家の言説に接して、以下のように理解していたからです。医学的には粗い表現になるのでしょうがわかり易く言えば、「ワクチン」というのは、自然界にある悪いウイルスを外部から人間の体内に取り込むことで、抵抗力をつけようとするものでしょう。しかし、mRNA(メッセンジャーアールエヌエー)は、遺伝子ワクチンということです。ある遺伝子操作をして人工的に作ったものを人間の体内に入れておいて、新型コロナウイルスが侵入してきた時に、その遺伝子が反応し、スイッチし、防御する、といったしくみのようです(この表現の医学的精度はご容赦!)。
問題は、これはよく報道されていますが、
十分な治験が行なわれていません。しかし、世界中があわてふためいていわば、政治的判断で遺伝子ワクチンの使用という現象が起きているわけです。アメリカでSARSやMERSの頃から研究は進められてきたらしいのですが、動物実験はことごとく失敗し、2019年に研究は止まったということです。ところがその年末から武漢発の騒ぎとなり、今や人体実験となっている状態です。ですから、これは「ワクチン」と呼べるか?という専門家もいます。概念が、しくみが、全く異なっているのです。私はこういう情報に接していたので、そもそも今回の「ワクチンと呼ばれるもの」と表現しているというわけです。

この「遺伝子ワクチン」というものの危うさですが、状況証拠的な面から言えば、ファイザー社もモデルナ社も、免責を担保しておいてからお注射薬を販売していることや、両者の幹部は自社株を売却して現金化している、という事実があります。これは、自社株が無価値した場合を想定していると推測します。少なくとも「売り時」と判断したことは間違いありません。

また、PCR検査で陽性反応を示しているのは、新型コロナウイルスの病原体に反応しているのではない、という見方があるとのことです。日本には、古来から日本の風土に土着しているコロナウイルスがあることが指摘されています。(このことは、欧米に比べて日本人の重症者の少なさと関係があるのかもしれません。)
つまり、感染症として騒がれているウイルスの中身がそもそも何なのかわからず、COVID-19に効くとされるワクチン政策が進行している、由々しき事態なのではないでしょうか。しかも、感染・発症者ではなく
検査陽性だけで右往左往しているわけですが、その陽性の内容は医学的には、全く何もわかっていないわけです。コッホの四原則という、感染症の病原体を決める目安があるようですが、新型コロナウイルスについて、そもそもまだ、誰もこの原則で証明していないということなのです。

地球がマスクしている

今、医学的に未検証のまま、世界的な大きなムーブメントが進行しています。わが国に至っては、厚労相が病原体を特定しないまま、かつ、世界と比較して死者が少ないにも関わらず、つまり、PCR検査陽性だけで感染感染と騒ぎ、病原体は法的にも特定されていないのに、SARS-CoV2ウイルスに対応する「遺伝子ワクチン」を投与するという前代未聞の霧に包まれたような怪しい現象が間違いなく展開中です。
ここは、大袈裟に空想科学小説的に言えば、宇宙人が地球に何かを仕掛けたのでしょうか。比較的影響の軽微な日本まで巻き込まれてしまっています。
「ワクチンと呼ばれるもの」そのものについては、「遺伝子ワクチン」はスパイク蛋白質にのみ対応するものの、ウイルス全容には対応できないようです。変異を続けるウイルスにワクチンが追いつくのか、の点です。この点では自然免疫に敵うものはないようです。
お注射は、血栓ができることが問題のようで、それが重症化につながるようです。また、ADE(抗体依存性感染増強)「サイトカインストーム(免疫暴走)「自己免疫疾患」等、キーワードが幾つも出てきます。さらに言われるのは2022年の冬がベンチマークになるようなのです。その上で「ワクチン」と呼ばれるものの評価は23年の春になる、ということのようです。このことは、「遺伝子ワクチン」とされるものが、変異を続けるウイルスに対応できるのかの問題にもリンクしているのでしょう。

そもそも、武漢発の新型コロナウイルスが何なのかわからない中、自然界に存在しないその遺伝子配列の人工性は、当初から言われていました。「遺伝子ワクチン」自体人為的に創作しているのでしょうから、この相関なのか、因果なのか、正に符合していませんか。私たちは、今や科学の行き過ぎに衝突してしまっているのでしょうか。人間は壮大かつ遠大な悪循環に迷い込んだのではないでしょうか。

これ以上医学的に粗雑になることを避け、
少し視点を変えて触れたいのですが、皆さんほんとによくお注射を打てるものだ、と驚いています。最近の現象を見ていて思うのは、
〇スルーする人々
〇スキップする人々
がいるのではないか、ということです。これは、全体を網羅的に捉えようとしているのではなく、特徴的なクラスターにイメージを与えようとしているものです。
スルーする人々とは、意識的に無視するという積極的なものではなく、接している情報がそもそも偏向していることに疑問を持たない層で、どちらかというと高齢者層に多いでしょう。スキップする人々とは、様々な情報があることに気がついてはいても、勤務先や所属組織等、周囲の動きと合わせていれば問題ないと考える傾向があり、楽観的に捉えスキップするように判断する、幅広く分布する層のことです。大雑把に言って選挙での投票行動に似たような構造があるように思います。しかし、選挙とは違い、命がけの選択となるかもしれません。

一般国民が、スルーしたり、スキップしたりするのはやむを得ないと思いますが、社会的影響力のあるインテリ層においても、
スルーやスキップが蔓延しているように見えます。日常彼らは、社会現象や政治問題を論評したり、思想的に牽引し、大きな影響力を持っています。しかし、仕事熱心で前向きな方や、特に国際的に活躍している方は早く出国したいので、積極的にお注射を実行しているのを見聞きし、私は驚かざるを得ません。インテリ・スキップも同時進行しているのです。専門家は自分の分野以外には恬淡なのでしょうか。

しかし、私はスキップしません。両足で立ち止まって考え、決めたのです。私はワクチンを打たないことを選択しました。

行政からも、職場でも、お注射のおすすめがやって来ています。一瞬お注射を見直そうとしましたが、再度公開情報を点検し、選択しました。その情報のうち、わかりやすく重いものは、自分のリスペクトするインテリの一握りの方はお注射を選んでいないことがあげられます。

もはや半顔時代となり、息苦しさを解消しようとして似非ワクチン行政を真に受けるのは、どうかと言わざるを得ません。これだけ多様な、大量な情報が出回っている中で、同調圧力に屈することなく、選択・判断するかは個々人に委ねられています。

リスク分散からすれば、似非ワクチンの投与は国民最大半数までとし、最悪の事態でも歩留り50%とすべきかと思います(約1億2300万人×1/2)。組織や業界単位でもリスク分散が求められます。今回、人体実験に着手される際に、この視点の発想がまったくありませんでした。このことは、医療や投資の素人の私でもわかることです。重症者の少ない日本こそ、冷静に世界に提案すべきだったのではないでしょうか。半顔時代、マスクで顔を覆う微妙な息苦しさからか、まともな判断を欠いています。良かれと思ってマスクをしている筈が、自身を見えにくくすることで自分を見失い、自己撞着に陥っているかのようです。

「神の見えざる手」ならぬ「悪魔の見えざる手」の関与などと言えば、流行りの陰謀論めきますが、そんな扇情こそ別の悪に加担することになるかもしれません。数十年後2020年代の「コロナウイルス騒動」が彼方の歴史的1エピソードになった際に、仮に具体的な犯罪者名が語られることがあったとしても、迷宮入りする性格が濃厚で、このような事象に対する人類のワクチンは、まず開発され得ないでしょう。★

補足
*感染源について
空気感染を指摘する一部の専門家がいますがフェイクです。ふんこう(糞口)感染が主です。腸にあるAES2受容体がウイルスを増殖させるからです。中国の検疫では、綿棒でお尻をチェックしている模様。

*3回目のワクチン接種について
アストラゼネカ社のワクチンは、専門家は推奨していません。仕様が異なるようです。

私が参照している見解は、主に下記5氏の専門家に依っています。
武田邦彦 (元中部大学総合工学研究所特任教授 )
・上久保靖彦(京都大学大学院特定教授 )
・井上康正(大阪私立大学名誉教授 )
・大橋  眞(徳島大学名誉教授 )
・宮沢孝幸(京都大学ウイルス・再生医科学研究所准教授)
Cf. You Tubeニコニコ動画「松田学政策研究所チャンネル」他





萌え町紀行-5赤レンガ倉庫その④

両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論

4欧米と日本
─ 赤レンガ倉庫はどう評価されるのか

そもそも「萌え町紀行」とは、観光などの一時的な訪問に基づく「紀行」と対蹠的概念として用いています。そこに住んだり、仕事で関わったり、惹きつけられたりして生成される思いや思考を書き連ねているシリーズです。私にとっての「横浜赤レンガ倉庫」は、仕事の延長上で、確か商業施設として開業した2002年に訪れたのが最初でした。私の中にさまざまなショッピングセンターのファイルがありますが、赤レンガ倉庫は格別の存在となっています。その結果として「萌え町紀行」として扱うことにしました。

この赤茶けた墓標は、1945年の横浜大空襲を看取っていた。
今回、改めて赤レンガ倉庫を訪れているうちに気がついたことがあります。それは、
私と「みなとみらい」とは、結構頻繁におつきあいしていたという事実です。古くは1990年代、パシフィコ横浜で建築家ジョン・ジャーディ氏ご本人による同時通訳での講演を聞いた覚えがあります(テーマは「キャナルシティ博多」)。最近の数年の間では、神奈川県庁(ジャック)、クイーンズスクエアランドマークプラザ、ヨコハマ グランドインターコンチネンタル ホテル、帝蚕関内ビルなど、振り返ってみれば、自分の行動履歴がスッポリ「みなとみらい」エリアに、はまっているではありませんか。2015年から4年半横浜市内に住んだことはありますが、帝蚕関内ビル以外は市内在住とは無関係の往来です。この意味では横浜のみなとみらい戦略(*①)は功を奏しているとも思われますが、赤レンガ倉庫はその中心とも言えましょう。「1温存と再生─誰が赤レンガ倉庫を造ったのか」の章で触れたような赤レンガ倉庫の魅力に取り憑かれた人々の努力は、大いに報われているということでしょう。それは、商業施設造りを超えて都市づくりとしての成果ではないか、とも言えましょう。

横浜開港資料館で何が起きた?

