萌え町紀行 ─ 4 自由が丘

あなたは自分の萌え町をお持ちでしょうか。
それは初めて訪れてすばらしかった、などというのとは違い、一定期間そこに住んで、日々暮らし、季節折々の変化を肌で感じ、日常の蓄積の結果、その地でのアルバムが一冊、人生の本棚に配置されてしまっていることに気がつきます。
ま、そのアルバムのページを繰り、辿ってみたいと思います。自分と空気のように交歓した町は、どんな彩りと匂いを伝えてくれるのでしょうか。

                                 ☆

ユーミンモード2021

「萌え町紀行」として体験談ではない切り口を模索しています。別の書き方が何かありはしないか、ということです。私にとっての自由が丘とは、そのようなものとして迫ってきます。広告コピーを書くように自由が丘を描いたらどうなるだろう、いや、町そのものについて語るとしたらどうなるだろう、そう思っています。

自由が丘という住まいの選択も、私の動機によるものではありません。5年ほど暮らしました。26年ぶりにこの町を訪れてみると、個々のショップの代替はあるものの、そう大きくは変わっていない、ということに安心します。

変容凄まじい渋谷駅、一昨年開業した渋谷スクランブルスクエアの地下にもぐって東急東横線に乗り込みます。さすが「ダンジョン」と呼ばれるだけあって、この深度とわかりにくさには閉口します。
私は無頓着だったのですが、人によってはこの路線にステータスを感じるようです。確かに東京と横浜を結ぶわけですから、言われてみればそうかな、という程度の感じです。中目黒、祐天寺、学芸大学と続き、その過程で記憶が起き上がってくるものがあります。
ふと、中吊り広告に目をやると、気になるものがありました。席を立ち、それを撮りました。「自由が丘だ!」と思ったのです。雑誌STORYの中吊りの特集タイトル「朝のオシャレな立ち上げ方」、ここに私は自由が丘がある、と感じてしまったのです。
DSC_0027.JPG
このタイトルにあるライフスタイルが、自由が丘というものとピッタリ重なるように感じるのです。おそらく30~40代の女性をターゲットとした、ファッション中心の構成です。モデルは明るく微笑んでいて歯の白さとともに爽やかさのオンパレードという展開です。雑誌に限らず、実際にロケ地として自由が丘が使われることは相当多いのではないでしょうか。コマーシャル向きの町とも言えましょう。

また、「朝のオシャレな立ち上げ方」というキャッチコピーにも、前向きに生きる積極的な女性のスピリットが表現されています。「立ち上げる」とは、パソコンや企画や事業を開始する際に使う言葉ですが、それを女性のライフスタイルのコピーとして取り込むセンスが「今」を発露させていて、そこがエモいと感じられます。鮮度がある分腐蝕も早いかもしれませんが…

ここまでで、すでに自由が丘の一面が出ていると思いますが、「女性の好きな町」ともされているように思います。それがどこからきているかと考えてみるに、それは猥雑性のない清潔感からくるのだろうと思います。歌舞伎町のようなところがないということです。建築物の高さ規制があるのか空も広いし、明るい感じがします。石畳の舗道にショップが次々展開しそれが界隈性を醸しだし、街全体がオープンモールのショッピングセンターとなっています。目黒区にモダンで西欧テイストの一角が出現している、そんな風に感じられます。

自由が丘の地名は、自由が丘学園からとったようですが、それが駅名になり、町名になっています。ネーミング倒れにならず、
内容としてオシャレ感を維持できているからこそ、支持されているということなのでしょう。秋には女神祭りがありますが、町をあげて「女性の街」を標榜しているのかもしれません。
DSC_0037.JPG
突如としてイタリア風の町並みが出現したりもします。カラフルでこざっぱりしていて、見方によっては薄いペラペラものと言えなくもありませんが、自由が丘をそのように切り捨てるには及びません。
20210509_095012-COLLAGE.jpg
亀屋万年堂本店や御門屋などの存在が、この町を引き締めている、と感じられます。和の老舗というところがミソでしょうか。
また、熊野神社があり、奥沢神社を擁する町なのです。私は神社仏閣を町の「臍」と考えています。フワフワと波に揺られて浮遊するのではなく、しっかり歴史という錨を下ろしています。

実は、亀屋万年堂をググっていたら、あっと驚くようなエピソードが出てきました。あのナボナの商品開発ストーリーに、イタリアのナポリと関わりがあったのです。こういう「いわれ」は本当に楽しくなってくるとともに、ブランド価値の生成にもつながるところがあり、おもしろい。詳細はここにあえて書きませんが、私が興味深く思う視点は、正真正銘の和と思っていたものが、なんと西欧のエッセンスを取り込んでいたというそのエスプリです。それはそのまま自由が丘の成り立ちと重なるように思うからです。このような他の文化の咀嚼度や、和洋折衷が巧みに実現していることが、この町を軽薄から救っているように思われます。

