萌え町紀行-7仙台高松入口

昨年11月末に「萌え町紀行ー6 金沢八景」を投稿してから、半年近くが過ぎました。昨年年末から今年にかけて、私の身の上に、入院、退職、引っ越しという三つのことが、ほぼ同時期に起きました。これを転機と言わずして何と言うでしょう。こんなライフステージの変化に遭遇するとは、しかし、退職も引っ越しも計画上のことですが、病気はまったく想定外でした。こんな激変に、制作行為がなおざりになるのは仕方がないことかもしれません。首都圏から一転して宮城県へと生活も変わりました。
計画外の私の身体に関わる異変もあり、今現在の私の感覚としては、一瞬にして首都圏から仙台へ空間的にワープし、瞬間的に
6カ月後に時間的にテレポーテーションした、といっても言い過ぎとも思えません。
要は、また制作への着手の再開が、過去の感覚を一気に引き寄せているかのようで、これが、私を遮った時間を忘れさせてくれているような気がしています。

50年後の断崖

仙台で生活することは既定事項だったわけではなく、経緯があってそうなったのです。もちろん、そうなる可能性もあったわけですが、昔からそう決めていたわけではありません。
27歳までは仙台で仕事をしていました。仕事上の縁があって東京にノコノコと出て行ったというしだいです。およそ40年以上を経て帰仙したわけですが、今、どうしても書き付けずには済まない体験の中にいます。

仙台 東照宮
「高松入口」とは、バス停の名称です。市の北方に「高松」という町名があって、「小松島」に隣接、東照宮の近くです。およそ50年前、18歳から三年ほど勤めた会社の寮がありました。1970(昭和45)年、三島由紀夫自死するという大事件があった年からこの独身寮で生活し、この年のことは社会人一年生のことでもあり、鮮明に記憶されました。


この独身寮のことでは、近所にあった「明日葉」という化粧品店のことが、すぐ浮かびます。「明日葉」は、カネボウ化粧品のチェーン店ですから、当然ながらカネボウの商品を取り扱っています。いつしか、私の部屋の棚には、男性化粧品が揃っていました。エロイカでした、上位ブランドのバルカンには手が出ず、ローション、クリームからオードトアレまでのフルコースです。一品一品買っていって、揃ってしまって、ボディパウダーも買った記憶があります。その香りを思い出すと当時の「明日葉」の店内がリアルに想起され、とても50年前のことには思えません。それらの化粧品を売ってくれたのは美容部員の、ある女性です。もう、おわかりでしょうが、私はその女性目当てだったのです。
とても美しい方でした。今でもその笑顔は鮮明に、昨日のことのように浮かびます。
「〇〇ちゃん」と呼んでいました。しかし、告白したわけでもなければ、デートしたことがあるわけでもありません。それ以前だったのです。正直自分が若かったと思います。なんか、彼女をからかうようなことばかりを言ってしまうのでした。これは小学生レベルと言えましょう。
バス停「高松入口」のそばで、当時その「明日葉」を含む数店舗のある建物は活気がありました。幼児たちもその店舗の前でよく遊んでいました。私は〇〇ちゃんに近づきたい下心で、その子供たちにも親しむようにした覚えがあります。
しかし、その後彼女が結婚したとは、その化粧品店の主に聞いたような気がします。フルネームは知らずじまいだったわけです。

その6~7年後に、資生堂のCMソングとして尾崎亜美の「マイ・ピュア・レディ」、また「春の予感」がヒットしました。なんともセンスのいい曲で、さらにその数十年後、私の中で春の兆しの感受とともに、メーカーは異なりますが、〇〇ちゃんとの結びつけが、起きるようになっていました。マイ・ピュア・レディのモデルが〇〇ちゃんによく似ていることも関係していたのでしょう。この曲を聴いては、1970年の頃の「高松入口」や「明日葉」を遡及する現象が我が身に起きていました。

三島が残したもの

1970年は「三島由紀夫が自決した年」だったわけですが、私は19歳、世の中の動きは全くわからず、社会人として就業していたものの正に五里霧中で彷徨っていたという感じで、その年から三島を読み出していて、三島世界に取り憑かれていた矢先に、作家の死にいきなり出くわしたという晴天の霹靂でした。その衝撃があまりに大きかったので、そのことから、自分の精神に三島が深く浸透していることが察せられました。