一方、私が商業施設として魅入られている赤レンガ倉庫というものに、深く入り込んでみようというこの企画において、現地や資料等に接しているうちに、私は「とんでもないもの」に出合いました。ひとつには
「2歴史と現代」の章で述べた、横浜赤レンガ倉庫は、1945年の横浜大空襲を看取っていた件ですが、それとは質の異なる驚天動地の体験もあったのです。
それは、横浜開港資料館でのことでした。二階は展示室になっているのですが、そもそも別料金ゾーンで入るつもりではなかったのです。ところが、二階にあるトイレに用があり、その帰りに気づかずうっかり展示室に入ってしまい、せっかくなので、そこでのパネルなどの展示資料を閲覧させてもらいました。そこでは、開港以来の近代化の足跡を表現していました。逐一じっくり見ていたわけではありませんが「横浜のまちづくりの父」としてR・H・ブラントンの紹介展示が目に飛び込んできました。ブラントンはもちろん明治政府の御雇いです。日本の灯台造りで貢献したようですが、横浜の近代都市としてのインフラ整備をこの人が行なっているのでした。横浜にとっての功績としては、
・横浜居留地と横浜港の測量
・下水道敷設
上水道計画
・横浜築港計画
日本大通りの計画施工
・電信機の導入
・新埋立居留地の造成
などなどがあり、横浜についての知識のない私としては驚くばかりであり「な~んだ横浜はイギリス人が造ったのか」と思いました。次の瞬間、一気に飛躍し、私は「日本はだめだっ!」と大いなる落胆に襲われることになりました。日本のダメさ加減はここから始まっているかもしれない、開港の頃からダメさを受け入れたのではないか?とまで感じ至ることになったのです。
日本近代化の陥穽というか、盲点というか、そのようなものを垣間見た思いがしたのでした。これだけではわかりにくいことと思います。私のブラントン体験とは何だったのか、これは私自身が解明しなければならないテーマです。
わが国は、ペリーの来航以来、開国し、近代化を進めてきたわけでした。私は、横浜赤レンガ倉庫を媒介して、その近代化の足跡を具体的に体験したということなのかもしれません。妻木頼黄による倉庫の建造はもちろん、商業施設としての建設も、欧米の理論の剽窃といっていいでしょう。わが国の流通業界は、チェーンストアにしろショッピングセンターにしろ、欧米を頼りにしてきています。「西洋の衝撃」以来の大きな歴史的な潮流ではありましょう。「近代化」はすなわち「西洋化」であり、われわれの先祖は「西洋文明」の大波に喜んで呑まれた、という言い方もできなくはありません。

「受容」と「喪失」

横浜という町のインフラ整備に貢献したブラントンさんを讃えることはいいでしょう。しかし、私は何か「変」だと感じるのです。欧米に学ぶことが問題と言っているわけではありません。欧米の「受容」と同時に何かを「喪失」または「排除」しているような気がするのです。「喪失」と言うと、もともとあったものを「受容」と引き換え的に「喪失」したという意味になりますが、そうではなく、そもそも日本にはなかったものなのかもしれません。だとすれば、深く「受容」することなく、本質的なものを「排除」したのかもしれない、ということもできます。あるいは「受容」機会に気がつくことができたかもしれない何かを看過したといった感じかもしれません。

開国後、そして戦後、わが国は大いなる陥穽を持ち込んでしまっているのではないか
そんな気がします。欧米に学ぶことが善である風潮や、それが「カッコいい」という美意識の台頭による影響のほか、敗戦後は特にひどく、GHQに牛耳られて腑抜けにされてしまった、学者、教員、弁護士、マスコミ人、知識人、専門家、デュープス等々、彼らによる現象は、今や洪水のように噴出しています。
あえて、今、コロナとともに大問題を一つに絞るとすれば、中国につきます。東西冷戦が終焉して30年が経ち、中国がのさばり出しています。当の「警察署長」面を見せていたアメリカは世界に辞表を出しているだけではなく、バイデン署長はアフガンで大失態を演じました。これは中国を利するばかり、と言われています。ほんとにこのままでは、ヤバい。
中国は孫子の兵法の国であり、サイレント・インベージョンを仕掛けており、超限戦の輩です。幸いなのは、反社、ゴロツキとしてわかりやすく振る舞っているところがあり、今のうちに、この機に、日本国民が覚醒できなければ、大和の国は早晩滅びるでしょう。敗戦に何も学ばず、今回のコロナでの政治的戦略的意思決定のなさ、誰も日本の舵取りをしていない現実。中国に、アメリカに遠隔操作されているかのようです。国家観のない政治家、幼稚園児のような野党はもちろん、与党議員もクズばかり。こんな実態だからこそ、驕ったマスコミは政治を動かせると思って、偏向報道に余念がありません。今問われているのは、われわれ国民の民度以外の何物でもないでしょう。
西部邁氏や伊藤貫氏の指摘する通り、インデペンデンス、インテグリティ、ディグニティもなく、経済だけ追い求めてきた、戦後民主主義の結果でしょう。形而上的なこととはいえ、それらの「基本の基」を語らなければならないところに、日本の程度が表れています。有効性に関わらず死守すべきものがあることはわかります。その通りだと思いますが、それは必要条件に過ぎないとも思うのです。それは基礎ではないでしょうか。素人考えですが、それだけでは中国に対抗できないでしょう。

このレールは、タイムトンネルのようなもので、「近代」へと通じています。

このままでいいか、日本

私は、横浜赤レンガ倉庫を契機に横浜と向き合い、日本を感受し、このままではダメだと思い、何が必要かと考えてみました。政治哲学の専門家や、安全保障のプロのようなそんな大それたことを考えているわけではありません。ほんとうは、半世紀ほど時代はズレてはいるのでしょうが、遅れてきた「脱構築」論で近代批判を語れたらとは思います。
わが国は、世界に追いつけのみで近代化を推進してきただけですし、「戦後」もまだ終わっていない、と私は認識しています。繰り返しますが、「戦後」は終わっていません。新たな「戦後」が始まっています。実際、新冷戦真っ只中です。
こういうなか、実に単純なことだけを述べようとしています。

中国が世界を日本を支配しようとしている
今、それを上回る「支配」をめざすしかないでしょう。そうすることでしか対抗できないのです。自国を発展させればいいだけでは片手落ちであり、競争視点をもちながら手段として方法として「支配」を構想しなければなりません。
日本が世界支配をめざすべき、と言ってはいません。戦後、経済一辺倒で突き進んできたツケが回ってきているのです。知識人から一般庶民までアメリカの占領政策は効いたままですし、また中国は政治家や官僚に深く浸透しています。ディーン&デルーカのトートバッグを持ち、スタバ(*②)でお茶する、戦後の古き善きアメリカに憧れたルサンチマンは、連綿とこんにちに至っていると思うのは考え過ぎでしょうか。天安門事件の後、中国の世界復帰を手助けしたり、日本の国土を中国に買わせるままにしたり、中国の若者が日本で学ぶことにお金を出したり、一体何をしているのか。思想で負けているだけではなく、防衛予算を増やすことも、靖国参拝もできないとは、誰に気を使っているのか。
結局「支配」を目標として戦略をもてなければ、やられるしかないではないですか。
自国を自分で守ろうとしない国をどこの同盟国が助けてくれますか。米中対立が激化した場合、アメリカは日本を中国に割譲するでしょう。一体平和ボケをいつまで続けるつもりか。「追いつけ」や「負けない」ではダメで「勝とう」としなければならないのです。「支配」とは、相手を上回るということです。こっそりと腹黒くやればいいのです。「喪失」したものとは、戦意なのか何なのか、「勝とう」とする気配がありません。

もしかしたら真底「受容」することだけが身についたのかもしれません。何のために学ぶかの大戦略視点がない?ロングレンジで遠謀深慮を張り巡らせたり(サイレント・インベージョン)、金や女でトラップを仕掛けたり、後進国を装ってODAを呼び寄せる、厚黒学なのか孫子の兵法なのか、古来伝統的に中国に学ぶべきことも多いのではなかったでしょうか。根っこのところで「勝とう」とする気がなければ、最後はやられるだけでしょう。「受容」とともに看過されたのは、このあたりでしょうか?もしかしたら、ブラントンさんは、日本の近代化に紛れて負のインフラを仕込んでいたのでしょうか?

北朝鮮に拉致された同胞を奪還する気もなく、ウイグル弾圧に非難決議もできず、憲法改正をする気もない。そのくせ、G20議長国として「世界のエネルギー転換・脱炭素化を牽引することを決意」などとほざく(日本の製造業を潰すつもりか!)。
かつてアジアに平和な国があった、そんなことになってしまうのではないか。51年前に、三島由紀夫が極東に経済だけ繁栄したちっぽけな国ができてしまったと嘆き、こんにちの様を看取していたからこそ、憤死するしかなかったのです。その通りになってしまいました。絶望は海よりも深く希望は天のはるか彼方にあったのでしょう。

支配思想と戦略

「支配」を最上位目標として、その下位に戦略を構成するのです。軍事、サイバー、インテリジェンス、宇宙、あらゆる角度からの構築が必要です。例えば対外的な情報戦略(広報)は 全くひどいものです(*③)。経済安全保障の概念も早急に国内に浸透化させなければなりません。最近、経済人で政治の問題にはノーコメントと言った経営者がいましたが、これは実質アウトでしょう。サプライチェーンやマーケットから脱中国化できなければ、早晩自滅するかもしれません。日本国内の同社も、風向きが変われば、全身への自己免疫疾患の影響のように一気に悪化するでしょう。最近松本人志がTVの番組中で「ユニクロに行きたい」とコメントしましたが、ネット界では批判されています。この風潮が世論として表面化するのは時間の問題ではないでしょうか。そしてその先には、そのショップを入店させているショッピングセンターも問題になるかもしれません。明らかに時代は動いています。
佐伯啓思教授はその著書「近代の虚妄」で
近代主義」を批評しています。以下、引用します。
「その核心には、ヨーロッパが生み出した『近代主義』がある。そして、その近代主義がいっそう先鋭的に展開され、それがグローバルな世界を作り出したのが、『現代社会』であり『現代文明』である。···(中略引用者)···そしてそのことがきわめて大きな問題を生み出した。つまり、『ヨーロッパの近代主義はうまくいかない』、もっといえば失敗したのではないか、という否定的な気分を生み出したのである。」
佐伯教授は体系的にあくまで哲学的レベルで「論」を展開されているわけであり、私の体験的実感的叙述はそんな高邁さとはほど遠いものです。しかし、私は自分の「近代化」への疑問を後押ししてもらったような気になり、先生の論述を引き合いに出させて頂いたわけです。

私の「論」は、いきなり安全保障に結びつける唐突感は否めないだろうとは思います。しかし、赤レンガ倉庫との関わりを含めて私の「肌感覚」のみを基礎に置いています。もとより哲学的な論考をめざしているものではなく、また、それができるわけでもありません。それでもなお、今語らずしていつ言うか、という切迫感に促されているという実情があります。