私が迷うことなく松任谷由実を自由が丘に結びつけたいと意図するのは、女性たちにとって恋愛の師匠であり、生き方の女神と思っているからです。宇多田ヒカルはコンテンポラリー過ぎるし、竹内まりやは旧来の女性のポジションの中に留まっています。その点ユーミンは、舞台演出であれ、ファッションであれ、振り付けであれ、歌詞であれ、クリエイティビティで、よく消化しているとともに生き方自体におしゃれのフレグランスを纏っている、と感じます。日本的な伝統に立脚しつつ、欧米的なスパイスも使いこなしているクリエイターではないでしょうか。実際に住んでいる場所とは別に、ここでのイシューはあくまで総合的なイメージのことです。

具体的に歌詞に現れる世界観を見てみましょう。
「ひとつ隣の車両に乗り うつむく横顔 見ていたら 思わず涙 あふれてきそう」
竹内まりやの「駅」からですが、恋々とした思いが情感たっぷりに歌われます。
一方、ユーミンの「ひとつの恋が終るとき」では、
「鍵ならかえさないで 二人のドアはもうひらかないから」
と、決然とした別離が歌われます。リズムもしっかりしていて、何しろ
「駅へ送ってゆくよ 最終電車 去ってしまう前に」
とあくまでも「送る」のです。「行かないで」ではなく、別れに際して自分の意思でしっかり「送る」ことを選ぶ、この主体性がカッコいい。

実生活においても、松任谷正隆を夫とし、仕事上のパートナーでもあるという、夫婦としてのよき関係性があり、このあたりも総合してユーミンへのリスペクトにつながっているのではないか、そう思えます。このあたりが女性たちの師匠たる由縁でしょうか。

音楽はリズムやメロディとともに構成されるので歌詞だけで決めつけるつりは全くないのですが、「駅」の歌詞はそのまま演歌の宇宙につながっています*。「ひとつの恋···」については、歌詞ではあるもののむしろ私はコピーを感じます。時代の感性に載せるというセンスはまさに広告コピーの世界でしょう。
「♪ポスターみたいに破ってしまいたいけれど···」
このフレーズを初めて聞いた時正にそう思いましたし、これは
「オシャレな朝の立ち上げ方」と同質のレトリックと感じられます。

歌や感性や生き方が時代を呼吸していると感じられるユーミン。この女性が自由が丘という町と重なってしまうのは、私だけの強引な接着ではないことを願うばかりです。
DSC_0035.JPG
私が住んだのは熊野神社のすぐ近くです。昔、隣町の緑が丘に三島由紀夫が住んでいた頃、熊野神社の祭で御輿を担いだエピソードはよく知られています。秋のお祭りは境内にビッシリ露店がひしめき、凄い人混みとなります。田舎者の私としては都内にこんな風情が出現することに驚いたものです。私の結婚式は、この熊野神社であげたという因縁もあります。
DSC_0036.JPG
久しぶりの自由が丘の空気に浸ったせいか、ランチはコーヒーではなく紅茶でスモーブローでも食べたい気分になってきました。カッティングチーズを、おおめにかけて…★

*註
竹内まりやの歌をダサいと思っているわけではありません。ユーミン、宇多田それぞれ聴きますが、圧倒的に竹内まりやに割く時間が多いのが実際のところです。

付記
こういう記事の書き方は、正に田舎者であることをさらしています。自虐ではなく、人に指摘されずとも知っているよ、と先に言いたいわけです。


萌え町紀行 - エピソード1

具体的な町の名前を出さないのは、実際に名前が出てこないし、出す必要がないとさえ思っているからです。それでは萌え町とは言えないのでは?という指摘がありそうですが、名前を出さないものの私とは熱いというか、深いというか、否応なしに関わりがありました。
今回、私はコラム星からノベル星へ出張しています。折角の機会なので、エッセイやコラムからスピンオフし、ノベル的な世界へ立ち入ってみようか、というわけです。
制作上、ノベルというよりメルヘンやファンタジーに近い作りというべきかもしれません。その際に実名を出さずともストーリーとして成り立つと思っています。つまり実際には町も人物もモデルがあるものの、少し抽象化しているということです。

