抑止限界論への疑義

なぜ国際政治学者は中国に加担する?

月刊「世界」7月号を見ていたら、藤原帰一教授の名前があり、三浦瑠麗氏の師匠ということは知っていたので、どんな考え方をしているのか興味が湧きました。これまで教授の言論に、コメントにしろ、文章にしろ、触れたことはありません。
国際政治学のプロに対して、一素人が何かを述べるとは無謀極まりないことですが、
専門家であるにしろないにしろ、平和と戦争、世界と日本、政治と戦略、核と抑止等
専門知識はないにしても、一国民としてこの問題について考えてみることは、あって然るべきことではないでしょうか。
ウクライナがロシアに侵略される事態を目の前にし、それでも能天気に過ごせているとしたら、そんな楽観主義者は売国を通じて己れの利益をあげることに血眼になる輩と同類であり、その輩の発行する専制主義国家、共産主義国家行きのチケットを買わされることになること請け合いでしょう。
私は、日本がそんな国になることを望んでいないし、先人からの伝統を受け継ぐとともに、子まごの世代に良き日本を継承することを切に願うものです。

藤原論文の論旨

教授の論文のタイトルは、「抑止とその限界」、サブタイトルとして「ロシアのウクライナ侵攻と国際関係」となっています。10ページの限られたスペースの中で「抑止」をテーマとして論理展開しています。限定的な紙面だからこそ、教授の言いたかったことは絞られた、とみることはできます。概略を知ってもらうために、小見出しに沿って要旨を掻い摘まんでみます。
(導入)
ウクライナ侵攻は抑止の破綻だった」の一行から始まり「奇怪な光景だった。ロシアの侵攻によって抑止が破れたのを前にして抑止力の強化が、しかもロシアではなく、中国に対して求められていたからだ」
「抑止の破綻」
アメリカの核戦略がロシアに対する抑止力として働いていた」が「それでもロシアはウクライナに侵攻した。」「ロシアに対する抑止戦略は戦争の防止に失敗したのである。」
電撃戦と瀬戸際政策」
短期戦で勝利を目論んでの電撃戦は抑止の破綻事例。「ロシアのウクライナ侵攻は武力による国境線の変更を目的とする」ことであって、抑止は保たれなかった。
「ミックスシグナル」
今回米軍を投入する意思がないというバイデンの発言がロシアの侵攻を招いたという分析が広がり、このミックスシグナルによりアメリカが抑止を弱めたと解釈できる。
「核抑止と安定・不安定パラドックス
「ロシアの核によってアメリカの核兵器使用を抑制しながら通常兵器による戦争を継続」し、「NATOの直接介入も阻止するという戦略」をロシアはとった。
「長い戦争」
「これからロシアの劣勢が明確となり、ロシア本土の安全が脅かされる状況まで追い込まれた場合には、通常兵器を費消したロシアが生物化学兵器、さらに核兵器を実戦で使用する可能性は残される。」
「対中抑止力の強化とその矛盾」
「·····核に頼って中国を抑止する意味は乏しい。通常兵器よる抑止が核抑止よりも不安定であることを踏まえた上であっても、核への依存を高めることではなく、低下させることこそが、戦争がエスカレートする危険を防ぐために不可欠な選択である。」
「結び」
「核抑止力によってウクライナ侵攻を阻むことはできなかった」「ここで必要なのは抑止への依存ではなく、抑止の限界を見据えることである。抑止の破綻を前に中国への核抑止力強化を求めることに意味はない。」

ざっとこんな内容になっていますが、詳細は月刊「世界」7月号で原文をお読み頂きたく思います。
さて、私は、この論文で述べられている内容について、首を傾げてしまいました。ウクライナ侵攻を目の当たりにして、日本人がこれを中国問題に引寄せて考えてみることが、なぜ「奇怪な光景」なのでしょうか?戦後77年、惰眠を貪ってきた日本人が、覚醒できるかもしれない機会が生じているのに、それを批判しているからです。
むしろ、ウクライナの状況をわが国のこととして捉える精神は、健全な反応と言うべきでしょう。しかも、最後の一行、「抑止の破綻を前に中国への核抑止力強化を求めることに意味はない。」と結んでいます。エーッ!藤原教授本気ですか?と思ってしまいました。

おそらく教授は、2月27日に故安部元首相が核共有(ニュークリア・シェアリング)について国内でも議論すべきだ、と語ったとされる報道や、それをきっかけに広がる核共有の世論が念頭にあるのでしょう。専門家として、それらに対していわゆる警鐘を鳴らすつもりだったのでしょうか。