「近代の虚妄」の先へ

佐伯教授の著書出版は昨年の秋のことで、冒頭ではコロナの問題にも触れておられます。もちろん、哲学・思想論のスキーム内での論評です。このコロナの件については私も、赤レンガ倉庫から逸脱するように見えても、目の前にある安全保障上の危機と言う点では、一言だけ触れておきます。
ワクチンの評価は最低でも2023年の春まで待たなければならないようです。ということは2022年の冬に何かが起きるかもしれないことを意味しています。「ワクチン」と呼べないものを「ワクチン」として世界の同調圧力に負けてわが国においても投与実施する政治家、厚労相は、大きな禍根を残すことに繋がる可能性さえあると言われています。河野大臣の「妊婦への影響はデマ」などと言うのは、全く医学的知見から程遠いものです(*④)。
キーワードは「ADE」「サイトカインストーム」「自己免疫疾患」などでしょう。ワクチン打つ打たないは、選挙で誰に投票するかに似て、個人個人が判断せざるを得ないところがあります。私はこうする、とは言えても、あなたはこうした方がいいのでは、とは言いにくいものがありますし、仮に同じ情報に接していても、判断が分かれるようなところもあります。但し、この選択には命がかかっています(*⑤)。
医学的検証・治験もないものをワクチンと称し、そのリスクを押してまで実施するレベルではない状況であるにも関わらず推進するという、政治的、戦略的意思決定のない判断は対中国問題対応とまったく同じです(日本は中国に塩を送りっぱなし)。
今われわれは、政治・軍事~ウイルスの問題まで、政治家の選択について、わが命に関わる事柄として捉え、子たち孫たちに自由で民主的な国を残せるよう、リテラシーを磨かなければなりません。

さて、私にとっての横浜赤レンガ倉庫とは、わが国の近代化の体験であり、その象徴であり、同時に大きな戦略の「喪失」シンボルとして、今わたしの前にあります。かなり大きな両義性となってしまいました。また、横浜開港資料館を筆頭に、私の横浜スタディを通じていくつかの発見もありました。自分の知識が新たに書き換えられ、更新され、再構成されていく過程、これこそスタディであり、クリエイティブであると信じたいと思います。

最後に、仲正昌樹氏著「ポストモダン左旋回」に、「死者との関係を公共化する」という考え方がでてきます。横浜赤レンガ倉庫1号館では、五代路子氏が演劇「横浜ローズ」に取り組み、その中で横浜大空襲のことも出てくるようです。私は、横浜赤レンガ倉庫では、毎年イベントとしてそれに対する慰霊を横浜市ともども大々的に行なうべきと思っています。やや理屈っぽく言えば「死者との関係を公共化する」ことにつながるはずです。国内的にも意義は小さくないと考えています。今までのところ、「横浜赤レンガ倉庫」では、横浜大空襲を慰霊するイベントを行なってはいないようですが(*⑥)、近代化促進の裏側としての敗戦という大失敗を、近代化の象徴ともいうべき赤レンガ倉庫が横浜市街の火の海を見届けた以上、その慰霊の役目を負うのは当然のことではないでしょうか。「虚妄の近代」を埋葬する意味もあります。そのことにより、横浜赤レンガ倉庫の建造物としての価値はもちろん、歴史的価値もいっそう高まるのではないでしょうか。それとも、経済的繁栄だけに満足し、「画竜点睛を欠く」館として後世に伝えようとでもするのでしょうか。★

(4回シリーズ了)

注釈・補足
*①
横浜市のみなとみらい事業の陰に港湾ビジネスでの藤木企業の存在が無関係ではないでしょう。具体的な結びつきは知りません。山中新市長の誕生にも影響力があったようです。
*②
スタバもディーン&デルーカも日本法人ですが、アメリカイメージを売っています。源は西洋文明ということになるのでしょう。
*③
日本も安全保障に関してある程度は行なっているのですが、インテリジェンスが弱いのと、軍事予算が少な過ぎるように思います。自衛隊の人員確保も問題があるし、核についても積極的に推進すべきでしょう。国家観のない政治家、インテリが多いのは、教育の問題に行きつくのでしょう。ちょっと骨がありそうに見えた河野太郎大臣でしたが、女系天皇容認論が出てきてお里が知れてしまいました。
*④
コロナに対する指摘の根拠は、大阪市立大学井上正康教授の見解に基づいています。
*⑤
リスク分散からすれば、似非ワクチンの投与は国民
最大半数までとし、最悪の事態でも歩留り50%とすべきかと思います(約1億2300万人×1/2)。組織や業界単位でもリスク分散が求められます。
製薬会社が免責取得の上で販売する薬品とは、似非であることを裏づけるようなものです。ファイザーのCEOは、自社株を売却しています。医薬品を免責の上で売る一方で、その自社株を現金化するとは、ユーザーの命と引き換えに金儲けする構図に見えますが、どうなんでしょう。株が売り時と判断したことは確かでしょう。モデルナの幹部も株を売却、現金化している模様。現金化の意味が自社株の無価値化のリスク回避ではないでしょうね。危うい世界的な人体実験が今まさに進行中です。
*⑥
株式会社横浜赤レンガへのヒヤリングではそのような回答でした。

参考文献・資料
・『横浜まちづくりの父』浜開港資料館
・「虚妄の近代─現代文明論序説」佐伯啓思著─東洋経済新報社
・「ポスト・モダンの左旋回仲正昌樹著─作品社


萌え町紀行-5赤レンガ倉庫その③

両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論
3美と思想
─なぜ赤レンガは惹きつけるのか

明治、大正に造られた赤レンガ倉庫が、保存、復元、再生というプロセスを経てこんにちまで至っているわけですが、そこには建築物としての価値や、横浜港発展の記憶など、なんらかの意義を見いだしているからでしょう。その中であえて赤レンガの美に着目してみれば、関わる人々の共通認識として、その美を語ることはそうズレてはいないのではないか、と思われます。
たとえば、宗教を布教する場合は、教えたり、説いたりすることなしには進まないと思いますが、赤レンガは宗教であったわけではなく、政治運動であったわけでもなく、ただただ人々はその美を共有していたのだと思います。ハナからです。「赤レンガは美しい」という美意識があったからこそ、受け継がれたのでしょう。しかも、時間がかかっても、保存への動きは揺るがなかったのです。それは「美」という共通認識があったからではないでしょうか。

明治時代とは

とはいえ、そもそも煉瓦による西洋建築を導入した明治という時代を見ておかなければと思います。「美」そのものより「美意識」ということでは、この頃は官民あげて西洋・米に学ぶことがいいことだという価値観が趨勢だったと考えられます。
赤レンガ2号倉庫(*①)を設計した明治の建築家妻木頼黄(よりなか)は、1882(明治15)年ニューヨークのコーネル大学に入り、その後ヨーロッパにも渡り勉強しています。明治政府としては、近代的な都市を建設することを急務と考えていたようで社会インフラの整備上、頼黄も学んだ虎ノ門工学寮(後の工部大学校)の「造家学科」への期待は大きく、日銀本店や東京駅を設計した辰野金吾(*②)なども輩出しています。

こうした動きとは逆に、イギリス、フランス、ドイツなどから外国人を大量にわが国に迎え入れることが国策として行なわれていました。「御雇い」と呼ばれる国費での招聘です。その分野は政治や法律や産業や教育などなど明治8年のピーク時には500人を超えていたようです。その一例として言えば、辰野金吾の師となり日本建築界の父と呼ばれるジョサイア・コンドルがいました。ちなみに、妻木頼黄は辰野金吾の5歳後輩になります。

「御雇い」によるにしろ、日本人自身が出向いての欧米技術の習得にしろ、明治政府の凄まじい近代化への意志があったことは間違いないでしょう。いわゆる、「文化移転」が進められたのです。

神奈川県立歴史博物館
このことから赤レンガ倉庫を見てみる時、赤レンガの美に捕えられていた、という側面とともに、その機能を構築する技術に躍起になっていたというべきであり、その意味では赤レンガ倉庫は時代思想のシンボルともいえるでしょう。妻木自身による横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)はじめ、付近の横浜開港記念会館(*③)やら、による日銀本店・東京駅など、昭和初期までを含めた建造物群を象徴させての捉え方です。あえて言えば、赤レンガ倉庫の「美」は後世の意識に継承され商業施設となり、倉庫建設の時代は当時の時代の「思想」を反映しているのではないか、という気がします。ここでも両義性は内在しています。

私が、「横浜赤レンガ倉庫」に感じる美とは、外観的にはその優美さです。しかし、それ以外に内面的なものを感じています。一つには内装面についてですが、商業施設としての赤レンガ倉庫造りでは、外観同様にこの内装面についてもかなりな傾注があったと理解しています。建築家、新居千秋氏や株式会社横浜赤レンガ、村澤社長などの取り組みにそれが見られるわけです。
ショッピングセンター(SC)としての赤レンガ倉庫の設計者新居氏は、倉庫の設計者妻木の思想を受け止めるのに「空間」の理解に努めたようです。現代日本を代表する建築家の磯崎新氏なども、 特に赤レンガ倉庫に関してというわけではありませんが、「間」へのこだわりを語っています。
この辺りになると専門的な領域に入りつつあるという気がしますが、私は、SC横浜赤レンガ倉庫について、谷崎の『陰翳礼讚』の指摘がないことを怪訝に感じています。前章「2歴史と現代」で触れたように、私は照明の効果に魅せられていますが、ここに至るまで特にそれに触れた著作物には邂逅していません。同時に、「陰翳」についてもです。『陰翳礼讚』は日本の建築界にも影響をもたらした筈です。「空間」や「間」や「陰翳」は、甚だ興味深いネタと感じられます。前回記事の繰り返しになりますが、陰翳の構成にとって、横浜赤レンガ倉庫の照明に昼光色の許容はいかがなものかと申し上げます。
さらに、妻木は倉庫の屋根に三州瓦を用いていて、石居氏もこれを踏襲しています。
構造に関わる大きなことではなく、ディテールというほど細部でもないように思いますが、瓦という素材や、陰翳の活用は和洋折衷というアクセントになっているのではないか、と考えられます。
そもそも、「赤煉瓦の優美さ」と表現していますが、赤煉瓦を使った建築物は無数にあるわけで、三階建てや全長150㍍(特に2号倉庫=現2号館)からくるボリューム感や、屋根・窓の装飾的デザイン性がありながら、全体としてはシンプルで、質実剛健、横浜港の「主」といった容貌を呈しています。ランドマークタワーは未来を志向して夢見るように空をつんざき、赤レンガ倉庫は過去を遡及して歴史を封じ込めています。
知の衝撃