カエルの神様─ある姉妹の物語

この部屋からはすぐ川が見えていた。
けっこう大きな川だったが、故郷のそれとは異なる点もあった。川のうしろに山がないのである。しかし、陽射しの加減によって届いてくる水のきらめきは、山深い自分の生まれ育った町を思い出させてくれ、気持ちを落ち着かせるものがあった。キコはこの部屋を気に入っていた。
ここは、病院の二階だった。入院してからだいぶ日数が経っていた。
妹のアコがまた来てくれていた。
「キコねえさん、いいものを見つけたわ」
アコが包みを解くと箱の中から白いカエルが出てきた。カエルの置物だった。土産物のようでもあり、何かご利益がありそうで、何よりもその姿がかわいらしく感じられた。
「アコはカエル、好きだからね。とうとう、こんな置物見つけたのね」
「そうなのよ、れっきとしたカエルを神様として奉る神社のものよ」
アコは、窓辺にそれを置いた。
「生きカエル、よみガエルよ。ねえさん、早く元気になって」
キコは、カエルの神様に元気づけられでもしたかのように、半身をゆっくり起こした。
「アコ、私はもう寿命よ。私が先に兄さんたちに会うことになるわ。このカエル、小さい兄さんにきっと渡してあげるね。私が先に会えるんだから、アコの思いを果たしてあげるわ」
するとアコは
「なに言ってるの。このカエルは姉さんのためのものよ。兄さんには、私が持っていくから、そんな心配しないで早く元気になってちょうだい」
キコは、なつかしむように昔の話をしだした。
「あの日は、ほんとにびっくりしたね。今でも、はっきり覚えているよ、大きい兄さんのこと。つくづく、あの日は、私たちの幸せの始まりだったね」
「また、姉さんの昔話が始まった」
そう言うアコも、今日はキコの思いに寄り添いたいと感じていた。
カエルのせいかもしれなかった。