社会のこと、世界のことは、まったく捉えようもなく、日々歯ぎしりするような生活だったと記憶します。世の中のことを早くわかりたい、知りたいというような、焦燥感のようなものに振り回されていました。確か三島が「若さとは世界解釈の衝動だ」とどこかに書いていたと思います。
自分はどうやって生きていくのか、何をやろうとしているのか、皆目見当がつきません。とりあえず勤めた仕事が、自分の人生とどう折り合いがつけられるのか、まったく想像できないことでした。社会や世界は自分の外部にあり、自分とはまったく絶縁しているというように感じられています。

勤務先が変わり、仕事も変わり、30代40代になって、堺屋太一大前研一など経済や社会動向の著作に触れていると、世の中が自分に近づいているという感覚がありました。以前は、本の中のことは本の中の話という感覚があったのですが、その垣根がなくなり、実は自分が社会に入り込んでいたのかもしれません。

小松島公園  高松の近くにあるが、当時全く関心がなく行ったこともなかった
視野を世界に広げてみれば、自分が生まれてこの方、概ね世界は平和だったと感じています。もちろん、小学生の頃キューバ危機があり、後から恐ろしいことが過ぎ去ったという感覚はありました。その内ベトナム戦争が始まり、70年安保闘争もあり、72年沖縄の本土復帰があり、同年のあさま山荘事件ではテレビ中継に釘付けになりました。73年は、オイルショックに見舞われ、
1989年の天安門事件については、「事件」などと言う表現は妙に客観的ですが、これは一方的な虐殺と言うべきでしょう。2000年代に入ってすぐ米国同時多発テロが発生。勤務先の同僚が「戦争が始まった」などとほざいていましたが、『戦争とテロは違うだろ』と内心私は思っていました。災害や事故を別にして、世界的に地域によっては戦争で何人も亡くなるできごとはありましたが、概ねこの国は平和な時代を過ごしてきた、と振り返っています。

さて、2017年トランプ大統領が就任してから米中の対立が鮮明になってきました。
2010年代半ばになるとボンクラの私も、政治や世界の動きをだいぶ意識するようになりました。基調は日本をどうしようと思うのかに尽きます。そういう意識で周囲を見渡すと、マスコミ報道や偏った言論人のコメントのひどさは目を覆うばかりです。私が生まれる6年前の終戦から続く米国の日本弱体化政策は、見事に功を奏しています。おそらく三島は日本のこんにちを、1970(昭和45)年にはっきり観ていたのだと思います。「果たし得ていない約束」に書かれた末尾の…
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このままいったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」
という表現は、この国に対する彼の深い絶望からきているもののように感じられます。わずか4ページほどのこのエッセイは哀しい。
「文化防衛論」も「反革命宣言」も、初出から50数年経った今も、いまだに輝きを放っているではありませんか。三島には、こんにちの日本の弱体化が見えていたに違いありません。
特に、米国が対中姿勢に舵をきったように、具体的には、中国という問題が屹立してきています。

2月24日の衝撃

今、日々報道が行なわれているように、ロシアは「ウクライナ軍事作戦」として、侵攻を続けています。とんでもないことが勃発してしまっています。
私の退院は今年の2月25日、その前日に
プーチン大統領は何ということを仕出かしてくれたのか!私の健康で、すこやかな生活の前途が踏みにじられたかのようです。すでに3ヶ月になろうとしているのですが、これはわが国にとって、喫緊の大問題として迫っているように感じられます。ウクライナとロシアの問題を超えて、これは日本に突きつけられた問題として感じられるからです。日本と中国の問題に直結しているからです。香港の民主化は封じ込められ、近年台湾への中国の侵攻がリアルに語られるようになりました。尖閣諸島への頻繁な航行、空母遼寧での示威行為などを見ても、台湾の鳴動はわが国に連動していると見るべきでしょう。中国の100年の怨み計画(百年国恥)はどんどん水位を増しています。

佐橋亮著「米中対立」によれば、トランプ大統領は中国の人権問題については、看過していると指摘しています。あれだけ対中国姿勢を鮮明にしたトランプにしてもそういう面があったとは、米国がこんにちの対中姿勢に至るまで、紆余曲折を経る間に中国は恐ろしく強大になってしまったことの要因は押して知るべしと言うべきでしょうか。中国はマーケットとしての面や、経済の活性化から民主化への期待が、米国がここまでのさばらせてしまい、中国を増長させてしまったもののようです。