また、赤レンガ倉庫の内面的な美として、
私は「換骨奪胎」を感じています。芸術作品で行なわれるようなそれを想うのです。
ポピュラーな事例を援用すれば、三島由紀夫の「金閣寺」は放火という通俗的社会的な事件を、真に芸術の名に値する文学作品にまで昇華してしまいました。それと同等のクオリティを感じています。三菱地所の建築家野村和宣氏がその著『生まれ変わる歴史的建造物』で触れている、「歴史継承とは創造である」と言われるようにです。
赤レンガ倉庫が「横浜赤レンガ倉庫」という商業施設になるとは、トランスフォーメーションであり、蛻変と言えると思います。建築業界のコンヴァージョンの一言で済ますには惜しい何かがあります。ここに私は一種の「美」を感じるものであり、すぐれた小説を読む時に得られるものに似た感銘を受けるものです。ありがちな無難な博物館などへの転用をよくぞ退けてくれた、と思います。
こういう言い方が正鵠を射ているかはわかりませんが、建築の世界は「脱構築」など哲学的領域というか、言語空間と浸潤し合っているところがあり、赤レンガ倉庫から醸し出されてくるものに、そのような大いなる「知」の「衝撃」も感じています。

現代の建築家、野村和宣氏の著作『生まれ変わる歴史的建造物』は、副題の「都市再生の中で価値ある建造物を継承する手法」とあるように、横浜赤レンガ倉庫のような建造物を繙くにはうってつけの内容となっています。赤レンガ倉庫を念頭において読み進めることで、まるで赤レンガ倉庫の復元・再生作業に立ち合うかのようです。
事例紹介の章で日本工業倶楽部会館について叙述されていますが、この小見出しの展開を見ただけでも、建造物の再生クリエイティブに望んだような臨場感に見舞われます。小見出し部分だけでも以下引用羅列してみます。

〇創建後まもなく関東大震災を経験した建築
〇会館の歴史的意義
〇外装の歴史的評価と所在
〇内装歴史的評価と所在
〇構造躯体の安全性の評価
〇内外装の維持と火災安全性の評価
〇原位置での会館機能の維持と敷地の高度利用
〇用語の定義
〇時点
〇位置
〇範囲
〇保存修復、復原の考え方
〇整備(改変)の考え方
〇事業性と諸制度
〇躯体保存の範囲による10案の検討
〇実施設計に反映するための二次調査
〇躯体を守り強化する構造計画
〇大階段と広間のつながりを残す防災計画
〇躯体保存範囲の免震化工事
〇古材を残し再現材にオーラを伝達させる外装の継承
〇伝統の職人技が光る内装の継承
〇歴史的建造物の背景として調和するタワーデザイン
〇新たな倶楽部施設機能の導入

実際に赤レンガ倉庫の場合が全く同じプロセスとは言えないでしょうが、似たような手続きが踏まれたことでしょう。私はここに流れている建築家の営為に、この合理的展開、論理的追究に、ある種カタルシスのようなものを感じるのです。これは、いわば歴史的建造物の再生作業を紙の上で再現したドラマとも言えましょう。建築ってこんなに面白いものだったのだ、そんな驚きさえ感じます。
しかも単なる新築ではなく、復元・再生の中に、歴史への顧慮と、現代のあらゆる制約の超克という両義性を備えています。

このような思考を赤レンガ倉庫にトレースしてみる時、現代の「横浜赤レンガ倉庫」という具体的なハードウェアの中から、まだ言説化されずにある、壮大なソフトウェアの物語が立ち上がってくるようにさえ思われます。イメージとしては、上述した野村和宣氏の日本工業倶楽部会館についての
エクリチュールのようなことです。私が感じた「知」の「衝撃」とは、こういった内容だったのではないか、と思っています。
これは、壮大な建設のドラマです。建築物の建造を逸脱して、そこにはまだ書かれざる未完の大作、まだ原石のフラグメントが散逸しているようにも見えます。

破壊と創造

一方、三島由紀夫の「金閣寺」は破壊のドラマです。木造建築の日本的歴史建造物(国宝)を焼失させることによって、主人公の溝口は己れに立ち向かい、自らを回復させ、人生を再生しようと意図したのではないでしょうか。溝口は金閣寺の美に圧倒され、押し潰されかかっていたのであり、事故で急逝した鶴川のように死ぬこともなく、惨めな戦後とともにおめおめと日常に無聊をかこつだけだった。「金閣を焼く」ことによって金閣を支配し、時代を超え、活路を見いだす、それが犯罪として文化を毀損する小説の文学的意味です。三島は歴史的建造物の破壊に、小説としての価値を創造しました。
一方は破壊、もう一方の赤レンガ倉庫は創造と、ベクトルは全く逆なのですが、建造物の構築とは別に、思想の具現化ドラマが存在しているのではないか、と思っています。このことを併せて横浜赤レンガ倉庫に見入る時、赤レンガの色合いの深みは増すばかりに感じられます。

横浜大空襲時の記録写真にも、赤レンガ倉庫はその佇まいは変わることなく写し出されています。
マチエールとしての煉瓦は、焼き込まれることによって製造されるようです。煉瓦の「煉」自体にすでにそのような意味がうかがえます。おそらく横浜大空襲の焼夷弾(※④)を受けても、燃えなかったのかもしれません。しかし、旧外国人居留地への攻撃を、米軍は避けたようです。無被災エリアと重なるのです。古地図に「山下居留地」と「山手居留地」が見えることから、明らかに除外されたと思われます。
国際条約違反であるアメリカによる横浜一般市民への「放火」を、焼き締められた赤煉瓦の倉庫がそれを見届けることになったとは、いわく言いがたい因縁です。この視点から赤レンガ倉庫を見る時、その優美な「赤」に何を感じ、何を思うかは、複雑極まりない感情の波の寄せ返しが生じるかのようです。
この年1945(昭和20)年は、日本国じゅうに大放火が行なわれました。それを免れた代表として京都を浮かべることはたやすいでしょう。大阪大空襲も何回にもわたって敢行され、京都は隣でそれを見届ける存在になりました。こういう図式で考えると、横浜の無被災エリアは、市内とともに東京大空襲、長崎、広島をも看取ったことになります。
ここに至って、アメリカへの呪詛へと書き進めるのは容易ですが、「事」はそれほど生易しいものではない「深淵」が、その端緒をのぞかせ始めているように感じられます。横浜赤レンガ倉庫を、わが国の戦禍を見届けた存在だけが奏で得るレクイエムとして犠牲者に捧げるとともに、あの優美さに負の歴史も継承するわれわれの熱情の印としたい、とでも言うしかありません。その記憶は、保存されなければならないし、復元されるべきだし、再生されなければならないのです。

折しも、今は2021年8月。「東京オリンピック2020+1」が崇高な意志によって遂行され、そして、あの忌まわしい8月15日がまたやって来ました。★

(続く)

●注釈
※① 1号倉庫の設計は大蔵省臨時建築部、施工は原木仙之助。
※② 明治の三大建築家とされるのは妻木頼黄、辰野金吾、片山東熊。磯崎新氏によれば、表現の文脈は異なるがジョサイア・コンドル辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵を位置づけている。
※③ 横浜市開港記念会館は50周年事業のコンペによって公募設計が為された。
※④ 焼夷弾アメリカが日本の木造建築を放火するために考えたもので、ゼリー状にしたガソリンが詰まっているらしい。

参考文献・資料
・「生まれ変わる歴史的建造物」都市再生の中で価値ある建造物を継承する手法─野村和宣著 
・「明治の建築家·妻木頼黄の生涯」─北原遼三郎著
・「ジャックの搭 100年物語」─神奈川新聞社
・「建築用語図鑑 日本篇」─オーム社
・「幕末·明治の横浜 西洋文化事始 」─斎藤多喜夫著 明石書店
・「日本建築思想史」─磯崎新太田出版
・「横浜・歴史の街かど」─横浜開港資料館

●全体構成と現在地
両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論
1温存と再生
─誰が赤レンガ倉庫を創ったのか
2歴史と現代
─なぜ倉庫を造ったのか
3美と思想
─なぜ赤レンガは惹きつけるのか
4欧米と日本
─赤レンガ倉庫はどう評価されるのか

●補足
前章「2歴史と現代─なぜ倉庫を造ったのか」のなかで、『横浜赤レンガ倉庫物語』P62に基づき生糸が赤レンガ倉庫から出荷されたのだろうと述べましたが、出典である『横浜赤レンガ倉庫物語』の別ページP234にはそれを否定する記述が出てきます。文献内の矛盾を指摘したいわけではなく、もっと精査しないと明確なことは言えないと思っています。
また、私は輸出が多かったのだろうと書きましたが、同一本に赤レンガ倉庫は輸入品の保管が多かったと記載があります。さらに、わが国のこの時代の貿易は輸入の方がまさっていたようです。







萌え町紀行-5赤レンガ倉庫その②

両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論
1温存と再生
─誰が赤レンガ倉庫を創ったのか
2歴史と現代
─なぜ倉庫を造ったのか
3美と思想
─なぜ赤レンガは惹き付けるのか
4欧米と日本
─赤レンガ倉庫はどう評価されるのか

2歴史と現代
─なぜ倉庫を造ったのか

横浜赤レンガ倉庫の歴史を考えてみると、
大きく四つに区分されるのではないかと
思います。

・倉庫の歴史
1907(明治40)年、2号倉庫着工から敗戦を経て1956(昭和31)年、米軍接収解除の頃まで
・保存~復元の歴史(市が価値温存に舵を切った時期)
1965(昭和40)年、横浜市6大事業発表の頃から
1999(平成11)年、保存・活用コンセプトを決める頃まで
・再活用の歴史(SCとして完成させるまでの時期)
2000(平成12)年、商業施設として内装工事に着手
2002(平成14)年、横浜赤レンガ倉庫としてリボーンするまで
・SC開業以来の歴史(オープン以後の時期)
2002(平成14)年、オープンから
2021(令和3)年、今日に至るまで

倉庫という物件も、人間や自然の影響に晒されないわけにはいかず、特に「苦難の歴史」もあるのですがそれは後段に触れます。まず倉庫という機能は何を意味しているのでしょうか。
北側の2号倉庫の竣工は1911(明治44)年南側の1号倉庫は1913(大正2)年となっていて、この時代は日露戦争の勝利気分の中にあったようです。