まず私は、「核抑止によって阻むことのできる戦争に大きな限界があることがウクライナ侵攻によって明らかになった」(同書p85)としても、有効性だけで行動を判断するリスクがあるのでは、と考えます。というか、有効性を土返ししてもやらなくてはならない場合がある、ということです。ゼレンスキー大統領がロシアに対する反撃にどれだけ有効性を見ていたか知りませんが、まず自国を守ろう、死守しようと腹を決め、その意思や信念の強さに西側諸国の支援を呼び込んだのではないか、という気がします。勝ち目はないと退却する国を誰が支援するでしょうか。

試案「対抗力」

また、私は「抑止力」ではなく「対抗力」という概念で捉えたいと考えています。抑止力を配備するにはそれなりの準備と手間がかかりますが、なんらかの事象や状況に対して、神経反射的に瞬発力で国家意見として表明し対抗することです。国際政治に必要な国家能力であり、表明することがすなわち抑止力に資する計算があります。
安倍元首相の発言とは、対抗力の表明としてみることができます。

さらに、私たちはスウェーデンフィンランドの例を目の当たりにしたではないですか。6月29日、NATO北大西洋条約機構)は、2か国の加盟手続きを正式に始めることを決めたとの報道がありました。これに先立っての両国のNATO入り表明は、切迫感に裏打ちされつつ俊敏な対抗力の行使だったと捉えられます。この場合は、抑止力をそのまま対抗力として表明した例として見ることができます。

冒頭「ウクライナ侵攻は抑止の破綻だった。」と教授は始めて、末尾では「抑止の破綻を前に中国への核抑止力強化を求めることに意味はない。」と締め括っています。字義通りに受けとめて安易な核抑止力のエスカレートを牽制しているのはわかるのですが、この論調の底流にあるのは、戦争反対、平和希求といったところでしょう。

この根っこのところは同じでも、われわれの行動や発言は、なかなか同じにはなりません。今出回っている行動や考え方をXY座標に配置してみました。藤原教授の言われる「核抑止無意味」は、第3象限に入るでしょう。
私が区分した第3象限の6項目について、見てみましょう。

●戦術論─当たり前ですが戦略があって戦術があるのですが、戦略なき戦術とでもいうべきものです。戦略のない逐次対応作戦
は、敵味方の双方現状条件情報に支配されます。誤りに基づく諜報にも支配されます。その意味での他者依存であり、上位プランに収斂しない場当たり行動と言っているわけです。東谷暁氏はその著書「戦略的思考の虚妄」の中で「政治の目的を決めるのは誰であり、戦略を策定するのは誰なのか、そのことが問われないかぎり、戦略の議論は無意味」と、日本の数々の戦略論について、その主体性のなさを指摘しています。つまり、主体性に基づく戦略を欠いたプランは、戦術論に過ぎないとも読めるのです。

核廃絶─全世界一斉同時的合意や、際限ない時間が必要でしょう。この地球には、ならず者国家があることを忘れるわけにはいきません。理想には違いありませんが、自己意思だけでは済まないところに難しさがあります。この理想を無邪気に追いかける人がいるなら、それは幸せというべきでしょう。「核廃絶」とは論理的に破綻しているように思われますが、言い続けることが必要な性質のものかもしれません。

●核抑止無意味論─これは藤原教授の論述を指摘しているわけですが、軍事エスカレートに慎重である思想は、頷けます。教授著「平和のリアリズム」にも、それは漲っています。しかし、それなら軍事に頼らない政治的抑止策を教示頂けないかと思うのです。

憲法九条堅持─九条を守ることが戦争回避につながり、専守防衛が平和になる道との思考。他者、他国が、自分と同じように思考してくれると思えることが、正にお花畑と言うべきでしょうか。

●降伏論─他者他国を性善説で捉えていて、降伏の先にあるものを見ていないのでは、と思えます。「退却論」は昔からあったようで驚きますが、司馬遼太郎梅棹忠夫が対談でそれに賛成する旨を述べています。ひょっとしてリアリズム論として傾斜しているのでしょうか。ロシアや中国の恐ろしさを思う時、私はそんなインテリを唾棄せざるを得ません。しかも、侵略とは自国の文化を失うことであり、言論人がそんな事態に甘んじるのでしょうか。

日米安保条約─以前小室直樹が、日本の防衛に関して「アメリカにやらせればいい」と発言していたのを見て、自分の思考が転倒した記憶があります。他力を戦略的に活用する意味では、これほど利用価値のあるものはないでしょうが、早々にこれを捨て去り自立する道を、日本は目標とすべきでしょう。もう、半永遠の課題といった体のものかもしれません。