東北大学(片平) バックはウェスティンホテル仙台
戦後これだけ戦争が肉薄して感じられるのは初めてではないでしょうか。ひとえに中国の存在からきています。天安門事件のあと、中国が国際社会に復帰するのに、日本は手を貸しました。天皇陛下の訪中まで行ない、なんというお目出度い国なんでしょう。日米安保条約と米製日本国憲法で、この国は完全に骨抜きにされてしまいました。先日、片平にある東北大学構内を歩いていたら「核兵器のない世界をご一緒に作りましょう!」というポスターの掲示に出くわしました。大学教授や弁護士等の名前が写真入りで紹介されています。ウクライナは1991年ソ連から独立した時点で、当時世界第3位規模の核兵器保有していましたが、すべて放棄してしまいました。これがなければロシアに侵攻されなかったとは、よく言われるところです。要は抑止力の問題です。「核兵器のない世界を」そりゃあそうでしょう。理想はそうでも、世界はリアリズムで動いているのです。仙台におよそ40年ぶりにもどり、東北大学構内でこんなお花畑に遭遇するとは、落胆を禁じ得ません。この方たちは、たぶん憲法9条を守れと言うのでしょう。
この国の先々が暗澹たるものに思えてくるのは私だけでしょうか。

50年前を求めて

2月下旬に退院、帰仙した私は少しずつ出歩くようになり、燻っていた気持ちが噴出するように4月、「明日葉」のあったあの街に行ってみようと思い立ちました。

ここで一旦整理しておきますが、まず冒頭で「50年前」と語り、もう一方で「およそ40年ぶりの帰仙」と言っているこの部分です。50年前とは、「明日葉」の近くにある寮で暮らしていた頃で、その寮の勤務先から、仕事を変えて27歳まで仙台にいた、ということです。また、尾崎亜美の歌と「明日葉」との結びつけについてですが、この資生堂のCMソングのヒット当時(1977年)から接着していたというわけではありません。LP1枚を買ったくらいですから、尾崎亜美に魅了されていたことは間違いないでしょう。「春の予感」(1978年)は南沙織が歌ったと思いますが、この曲についてもです。私達は、ここ10年ぐらいの間にYouTubeなどを通じて、過去のあらゆる楽曲にアクセスできるようになりました。このかつてのヒット曲を聞く機会があった折に尾崎亜美を思い出すとともに、「マイ・ピュア・レディ」や「春の予感」を聞いているうちに、化粧品との関わりから「明日葉」そして「〇〇ちゃん」と結びついていったものと思われます。要するに尾崎亜美の楽曲と「明日葉」が結びつくにはそれなりの関連性があったといいたいわけです。さらに、「高松入口」の寮に住んでいる頃、あまりにも春の風がすばらしかったのでそれをエッセイに書き、同人誌「文芸東北」に投稿、掲載されました。「春の予感」と「春の風」ではちょっと違いますが、そこに醸し出される世界観は共通しているものがあると思います。自分が二十歳前後ということもあって、その若さからか、きらめいて華やいで思いだされます。

「明日葉」のあったあの通りへ行ってみよう、あの寮はまだあるだろうか?この自分の思いつきに、私はとても甘美なものを感じています。これから50年前に行ってみるんだ!しかし、バス停はどこからでているのかわかりません。何度かグーグルマップを見、台原方面に行けばいいことがわかりました。バス停は、仙台駅前ヤマダ電機の向かいあたりらしい。ちょうどバスが止まっていたのでためらいなく乗車しました。バス内に掲示している路線図を見ると、たぶん行けるはずでした。
実はこのトライは1回目は失敗しています。東照宮付近で降車したのはよかったのですが、小松島公園の方に歩を進めてしまい、目的を果たせず帰りました。その後、よくよく地図を再確認し、今日は2回目、
バスルートもたぶん間違いないはずでした。
市営バスは小松島小学校を左に見て過ぎ、狭い登り坂に入ります。なんとなく、記憶がよみがえります。バス停は「高松入口」「高松〇丁目」と続くようなのですが、坂道を登りきったあたりだった記憶と、「入口」で降りておけば辿り着くだろうという思いで、「高松入口」で降りることにしました。行く前から「高松入口」と確信していたわけではありません。