外貨を稼ごうという波

人間は何かうまくいった時、次へ向けて前向きに積極的になれるものではないでしょうか。日露戦で勝利した日本は、将来へ向けて物流体制として、港湾整備をしなければと考えていたようです。「富国強兵」や「殖産興業」政策の流れです。横浜の新港埠頭計画が推進されていきます。
要は、貿易を活発化させるために新港埠頭に造られたのが赤レンガ倉庫だったわけです。輸出と輸入によって日本を豊かにしようと目論見されていたのでしょう。物品の中継基地として保管機能が役立ちます。輸出に重点があったかもしれませんが、帰りの船がからっぽではないでしょう。物が入ってくると同時に情報も入ってくるわけですから、貿易振興によって外国文化も入ってきます。横浜にはそういう異文化の窓口イメージがあるのではないでしょうか。
また、保税倉庫として貿易の振興と発展に大いに意義があったようで、検品や輸入申告の機能を担っていました。 北側の隣には税関事務所もありました。
当時、貿易港として横浜と神戸はライバルとして競っていたようで、その点国内的にも、赤レンガ倉庫を含め新港埠頭工事は、横浜の期待を担っていたものと思われます。
桜木町駅前の大通り(東口)を渡るとすぐ赤レンガ倉庫へ向かって鉄道レールが路面に残されています。それに沿って汽車道としてプロムナードになっています。ちょっと凱旋門のようにも見える、「ナビオス横浜」を突き抜けていきます。
このプロムナードを歩いてきて、少し遠くから凱旋門の中に見える赤レンガ倉庫というのもなかなかです。接近とは逆にずっと退いて行って試してみましたが、コスモワールドを越えてランドマークタワー動く歩道からもこの構図で赤レンガ倉庫を小さく見ることができます。
鉄道レールは2号館前にも敷設されたものが残されています。国内から群馬の生糸などがこの鉄道を経て海外へ渡った帰りには、葉たばこ、羊毛、洋酒、食料品などが持ち込まれたようです。それらは異国情緒に溢れていたことでしょう。

ピカピカの近代的倉庫

そもそも赤レンガ倉庫は、倉庫機能とともに防火戸、スプリンクラー等、防火設備も当時としては最新だったようです。屋根上に突き出した避雷針も西欧臭さを放っています。荷物用のエレベーターもありました。これは今でも、塔屋とモーターを見ることができます。特筆すべきは、建築物としてのアンフィラード構造があります。廊下がない造りで、部屋と部屋を往還するために、連続して一気通貫になっているのです。くり貫かれた出入口を通して150メートル奥まで見渡せ、ちょっとおもしろい構図なっています。これは、今は写真で見るしかありませんが。
倉庫とはいえ、その機能により横浜の日本の近代化を一身に担っていたことと同時に、倉庫自体も画期的な近代の匂いをまとっていたと言えましょう。

先に四つの年代区分で赤レンガ倉庫を見たわけですが、倉庫として誕生した最初の区分の時代が70年近くにもなり、もっとも長くなっています。
この間、関東大震災で1号倉庫が半壊するというできごとがありました。現在2号館と比べ、1号館の長さが短くなっているのは、このせいだということです。
また、敗戦後米軍に接収されてしまい、
1956(昭和31)年の解除まで、そもそものわが国の趣旨に沿った倉庫機能は果たし得なかったと見られます。何しろ米軍が港湾指令部として牛耳ったようです。赤レンガ倉庫も時代の波にさらされたわけです。この時代を「苦難の歴史」と言わずして何と言いましょうか。

横浜大空襲があったとは!

さて、今回赤レンガ倉庫にじっくり向き合ってみようと思ってから、私は一つ気になることがありました。それは、赤レンガ倉庫は空襲を受けなかったのだろうと思いつつ、その真偽がわかりませんでした。東京大空襲はよく知られていますが、横浜はどうだったのだろうということです。私の無知を表すだけですが、「横浜大空襲」の検索は一発でヒットして驚きました。横浜も大空襲を受けていたのです。

ウィキペディアによれば、1945年5月米軍B29の焼夷弾攻撃で中心市街地が壊滅したとのことです。焼夷弾で木造住宅の燃え進み方などを実験する狙いがあったともされています。一般市民を巻き添えにしたということです。鬼畜の米軍らしいやり方ではありませんか。
この年の8月には、トルーマンが我が国に原爆を落とすわけですが、すでにここにその可能性は出ていたわけです。「実験」で日本人を大量虐殺するというその鬼畜の本性です。それは、アメリカ大陸でインディアンを皆殺しにした民族のDNAがどす黒く連綿と繋がっています。

横浜で焼夷弾の攻撃を受けなかったのは、
山手地区と山下公園付近だけだったようです。つまり赤レンガ倉庫は、空襲を受けなかったわけです。
ここに至って私は、赤レンガ倉庫の別の意味が大きく迫り上がってくるのを感じずにはいられません。赤レンガ倉庫が残ったという意味は、横浜大空襲の記念碑、シンボルになってしまったという側面です。8千人から1万人とも言われる一般市民の死者の霊を引き受けていることになります。横浜赤レンガ倉庫が戦争遺産などとは聞いたことがありませんが、歴史的事実としてこれは見逃せない一大事です。私は、今となっては、赤煉瓦の優美な色を、もはや優美さだけに浸って見ることはできません。あの赤には別の意味も明らかに存在していることになるのですから。赤レンガ倉庫とは
海を望む大東亜戦争の墓標になってしまった!

戦争遺産としての赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫に「戦争」と「平和」のテーマが隠されていたとは、こんな両義性は全く構想外のことです。頑強な大きな倉庫に、アンフィラードのかなたに、見えない歴史的荷物が厳然とし存在していたことになります。横浜市は今からすぐ、戦争遺産としての視点からも赤レンガ倉庫を語るべきでしょう。当時亡くなった多くの人々の慰霊は為されなければなりませんし、この悲惨な歴史は語り継がれなければなりません。それなくしてどうして焼き殺された方々が浮かばれましょうか。
「キング」「クィーン」「ジャック」(※注①)を率いて海に迫り出した「横浜赤レンガ倉庫」は歴史遺産であり、公共性を担ったモニュメントでもあり、みなとみらいの、横浜のシンボルとして、こうした使命を担っていると私は思います。

上から時計反対回りに。
キング=県庁本庁舎、クィーン=横浜税関、ジャック=横浜市開港記念会館
私はこの章ではないところで書こうとしていた事柄があります。それは、赤レンガ倉庫の外からレンガ壁の窓奥に見えるライトの優しい、温かい明かりのことです。赤レンガ倉庫を想うとき、赤煉瓦の優美さとともに、窓奥に映る明かりに得も言われぬ癒しのようなものを感じます。照明としてはダウンライト(※②)の効果だと思いますが、山小屋のカンテラやランタンを思わせるこの照明プランを高く評価しています。赤煉瓦との調和を計算したセンスに喝采を贈ります。そして今、温かいうるおいの明かりが、95年前に焼け死んだ横浜市民の慰霊として鎮魂として、穏やかにともし続けられるべきと思います。その意味でも、明かりの色合いはオレンジがかった電球色は厳しく統一されるべきだし、一部のテナントに許容している昼光色は、デベロッパーの堕落以外の何物でもありません。照明効果に、新たな意味合いを添えて、今ここで語るべきと思い直したしだいです。
横浜赤レンガ倉庫は、商業施設として経済的に成り立てばよい、という一般のSCと同じでいいわけがありません。横浜の歴史を否応なく背負ってしまっているのです。ここにもこの館の両義性が見られます。

やや逸れますが、このような町の歴史を自覚し、どういう形かでSCに取り込むセンスは今デベロッパーに求められていると考えます。商業施設はそんな公共性を担っているのです。横浜赤レンガ倉庫のような大きなテーマ、エピソードでなくとも、ネタは豊富に転がっています。何しろ皇紀2681年のこの国です。些細な事例を出してみましょう。ここにモール型ではないものの、そこそこのGMSゼネラルマーチャンダイズストア=総合スーパー)があるとしましょう。客用出入口についての、その呼称です。南側の出入口に「〇〇神社側口」と名付けられその呼称が使われていたものが、「〇〇神社」と言ったところでお客はわからないということで、その呼称をやめてしまうようなことがあります。しかし、その神社とは、北条氏ゆかりの神社だったりするわけです。「わからないからやめる」では、見識がなさすぎます。ここは、「〇〇神社側口」にこだわって、使い続けるべきです。これは、価値観の問題であり、国家観、歴史観の識見であり、思想でもありましょう。使うことでむしろ知ってもらうべきなのです。公共性のある施設は、日本中こうした役割を担っていると思います。以前「仲木戸」の駅名を廃止した京急電鉄を私は批判しました(※③)。

閑話休題。文字通り倉庫として機能してきた赤レンガ倉庫ですが、1965(昭和40)年頃になるとコンテナの登場によって赤レンガ倉庫の機能は急速に萎んでいったようです。コンテナ自体に倉庫機能があることや、接岸しやすさなどで、赤レンガ倉庫だけに頼る必要がない時代の波が押し寄せてきていたようです。
その一方では、横浜市の都市づくりのための6大事業の発表があり、これがみなとみらい21事業に繋がっていきます。これが
前回記事で触れた赤レンガ倉庫の保存・復元の時代になっています。

復元・活用というクリエイティブ

「1温存と再生」の章で、過去の建築物を単に保存するのではなく、復元の作業もあったことに触れ、そのことにより「価値温存」を図ったと指摘しました。このあたりについてもう少し掘り下げてみたいと思います。というのも、ここが一般的な商業施設にはない部分だからです。
野村和宣氏著の『生まれ変わる歴史的建造物』によれば「一方で、使い続けるためには、まったく手を加えないで残すことはできない。歴史的建造物に向き合う関係者は、生き抜いてきた建築をリスペクトし、価値とその所在を認識し、抱える課題を把握し、できるかぎり継承に向けた努力をすべきである。」(同著P15)と述べておられます。赤レンガ倉庫においても、このような努力が為されています。関わった建築家新居千秋氏の考え方に全く同様の符合が見られます。「妻木頼黄(よりなか)という明治の大建築家は、赤レンガ倉庫という空間に何を残したのだろう。妻木頼黄という人を理解し、妻木がこの建物に託した〝気〟を理解できなければ、この建物に手をつけることはできないと新居は考えた。」(『横浜赤レンガ倉庫物語』P114)とのことです。
明治の建築家妻木頼黄が赤レンガ倉庫に関わり、現代に至って新居千秋氏がその継承者として、魂のバトンタッチが行なわれたと言ってもいいのではないでしょうか。私は、ここに建築のクリエイティビティの一端があると感じます。赤レンガ倉庫の活用とは、壮大な建築のドラマでもあると言えましょう。

「町づくり」という文脈

建築物と言うとどうしても建築家が脚光を浴びますが、それが極めて重要なことは何も変わりません。ただ、横浜赤レンガ倉庫の場合で言うと、新規のSC開発と違って歴史的な建造物の再生が伴っていること以外に、俯瞰的プランの側面が存在しています。価値ある歴史的な建造物の再生、例えば、野村和宣氏が関わった三菱1号館や歌舞伎座の再生作業は「町づくり」視点はあるものの、どちらかと言えば建築物単品がテーマと言えるかと思います。横浜赤レンガ倉庫の場合は、横浜みなとみらい事業という都市計画の一環という、上位概念の大テーマがあることを忘れるわけにはいきません。このように考えると、横浜赤レンガ倉庫の事例は、商業施設開発と都市づくりが「がっぷり四つ」に組み込まれたケースとも言えます。