私は6項目を、他力本願の理想主義として
第3象限においてみました。
私は決して戦争を望むものではありません。座標図から言えることは、日本は変わらなければならない、ということです。但し、私見による真のリアリズムでは、核抑止と核廃絶論は同居していいし、戦略と戦術論は同居すべきものだし、憲法は改正して当たり前、降参や退却論は持っての他と考えます。
私が藤原教授の論述を否定的に捉えているのは、以下のような、今のわが国の状況があるからです。

侵食が進む国内

最近になって上海電力問題がクローズアップされてきて、日々情報が更新され、驚くような広がりを見せています。
発端は、大阪の咲洲(さきしま)メガソーラー発電所設置に纏わる事柄です。元大阪市長橋下徹氏が関与しているらしいことから、煙がたちのぼってきました。市への参入手続や、市民への情報公開状況等、明らかになればなるほど杜撰極まりなく、大阪市議会では侃々諤々やっているようですが、本質はわが国の安全保障に関わる論点での問題です。維新の会の松井市長や吉村知事は、口裏を合わせたかのように橋下氏を擁護しているかのごとき、また、国の方針のもとで動いているとのことで、全く国防意識が見られません。そこにあるのは、売国により維新の会へ利益誘導している、といわれても仕方がない図式があります。
大阪だけではなく、岩国でも上海電力のメガソーラー発電所の建設が進行中です。しかも、日本国のあちこちでソーラーだけではなく、風力発電についても中国資本が手を伸ばしてきている有り様です。

事の重大さは、中国のインフラ会社が国内にのさばり、いつでも日本を物理的にコントロールできる環境が形成されるということです。特に、中国には、国防動員法や国家情報法という法律があり、日本国内にいる中国人はいつでも中国共産党の指示に従わなければならないということがあります。今や、超限戦の中国に、すっかりインベージョンされてしまっているのです。サイレントではなく、日本人が中国に手を貸しているという破廉恥です。

正に「外患誘致」であり、橋下徹や、松井一郎や、吉村洋文以外に、河野洋平竹中平蔵北尾吉孝などの関わりも指摘されています。背景で誰かが大きな絵を描いているのでしょう。自分の利益のために日本を売ろうとして、中国に浸かっている面々です。「スーパーシティ構想」や「パートナーシップ協定」と国内向けに表現しても、中国側では「一帯一路」と明示しているのですから、舐められたものです。
このように日本が足元から中国の支配戦略に侵されつつある時、何故、国際政治の専門家が、「中国への核抑止力強化を求めることに意味はない」などと、わざわざ表明するのですか?中国に加担するのですか?と言われてもしょうがないでしょう。
国際政治の専門家なので、国内政治のことは眼中にないのでしょうか。

ロシアのウクライナ侵攻に対して、3月テレビ番組で橋下徹氏が「退却した方がいい」といった発言をし、保守系の言論人から総攻撃を受けました。これは、日本を虎視眈々と狙っている中国に対して中国を利するコメントとして非難されたわけです。私が、藤原教授の論文を批判するのは、これと全く同じ図式なのです。中国からの脅威はすでに始まっている実態があるのに、国内世論を諭すがごとき見解、それ今言うことでしょうか?

平和を志向する藤原教授に語って頂きたいのは、核へシフトしつつあるかのような国内世論をたしなめることではなく、中国との衝突をいかにして避けるか、核や軍事ではない政治的な抑止策であり、その道の手引きであるように思えるのです。

NATO加盟国に

また、素人考えですが、中国は日本と戦争することなく侵略する方向も考えているのでは、と想像します。サイレント・インベージョンMAXとでも言うべき戦略です。中国のアメリカとの「相互確証破壊」の成立を基に、アメリカは日本の管理を中国に譲るようなことがあるかもしれません。そこは、皇統や歴史·思想の自由のない世界です。中国共産党日本支部の成立です。
ですから、国際政治なり軍事の専門家が今為すべきは、上海電力問題を始め、安易な中国人帰化政策、中国資本での土地買い占め等々、日本が中国に浸透されてしまっていることを照射し、批判することかと考えます。間に合うかどうか·····。
かつ、さっさとわが国もNATO に加盟し(現在はグローバル・パートナー国)、起死回生を図らねばなりません。そんな切迫感に押されての奮起こそが、とても主権国家として胸を張れない、アメリカ父さん国の運命なのかもしれません。

参考文献
「戦略的思考の虚妄─なぜ従属国家から抜け出せないのか
「平和のリアリズム」 
「日本人のための戦略的思考入門─日米同盟を超えて
   孫崎享著 伝社新書
核武装論─当たり前の話をしようではないか
「平和構築入門」より第3章「拡散する核兵器
   佐渡紀子著 有斐閣コンパクト