下車すると、過ぎ去るバスを見送ります。周囲を見回すのですが、どうもピンときません。この狭い道路をよく路線バスが走るなあと思うくらいです。暖かい4月の某日、バス停表示「高松入口」があるくらいだから、この辺のはずでした。バスの走り去った方に少し歩いてみることにしました。確か、この通り沿いに「いせや」か「伊勢屋」という商店があったはずです。一軒の住居脇の車近くに女性がいて、「伊勢屋」のことや「明日葉」のことを尋ねてみようかと心が動きましたが、どこからか嫁いできた方で50年前のことは知るはずもないと思えてしまって、やめました。
そこを先に行くと、当時の寮に入る道があるはずでしたが、その面影はありません。
寮の建物自体、もう姿形がありません。その辺りから道路が左へカーブしています。その感じに記憶があり、そこが間違いなく寮のあったあたりだと思いました。
そこで、バスを降りて来た道路を振り返ります。すると、道路の右側に三階建ての建物があります。「·······これか?」、「·····これかもしれない」、「これだ!これだ!」来た道路を振り返るとは、寮から出て左方のバス停に向かう、その視線で見るということです。さっき降りたバス停は道路の右側にあり、そのバス停を擁するように三階建てのビルがあります。この構図で見ると
確信が持てます。これが、あの「明日葉」のあったところだ!一階、右から2番目か3番目が「明日葉」だ!
上階に人は住んでいるようですが、一階は
シャッターが降りています。一軒も営業していない。私はこの通りの光景を前に茫然としていました。シャッター店舗になってしまっていることへの嘆きではありません。なぜ「明日葉」がないのか不思議でしょうがないのです。私は(時間的に)50年前へ辿り着くべく、(空間的に)市の中央部からバスで訪れているのです。ここは一体何なんだ?今、私は確かに50年前に来ていました。しかし、違います。これは50年後です。あの通りの50年後がこうだったのか!そう、当たり前のことに思い至ってみると、つくづく私は、50年前を求めて、カネボウ化粧品店「明日葉」と、そこにいるはずの〇〇ちゃんに会えると信じていたその馬鹿げた気持ちに気づきました。

50年後の現実

そうだ、ここは50年後だった。とうとう50年後まで来てしまっていた。自分の人生をあらかた費消してしまっている事実に愕然とします。未来が未知ゆえに輝く余地はすでにどこにもない。国内的にはゴタゴタに見舞われても、国際的には平和を貪ってきたそんな時代も終わってしまった。私はとんでもない所に来てしまっていました。自分の加齢に嘆く暇はないにしても、世界が殺伐とし、この国の将来に暗雲が立ち込めています。私はかつて体験したことのない感覚に捕らえられていました。この高松の地で私の目の前には茫漠とした空間や、広大な海原があるかのような限りで、足下は崖でしかありません。私は50年後という、いわば絶壁の淵に立っているのでした。
この国は、憲法に防衛力としての軍隊を書き込もうともせず、自らは敵と戦おうともせず、そんな国を米国が守ってくれるわけがない。皇期2682年の極東の国の存亡は
危機に瀕しているのかもしれない。私は50年かけて三島由紀夫が獲得していた場所にやっと辿り着いているのかもしれません。
バスを降り立ったあたりが、どうやらあの「明日葉」のところという実感が満ちてくると、何かこみ上げてきそうな感覚がありましたが、私は感傷を求めているわけではありません。
なぜ私は50年前に来ているのに、「明日葉」はないのだろう?〇〇ちゃんはいないのだろう?現実は変わり果ててしまっているのに、しかし、私の胸中にある50年前のシーンは、何一つ変わることなく存在していることも確かなことです。私は50年前に来たのではなく、50年前の胸中をひたすら
辿ってきていたのかもしれません。

残り少なくなった私の人生など嘆くにも値しませんが、子や孫の世代に、平和で民主的な国を残してやれる可能性の縮小に繋がりかねない今現在の状況は、時代の断崖を
ビュービュー冷たい風が荒れ狂っているようなものではないでしょうか。★


参考文献
・「米中対立」─ アメリカの戦略転換と分断される世界  佐橋亮著  中公新書
・「文化防衛論」 三島由紀夫著  ちくま文庫  「反革命宣言」「果たし得ていない約束」等所収