その点では、横浜市港湾局や都市計画局、株式会社横浜みなとみらい21や、株式会社横浜赤レンガの面々の関わりは、非常に大きなものであったことは疑いありません。復元における竹中工務店の力量などとともに、これらの組織の方々については、それこそプロジェクトX的なエピソードは山ほど出てきます。一つだけ触れておきます。それは、株式会社横浜赤レンガ社長の村澤氏がSC先進国であるアメリカのファニエルホール・マーケットプレイスを視察した際のことです。昔の建物を保全し、商業施設として利用しているので、赤レンガ倉庫と似たような事例として参照したようです。ここで村澤社長は、重要な示唆を得ることになります。それは、赤レンガという外観を活かすべきという判断を得たことです。当のマーケットプレイスは、多くの飾り物がせっかくのレンガ建築の外壁を殺していることを発見したのです。

妻木頼黄が残したもの

本章の「なぜ倉庫を造ったのか」という設問は倉庫機能の時代ニーズを引き出したと思いますが、設計者に視点を置き妻木頼黄は「なぜあのような倉庫を造ったのか」と敷衍すると、この倉庫の建築価値が照射されるのではないでしょうか。妻木のこだわり、それを歴史的な価値の充填にあったと言ってしまえば、そのことが後世の保存・復元意欲を招き、本人の意図にはないことながら結果として、次世代にわたって今後も永遠に横浜大空襲の霊を見守る役割を持ち得た、あるいは持ってしまった、そう私は考えています(注④)。★

(続く)

※注① これらが焼夷弾を浴びなかったのは、外国人居留地のエリアという面があったからかもしれませんが、木造建築の燃やし方実験意図の作戦があったからです。したがって、赤レンガ倉庫を始めとする歴史的建造物群は、アメリカの思想の痕跡でもあります。このことを憎悪をもって語ることは易しいのですが、われわれはこれらの建物を「素敵」と感じているでしょう。ここ、重要です。
※注② ダウンライトの一種と思われます。スポットライトかも…。
※注③ 仲木戸云々…。
※注④ 横浜赤レンガ倉庫では、1号館や、広場で様々なイベントが企画されますが、横浜大空襲に因んだものは行なわれていないようです。

参考文献・資料
・「生まれ変わる歴史的建造物」都市再生の中で価値ある建造物を継承する手法─野村和宣著 日刊工業新聞社
・「ことりっぷ」─(株)横浜赤レンガ発行
・パネル展示資料─横浜赤レンガ倉庫1号館1階




萌え町紀行-5赤レンガ倉庫

ショッピングセンター(以下SC)を「萌え町紀行」として語るには、少し整理が必要と感じています。
シンプルに考えてSCを語るとは商業施設をテーマとして論ずることに他ならず、直接的には町の話ではないわけで、そこ、どうよ、という疑問です。しかし、それに答えるには、結局本論に入らざるを得ないと思いますが、事前にひとつだけ言うとすれば、私は町とSCを分けて捉えてはいません。SCは町の文脈に位置づけられるべきものであり、そこを読み解くことが醍醐味でもあり、特に赤レンガ倉庫については、横浜を語ることに直結しているそこを拾い上げることで、その答えになればと考えています。いわゆる、売上げやら来館客数やらテナント構成等々の業界的な商業施設論を展開するつもりは毛頭ないということになります。

両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論

2002(平成14)年開業ですから来年は20周年を迎えることになります。以前SCの集客論の中で同SCに触れていますが※①、この館の惹き付けて止まないものは何だろうかと思い、また考え続けてきました。
新しいSCがオープンすると、期待を胸に訪れたりもしています。もちろん、細大漏らさず見果せているわけではありません。南町田グランベリーパークについてはもう一度訪れさせるものはなく、丹沢方面の夕陽と鶴間公園が印象的でした。渋谷スクランブルスクエアについては渋谷キューズが核心と見ましたが、落胆を禁じ得ませんでした※②。規模の大きさが本質であるはずもなく、湘南T-SITEはいい感じではあるのですが、何かが欠落しているように思えます。若葉ケヤキモールなどは業界の玄人筋が好むという説もあり、そういう点で湘南T-SITEは評価が高いのでしょうか。新たな町をまるごと造ってしまったかのような六本木ヒルズについては、毛利庭園や妙経寺の配置、ジョン・ジャーディ氏によるもともとの傾斜地形を活かす思考に、歴史へのオマージュを感じさせます。キャナルシティ博多については、ジャーディ氏により有名なったオーバーハングの壁構造などより、同SCから隣接地へ入った途端、私は櫛田神社に立っていることに気づき、このキャナルと同神社とのコントラストにこそ、博多のそして福岡の豊かさを知る思いがしました。
横浜赤レンガ倉庫」に対する私が得たひとつの結論は、「両義性の館」というものです。この赤レンガ倉庫を超えるSCが出てこない中、私は否応なしにこの館にのめり込んでみたいと考えています。しかし、それにしてもどこから、どう解き明かせばいいのでしょうか。建築のプロでもなく、まちづくりの専門家でもない輩に何ができると言うのでしょうか。それでも駆り立てて止まないものがある、赤レンガ倉庫とは私にとってそういう存在です。ランドマークタワーの高さはないけれども、それは、圧倒的な存在感で立ちはだかっています。

四つの着眼点で構想しています。
1温存と再生
─誰が赤レンガ倉庫を創ったのか
2歴史と現代
─なぜ倉庫を造ったのか
3美と思想
─なぜ赤レンガは惹き付けるのか
4欧米と日本
─赤レンガ倉庫はどう評価されるのか

1温存と再生
─誰が赤レンガ倉庫を創ったのか

「赤レンガ倉庫」と言う場合、当初造られた倉庫という側面と、2002年に開業した商業施設という側面があり、このことが両義性の一つを形成しているわけですが、ここを明確にして語らなければ、と思っています。まず、この章では、SC「赤レンガ倉庫」を創ったのは誰か、という設問から始めます。

以前倉庫だった物件を商業施設としてリユースした企画であることは、特に情報や知識がなくても、誰にでもわかることだと思います。私自身もそう思い続けてきましたし、そこにおもしろみがある、とも感じてきました。同時に誰がこの商業施設としての建築物に関与したのか、ずっと気になっていました。倉庫として造られた状態を大半使えたとしても、誰か最低でも一人「監修者」として、商業施設としての設計に関わった人がいるはずだと信じていました。

関与した建築家とは

このいわく言い難い美を備えた館に対して、私をさらに一歩引きずり込んだのは、「この館は現代の建築基準法等のコンプライアンスをクリアする技術的裏打ちが施されている」という事実を知った際のインパクトによるものだと振り返っています。言われてみれば当たり前のことではありますが、気がつかなければ気がつかないで過ぎてしまう部分でもあります。この時から「横浜赤レンガ倉庫」は、私を深く魅了しているのです。目に見えないところでの技術的工夫とは、すなわち隠し味です。詳しいことはわからない建築の素人の私でも、屈強で堅牢に造られた倉庫の技術と、そうして造られた姿を活かしたまま、現代の技術を施すという、何というクリエイティブなのだろうか、と感動を禁じ得ません。

このようなこともあり、これを創ったのは誰だろう?という問いが生まれたわけでした。例えば根津美術館には隈研吾氏が関わり、表参道ヒルズには安藤忠雄氏が設計者として従事したようですが、そのような意味合いでの誰かを、赤レンガ倉庫について思い浮かべていたわけです。その意味では建築家新居千秋氏だとわかっています。しかし、この案件については設計者一人の力に帰せられないところがあります。ここに横浜赤レンガ倉庫再生プロジェクトのドラマがある、と私は思っています。
因みに、NHKプロジェクトX~挑戦者たち~」で赤レンガ倉庫を扱ってなかったかを調べてみると、横浜ベイブリッジをとりあげた回はあったようですが、全190本(2000年~2005年放送)の中にそれは見当たりませんでした。プロジェクトXの格好のネタと感じられるものが、実は赤レンガ倉庫にはあるのです。

とはいえ、このコラムはプロジェクトXではありませんので、逐一すべての個人名を挙げることはしませんが、どういう人々が関わったかを寸描してみることは、意義のあることだと思っています。本章では主に「横浜赤レンガ倉庫」を商業施設と決めるそれ以前までを瞥見することになります。

私は当初、赤レンガ倉庫は極めて堅牢に
造られた建築物であったので、建築基準法などの点から手を入れただけで再生、リユースした可能性もあるかと想像しましたが、それは大いに違っていました。何しろ
倉庫としての役目を終えた後は取り壊される可能性もあったらしいのです。通常SCを新規に開設する場合とは異なって、そもそも出自が違っているわけです。

価値を知る推進者たち

しかも、最初からSC=商業施設にすると決まっていたわけではなかったのです。私は解体されるかもしれなかった館を、なんらかの価値を認め保存の必要を唱えた人々に
まず注目します。いわば思想的推進者とでも言いましょうか。これについては、田村明と村松貞次郎の両氏を紹介します。
昭和40年代横浜の飛鳥田市長は六大事業の一環として都心部強化事業、いわゆる「みなとみらい21」事業に着手するわけですが、この時市長の参謀として田村氏がいたというわけです。氏は「横浜市で行った数多い仕事の中で、もっとも困難であったものの一つ」と、赤レンガ倉庫の保全の難しさを語っています横浜赤レンガ倉庫物語」 p11)。何しろ市長でさえ、「本気で残す気かい?」という状況だったようです。田村氏は横浜のまちづくりにおける赤レンガ倉庫の活用価値をしっかり見据えていました。また、もうひとかたの松貞次郎氏は、近代建築の保全活用の専門家です。博物館明治村の村長でもあり、横浜市の知的アドバイザーといった感じでしょうか。新港埠頭の倉庫としての役目を終えた赤レンガ倉庫を、横浜のために「残す」ことにとって、まずこの二人がキーマンだったのだろうと見ています。

また実際に「残す」ことを実現させるには
いくつかの行政的な手続きが必要だったようです。そもそも赤レンガ倉庫は国の管理下の物件だったそうで、横浜市の意志で「手をかける」には、市の資産にすることが急務でした。この課題については市の港湾局小池博氏が骨を折ったようで1987(昭和62)年頃から始まったとされています。
この件はみなとみらい21事業の中で動いていくことになります。今現在も2号館は、港湾局の所有となっています。しかし、簡単に実現したのではなく、時間がかかりさまざまな人々が介入しなければならず、資金的な問題もありました。

赤レンガ倉庫にひそむ力

「残す」考えの最終的な局面では、国に対して活用コンセプトの提出も必要でした。これについては港湾局内藤恒平氏がその構想作りに邁進したとのことです。その際、赤レンガ倉庫の魅力を活かすために、氏は
近代建築や、煉瓦積みの方法などの勉強を重ねたそうです。このエピソードで私が興味深く推測しているのは、内藤氏は造園屋であって建築屋ではなかったからこそ、虚心坦懐に赤レンガ倉庫に向き合えたのだろうという点と、仕事として関わる過程で氏を引きずり込んでしまう力は、赤レンガ倉庫自身から波及していたのではないか、ということです。

商業施設という活用プランはまだまだ先のことであり、「残す」方向づけが固まってくると、次は保存のための改修工事に向き合うことになります。これはすなわち商業施設としてではなく、まず建築物としての保存工事です。明治時代に倉庫としていくら頑強に造られていたとはいえ、今後のみなとみらいの一翼を担っていく存在でもあり、保存し保全を図る工事が必要というわけです。このへんは、全く預かり知らないことであって、今回のスタディを通じて明らかになった事柄です。
ここで一つ言えると思うのは、関わった人々は皆、赤レンガ倉庫の建築物としての
価値を見いだしていて、今後も横浜のまちづくりや経済活性化にも寄与させることを共通項として持っていたのではないか、ということです。特にこだわりたいポイントは、赤レンガ倉庫という存在自体の人を動かすパワー、影響力です。

市は、活用検討段階から市民を巻き込んでもいて、横浜青年会議所も関わり始めていて、具体的な活用案を出してもらってもいます。行政サイドのスタンスとして望ましいことだと言えますが、青年会議所自身の赤レンガ倉庫に対する熱意もかなりなものであったようです。双方の話し合いの場がもたれたり、青年会議所を中心として市民の組織「赤レンガ倶楽部・横濱」ができたというほどです。そういう一面もあったそうです。
手厚い作業が深みを造る 

当面課題の「保存工事」とは、極めて地味な作業という気がします。作業上目立たないこと以上に、新規に建築する場合のプラン、設計、工事、完成という工程と比べると、影の薄さを抱えているように思えます。当初、私は「保存工事」というステップがあったことなど想像もできませんでした。しかも7年も要したということです。
また、この工程には「復元」作業もあります。単なる保存作業ですまないところに、この歴史的建築再現の難しさが生じています。結局、明治時代に造られた建造物は経年劣化で傷んでいるわけですから、復元した上で保存することになります。煉瓦だけに絞って言えば「煉瓦の外装修理というのは、劣化した煉瓦をくり抜いて、一枚一枚入れていくため、非常に根気のいる仕事になった」(上記掲示同p37)ということです。復元しただけではなく、今後何百年かも耐えられる技術も駆使されるという、何というクリエイティブでしょうか。つまり、これは単に新しいものを作る以上の手間暇が生じているということです。ここに至って私は初めて気がつくのですが、赤レンガ倉庫の深みは、こういうことからきているのかもしれません。

当初私が認識した現代の建築基準のクリアという部分は、主に安全性や防災や衛生面がその内容になると思われます。ここには復元や保存の概念認識はないわけで、つまり赤レンガ倉庫とは、国宝とでもいうべき歴史建築の扱いをもって再生されたのであって、一定の「価値の温存」という作業が伴っていた、と考えられます。温存成って再生があり、その再生とは商業施設という新しい機能の形成ということです。

1号館と2号館とは、歴史的に運営管理主体上の違いはあるのですが、本論では両館あわせて広い意味でのSCとして述べるに留めます。
2002年のオープンを迎えるには、倉庫として着工した明治時代から数えておよそ100年、赤レンガ倉庫を中心とした赤レンガパーク計画から数えて20年という歳月が流れています。具体的には、みなとみらい21事業のスキームで進められました。開業を一つの到達点として見る時、(株)横浜赤レンガ社長の村澤彰氏や営業部長の杉一郎氏など、これら最終局面で関わった人々も、赤レンガ倉庫の価値や横浜の歴史を学ぶことから始めている、と伝えられています。私は、終始誰もが赤レンガ倉庫へのリスペクトをもって接していて、そこに赤レンガ倉庫自体の大きな力をあらためて感じています。つまり、SC赤レンガ倉庫創造の歴史とは、赤レンガ倉庫の魅力に取り憑かれた人びとの歴史、といえるような気がしています。★

(続く)

参考文献・資料
「横浜・歴史の街かど」─横浜開港資料館
「都市の記憶 横浜の土木遺産」「都市の記憶 横浜の近代建築」─横浜市歴史的資産調査会発行 横浜市都市計画局都市デザイン室編集
「横浜・港・近代建築」─横浜市教育委員会
「ことりっぷ」─(株)横浜赤レンガ発行
パネル展示資料─横浜赤レンガ倉庫1号館1階
※①「日本の集客力とSC  グローカルセンターとしてのSC像」菅原和男─「SC JAPAN TODAY」2004年12月号 日本ショッピングセンター協会 
※②「渋谷キューズの難点」はてなブログ 2020.3.31
sunger
渋谷キューズの難点 - sunger2のブログ
「難点」という用語にはどうも引っ掛かります。貧弱な感じが拭えません。それでもタイトルに使うのは、故なきことではありません。 ここ数週間来ずっと渋谷キューズについて、どう理解したらいいのだろう、と取り組んできました。パンフレットを読み、ウエブサイトを調べるだけでなく、キューズのエンテランスまで行き、3回ヒヤリングを行ないました。その内一度は、コミュニケーターに施設を案内してもらい、説明を聴きました。 また、3回目の時は、キューズの会員審査にも関わるという星〇氏の説明に触れ、キューズをテーマに語り合うことになりました。この機会を経て、会員になった暁には、きっと得られるであろう充実感を疑似体験できた…
sunger2-ozukara.hatenablog.com













萌え町紀行 - エピソード2

汐 入 女 子 の 朝(あした)

第1話   クッキータイム

「嘘!そんなことがあるの!」
「そうよ、ほんとなのよ。悲しいことだけど」
「小川さん、いい人だったのに」
「佐竹さん、結納も終わってたのにねえ」
事務所に着く早々、女子スタッフの二人は突然のできごとに、仕事に取り掛かる準備を忘れて呆然とするばかりだった。
京急線汐入駅前にあるこのショッピングセンターの管理事務所は、悲痛な面持ちに包まれた。事務所の社員小川裕二が交通事故で急死してしまった。同僚の佐竹良江は26
歳で婚約者を失ってしまったのである。平成4年、すなわち1992年の春、この館が開業して一年を過ぎたばかりの頃であった。
それから佐竹良江は、毎月その日になると、午後3時に全員にクッキーを配るようになった。小川裕二がクッキーをとても好きで仕事の合間によく食べていた。佐竹良江は、鎮魂を込めて、また、自分の気を紛らわす思いもあって、そんなことをするようになった。
その後、事務所では毎週金曜日になると、誰からともなくクッキーやお菓子を持ち寄るようになった。もちろん、それは周囲のメンバーが佐竹を思う気遣いからだった。

それから数年後、佐竹良江は三十代になっていた。
その年の12月24日、佐竹良江は同僚の上町健介と鎌倉駅で待ち合わせていた。上町が佐竹を誘ったのである。
事務所でのお菓子を持ち寄る慣習は、しっかり定着していた。その頃になると、曜日に対するこだわりは薄れ、異動でメンバーも半分ほど入れ替わり、佐竹の不幸に関わるルーツは忘れられた。佐竹もそれを望んだ。
しかし、本社から異動してきた上町健介は、佐竹が配る菓子がクッキーであることが多いことから、佐竹はクッキーが好きなのだと思い込んでいた。午後の事務所のひと時、女子スタッフが男子社員に菓子を配るタイミングは、微妙な会話のチャンスになった。ある日、佐竹が上町のデスクへクッキーを一個置きかかった時、上町はすかさず佐竹に言った。
「佐竹さん、鎌倉においしいスコーンの店があるから、今度行かない?」
「え·····」
その時、回りに事務所メンバーはいなかった。一瞬の隙を狙って、上町が「モーションをかけた」のである。佐竹は、以前から上町の自分に対する視線や態度に、彼の気持ちを察していた。佐竹良江は、日々の出勤に張り合いができていた·····。
鎌倉駅東口にいた佐竹良江は、待ち合わせ時刻からすでに30分過ぎていたので、不安になった。曇天の寒い日で、今にも雪が降りそうだった。携帯電話があれば、こんなにヤキモキすることもなかったが、佐竹がそれを手にしたのは後年のことであった。
後でわかったのは、上町は西口と東口を間違えて言ってしまった、とのことだった。落ち合えない二人は、お互いが反対口へ向かって二度ほど行き違ったが、西口でやっと会えたのだった。経緯の確認やら謝罪やら、この無為に過ごした時間の空白を埋めるのは、実にやさしかった。会えたそのことだけで、二人は十分だったのだ。
江ノ電に乗ると車内は混雑していた。長谷で空いたので二人は座ることができた。本当は長谷が目的地だったが、藤沢まで乗り折り返すことにした。二人で江ノ電に乗っていれば、そんな時間はかけがえがなかった。鎌倉高校前付近から見る相模湾、鈍い海のきらめきに充実した時間が流れていた。鎌倉でお互いが空疎に待った時間とは大違いだった。
藤沢から折り返して再び長谷駅に着くと、今度こそ二人は降りた。
大仏方面へ向かった。狭い歩道に観光客が溢れた。
大仏を見学してから、目的のティーハウスへ向かった。クッキーから派生して、上町健介は、スコーンなら佐竹良江に気に入ってもらえると思ったのだ。
「そこを入るよ」と上町は、佐竹に促した。二人は歩道から路地に折れた。
「あっ」佐竹は立ち止まった。何か思い当たる風だった。
木々に覆われた中に見えるモダンな民家がそのティーハウスだった。また佐竹は歩みだし、二人は、瀟洒なその店に入った。店内から外を見ると、風景に白いものが混じり始めた。雪である。
佐竹良江と上町健介は、クロテッドクリームやジャムで食べるスコーンを楽しんだ。紅茶も格別だった。会話の内容はとりとめもないものであっても、楽しく、素敵な時間だった。
実は以前、佐竹は小川裕二とこの店に来たことがあるのだった。

平成30(2018)年になった。
先月この事務所に着任して長浦達夫は、時々お菓子が配られるこの事務所の風習に
「佐竹さん、みんなお菓子好きだね。どうして配るの?なんか、きっかけがあったのかな?」
若くてフランクな長浦に、五十代になっていた佐竹良江は言った。
「単に三時のおやつよ。仲間の印みたいなものね」
「そう、しかしそれにしても佐竹さんはいつもクッキーだね」
そう語る長浦の年恰好に、佐竹は小川裕二が思い浮かんだ。
随分昔のことになったと思った。同時に、
クッキーが縁で私は結婚したのよ、といつか機会があれば長浦に教えてやろうと、今は別の会社に勤めている、夫上町健介のことを思っていた。★

第2話   三月一日のグリップ

「店長、大丈夫ですかね。もう、今月はあと5日だけになっちゃいましたけど」
店長の花咲ゆきは、バイトの前田まりえにそう言われた時、先週のバレンタインデーに選んだチョコレートのことを考えていた。
それは、チョコに添えて、過去の映画や小説の会話やストーリーを紹介したもので、チョコを食べながら文芸世界のラブを楽しもうという商品だっだ。「この世界をあなたと共有したい」というコンセプトが気に入った。こんな素敵なギフト食品を自店で扱えれば、もっとたやすく売上げを上げることができそうに思えた。しかし、ショップ「サガン」は生活雑貨を扱っていたが、食品は含まれていなかった。同時に、事務所の池上巧に、自分が思い切ってあげたチョコの趣旨が伝わっているか、気になった。
「店長!」
「あ、そうね。今のところタイムセールが効果出ているけど、残された5日間でこけたらまずいわ。なんか、追加の対策が必要ね。何か、ないかな。まりえちゃんも考えてみて」
「店長、私なんか無理ですから」
その時、入店客が尋ねごとのようで、それに気づいた前田まりえは「は~い」と言ってそのお客の方へ向かった。
サガン」は、年度末の今月さえ売上げ前年比110%超えを果たせば、一年間を通じて連続での基準超え達成を実現することになるのだった。汐入駅前にあるこのショッピングセンターでは、年度初めからこのプロモーションをしきりにアピールし、館内テナントの売上げアップに躍起になっているのだ。「サガン」では今年度の商品政策がうまくいき、売上げは順調に推移していた。しかし、この2月は息切れの感があり、店長花咲ゆきはあの手この手を講じてもう下旬に入っていた。今週に入ってからは平日午後のタイムセールでしのいでいたが、あと5日間、何かあらたな手を打たなければ失速は必至だった。
花咲ゆきは、思うところがあって、ショッピングセンターの管理事務所へ向かった。
窓口で相談を持ち掛けると、課長が出てきた。花咲ゆきは、2月の売上げ前年比110
%超えのためには何等かの打ち手が必要なことを伝え、午後のタイムセールの館内放送の許可を求めた。
「趣旨はわかるけど、館内放送でセール案内はしないルールをご存知でしょ」
花咲ゆきはそんなことは当然知っていての相談だった。でも、すべてやり尽くした感じだった。幸い本部からの商品供給は的確だったので、あとはタイムセールの効果を最大化し、徹底するぐらいしかないように思えたのである。恰幅がよく、テカテカ光る肌の事務所の課長は、見かけとは裏腹に狭量なタイプだった。
「私としてもサガンさんの売上げは応援したいけど、ルール破りは、ね」
「そこを·····」
と、花咲ゆきは粘りつつも、この一見柔和な事務所の責任者の狷介ぶりには、すでに心が折れていた。花咲ゆきはうなだれて「サガン」にもどるのだった。
事務所の池上巧に相談することは、最初から避けていた。甘えるようでそれはしてはいけない思いが先にあった。しかし、こうなった以上池上だけが頼りだった。彼は、以前から「サガン」を買っていてくれて、花咲ゆきは自分への好意を微妙に感じている。ゆきは、決心した。
翌日事務所へ行くと、池上巧がいて要点を伝えたが、彼にはやや困惑の表情がうかがえた。ゆきは、奥の席でふんぞり返っている課長の存在を感じた。
「そうか、こまったね。昨日までの売上げはどうなの。基準超えているの?」
「少し下回り始めたんです。なので、月末までなんとか追い上げたんです。
「今日は25日。今日をいれてあと4日間か·····」
その時、池上はホワイトボードの勤務シフト表へ目を向けていた。
池上の目に一瞬光るものがあったのち、彼は放送原稿用紙を花咲ゆきに渡し、こう言うのだった。
「花咲店長、とにかく、放送原稿まとめておいてください!」
「はい、ありがとうございます。池上さん」
花咲はどうするのかわからなかったが、池上の言う通りにしようと思った。何かが開けてゆく感覚があった。花咲ゆきは原稿用紙を入れた透明ファイルを大事そうに抱え、ポニーテールを揺らして自店へもどった。

3月1日、事務所の池上巧は朝の店舗巡回で、「サガン」付近に来ると売場内を探すように見た。「池上さん、おはようございます」意外にも花咲はうしろから彼に声をかけてきた。
「ギリギリ達成できましたよ!」
「そう、それはよかった!」
思わず池上巧と花咲ゆきは、手を握りあった。月末週の強化タイムセールに加え、最後の2日間の館内放送によるアピールも効果が出た。27日と28日は、テカテカ課長は休みだったのだ。テナントの売上げが上がることは館のためにもなることで、池上は英断した自分に満足するとともに、花咲ゆきとしっかり気持ちがつながり合うことに幸福感を感じていた。花咲ゆきも、確実となった表彰獲得より、今年度の自分の目標へ届いた喜びに、うれしさを隠さず池上へ何度もお礼を言うのだった。
その時、花咲ゆきの目にわずかにきらめくものを見、池上巧はそれをとても美しいと感じていた。★★

第3話   インカローズの煌めき

電車が汐入駅に滑り込むと、星野小枝がいつも乗る後部車両からは、仕事先のショッピングセンターがよく見えた。館の正面とちょうど向かい合うのである。出勤の歩を進めながら星野小枝は同僚の坂本俊を、淡い想いに困惑の入り混じった気持ちで浮かべていた。
坂本俊からの星野小枝への想いの伝達は、もう一年になっていた。しかし、小枝は、それを率直に受け入れられないのだ。本心がつかみ兼ねた。何しろ、彼は既婚者なのである。嫌いなタイプではなかったが、手放しで飛び込んでいくわけにはいかなかった。二度、男女複数名同士で酒席に付いたことがあるが、二人きりで会ったことはない。坂本も意識しているのかもしれない、と小枝は思った。
国道16号の信号が青に変わったので、星野小枝は気持ちを切り換えた。昨日友人の結婚披露宴で知った「すごいエピソード」のことを思いだし、今日はそれを同僚たちに教えてやろうと、なんともワクワクするのだった。
この館の休憩室からは、停泊する米軍の潜水艦や海上自衛隊護衛艦が見渡せた。汐入ならではの眺めである。昼食の時間になっていた。
「あれ、小枝ちゃん珍しいわねえ。今日はパワーストーン着けてる」
「そうなんですよ。買っちゃったんです。私が買ってしまうぐらいのことが、昨日あったんですよ。聞いて、聞いて」
事務所の女子スタッフたちは、お弁当の包みを開きながら、星野小枝があまり熱っぽく語るので、何だろうと顔を見合せた。休憩室のテーブルはまだ空席が多かった。小枝は、昨日友人の披露宴へ出てこんなことがあった、と語り出した。
「·····新婦が私の友人なのね。
彼女が彼氏の両親に挨拶に行った時、彼のお父さんがどこかで君を見たことがあるような気がするという話になったんだって。彼女はびっくりよ。そりゃあそうよね。彼のお父さんが言うには、一時自分が住むマンションの管理をしていたことがあって、その時、子供の頃の彼女と息子が砂場で遊ぶところを時々見たらしいわ。彼女は高校の頃までそのマンションにいたらしいから、ある程度大きくなった彼女を見かけていたのね」
「へ~え、じゃあ、彼女と彼は、もともと運命で結ばれていたってこと!すごい!」
星野小枝のグループからひとしきり大きな歓声が起こったので、休憩室の周囲の人は何事かと、驚いた。小枝は続けた。
「披露宴中も、私、隣のテーブルだったんだけど、新郎のお父さんが、急に、お酌をしにきた同じ年恰好のお客に、なんでお前がここにいるんだ、って言うわけ。それが新婦の叔父だって。彼のお父さんと中学校の同級生だって」
星野小枝たちは、弁当を開いたまま、別世界へぶっ飛んでいた。
やっと、彼女たちの箸が動き出して、星野小枝が着けているパワーストーンへ話がもどった。小枝は説明した。
「その友人の新婦がこのパワーストーンを身に着けていたのね。これきれいでしょ」
「それ、たしかインカローズ?」詳しそうな同僚がそう言った。
「披露宴会場が横浜国際ホテルだったから、帰りに隣のビブレで、これ買っちゃったというわけ」
「小枝ちゃん、きっといいことあるわよ」
年長の同僚がそう言うと、星野小枝は同僚たちにからかわれることになった。
「この素敵なラズベリーピンクに惹かれただけよ」嘘ではなかった。星野小枝はこの色が本当に好きでたまらなかった。

翌月になって、星野小枝の誕生日が近づいていた。
久しぶりに、坂本俊から星野小枝の携帯にメールがあった。小枝は覚悟していた、と言えば大袈裟だが、去年の誕生日プレゼントが格別のものだった。高価というわけではないが、坂本が小枝への想いを伝えるために腐心していた。今回坂本は「チェリーチーズケーキを一緒に食べよう」と誘っていた。小枝は坂本の表現に二つの意味を読みとっていた。一つはは酒を飲もうとか食事しようとは言っていないこと。もう一つは、二人きりで会おうということ。
小枝は、迷ったが、煮て食うなり焼いて食うなりされるわけでもない、と思うと気が楽になった。翌日オーケーの返信をした。
顔文字を添えた。
一週間後の午後、汐入駅前メルキュールホテルのシャンゼリゼに、星野小枝と坂本俊の姿があった。小枝は、久しぶりにチェリーチーズケーキを食べたがとてもおいしいと思った。坂本は今まで見せたこともない真顔だった。小枝の手首のインカローズと、チェリーの黒ずんだ赤が接近すると、美しいコントラストを構成した。
二人はシャンゼリゼを出ると、汐入駅でお互い反対ホームへ上った。星野は追浜へ向かい上りへ乗るが、坂本の住まいは県立大学なので下りへ乗るためである。先に上り電車が来た。星野小枝は下りホームの坂本俊に手を振った。坂本も応じた。
平日午後の電車は空いていた。平日に休める仕事でよかったと思えた。座席に座り星野小枝は、坂本が離婚したというニュースや、今後つきあってほしいという言葉を、坂本の表情とともに反芻していた。
小枝は電車に揺られながれ、手首のインカローズの煌めきを、しみじみと眺めるのだった。★★★

付記
京急線汐入駅前にあるショッピングセンターとは、令和三年の今ではアジアパシフィックランドが運営する「コースカベイサイドストアーズ」になっていますが、前身はダイエーが経営する「ショッパーズプラザ横須賀」でした。
上記の掌編ノベル三話は、その商業施設の時代を舞台に想定したフィクションです。
こんなどうでもいいことを書くのは、あくまで「萌え町紀行」シリーズのエピソードとして位置づけているからです。