                               *

その日家に帰ると、子供のアコはまた、軒下にぶら下げた小さなカエルの縫いぐるみをいじっていた。
「アコが触ってばかりいるから、そのカエルだいぶ汚くなってきたね」
姉のキコがそう言うと
「そうね、でも作り直すのはちょっと縁起が悪いような気がして···」
アコは、不満そうな顔になった。
そのカエルは、アコが緑色の端切れを円形にして縫い、中に綿を詰めて膨らませ、目玉を付けただけの、カエルの顔に似せたものだった。それに紐を付けてぶら下げていた。
「どうしてあの日、小さい兄さんは私が家にもどる前に戦争に行ってしまったのかしら。もう少し待っていてくれたら、この御守りを渡せたのに」
そういうアコに
「また、アコの口ぐせが始まった」
キコは、何度アコのこのセリフを聞いたことか、とあきれていた。
大きい兄さんにはカエルの御守りを渡すことができたのに、小さい兄さんには渡せずじまいなっているのだった。特にアコは、若い小さい兄さんとは、よく遊んでいた。
アコは、小さい兄さんに自分の作った御守りを渡せなかったことを本当に悔しく思っているようすだった。
終戦から数ヵ月が過ぎていた。
この山あいの町にも確実に戦争はきていた。キコの家の裏側、川の向こうにある工場は米軍機の銃撃を受けていた。軍需工場が狙われたようであった。民家が被弾することがなかったのは、幸いだった。
キコは、アコと小さい兄さんがよく遊んでいたことだけではなく、アコにせがまれて宿題の手伝いをしていた頃の小さい兄さんのことを思い返していた。
どうして戦争なんてするのだろう、この世はわからないことだらけだった。大きい兄さんが出征してからどのぐらいになるだろう。もう、終戦になったのだからとっくにみんな帰ってきていいはずだった。
父さんは、仕事からもどると、
「帰ってないか?」と言うことがクセになっていた。
母さんは、大きい兄さんと小さい兄さんが二人で使っていた部屋を毎日毎日掃除をするのだった。いつも力一杯あきれるほど畳拭きをする母さんを見かねて、キコは、
「母さん、そのうち畳が擦りきれるよ」と声をかけたが
「きれいな畳の部屋でゆっくり眠らせてやりたいのさ。戦地ではろくに寝てられないだろうに」
そう母が語るものの、もう終戦になっているのだから、もし生還していれば、どこかで存分に眠る時間はある筈だった。
もう17歳になるキコは、母の言うことは少しおかしいと思うものの、近所では掃除好き、きれい好きで知られていたほどだった
母に、何も言い返したりはしなかった。
町の通りは商店や旅館ばかりだったが、キコの家は普通の民家だった。
この山あいの温泉町で、キコの父は商店を営んだこともあったが、今は旅館の仕事をする方が実入りがいいとして、いつも働きに出かけていた。
アコが学校からもどり、キコに言われて汚れたカエルを作り変えるべきか迷っていた日、玄関の戸が開く音がした。
アコは、玄関に行ってみた。
すると、そこには無精髭だらけ、まるぶちメガネの奥の眼をらんらんと光らせる兵隊が突っ立っていた。
アコは傷痍軍人が物乞いに来たのかとあわてていたが
「アコか?」
という声に聞き覚えがあった。
「・・・大きい兄さん?」
玄関口のようすを察してか、奥からキコが出てきた。
「・・・兄さん、兄さんじゃないの!」
そこへ、買い物を終えた母がもどってきた。
母は、兄さんをすわらせると、ポロポロ涙をこぼした。キコもアコも、急に気がついたかのように泣きだした。
その日は、予期せぬ突然のできごとに家族は幸福感に包まれた。
夕食はうれしい珍客を交えたような格好となったが、大きい兄は自分の弟のことを尋ねた。父の顔と母の顔を見た。
「あいつは、まだ?」
「・・・・・」
父は首を横に振った。母は、また泣き出しそうだった。
「ここに、今日揃っていたらよかったのに・・・」
と言うそばから母は眼を押さえた。
アコが言った。
「大きい兄さん、小さい兄さんと一緒に帰ってくればよかったじゃない。どうして連れて帰らなかったの?」
するとキコが
「同じ所に行ったわけじゃないんだから一緒に帰れるわけないのよ。幼稚園児みたいなこと言わないの」
ところがキコの言葉にアコは怒り出してしまった。
「何よ!大きい兄さんは、絶対に小さい兄さんを連れて帰るべきだったのよ。兄さん、今からでも連れてきて!」
と言うそばからアコは泣き出した。
「小さい兄さん連れてきて!連れてきてよ!」
アコの泣きじゃくりながらダダをこねる様は、まるでほんとに幼児にもどったかのようだった。
夕食が終わると、兄さんは、薄汚れたリュックの底を漁っていたが
「アコ、これ、ほら」
アコはなにごとかと怪訝な顔だったが、みるみる眼に輝きが増した。
「あ、これ」
それは、リュックの底で上の荷物に圧しつぶされ、ペッタンコになった、カエルの縫いぐるみだった。アコがくれたものを大きい兄さんは持っていたのだった。
「俺がもどれたのは、アコの作ったこの御守りのせいかもしれないな」
そう大きい兄さんに言われて、アコは何かを考える風だった。
アコは何かで読んだカエル大明神を信じてよかったと思った。アコは兄さんに言った。
「ほんとにカエル大明神はいるんだ!」
1946年(昭和21年)、新緑がみずみずしく輝きだしたこの町にも、日本中が復興へ向けて動き出した活気が押し寄せてきていた。
27歳、キコの兄の生還は、五十代の父とともに、この家の家計を支える労働力の増強を意味していた。キコは母の表情に、とても生き生きしたものがみなぎってきたようで、その元気は自分にも移ってくるように思われた。満州に行き、衛生兵として従軍したらしい。五体満足でもどれるとは、なんという僥倖であったろう。
翌日、兄さんの無精髭もさっぱり剃り落とされ27歳の若々しい青年の顔があった。また、キコの家の軒先にはアコが新たに作ったカエルの縫いぐるみがぶら下げられた。一回り大きくなり、前のものよりはこぎれいになった。通りがかりの人は、てるてる坊主ではなくカエルを下げて、雨乞いでもしているのかと不審がった。
それから1カ月して、キコの家に通知が届いた。それは、小さい兄さんが戦病死したとのことだった。それを読んだ大きい兄さんが伝えた。この時アコはいなかった。
キコは、とてもアコに言えるものではない、と感じていた。

                            *

それから十年経った。
アコが嫁入りする日が近づいていた。
もう父は亡くなっていたが、長男が生還しキコの家は、日本の戦後復興と歩調を合わせるように、標準的な営みを得ることができた。
「キコねえさん、先にこの家出るね。」アコは告げた。
「ああ、さっさとお行き。大きい兄さんいるし、この家のことはいいから自分の幸せだけを考えなさい。小さい兄さんの分も生きるんだよ」
アコは、思い出したかのように仏壇に手を合わせた。父の脇に小さい兄さんの遺影も並んでいた。
「キコ姉さんも、早く結婚してよ」
そうアコに言われてキコは笑うばかりだった。アコの嫁入りで、人生で初めてキコとアコは離れることになった。
アコの嫁入り姿に、母はまたポロポロ泣いた。母は夫に先立たれていたが、しかし、すでに長男の大きい兄は嫁をとっていて、三人の孫たちに囲まれていた。
「母さん、私は戦争に行くわけではないのよ。いつでも会えるのよ」
アコは、母を慰めた。
その後、キコもしばらくして嫁入りした。

                            *

それから、およそ六十数年の歳月が流れた。
キコもアコもそれぞれ家庭を持ち、孫たちもいる、おばあちゃんであった。
この部屋からはすぐ川が見えていた。
けっこう大きな川だったが、故郷のそれとは異なる点もあった。川のうしろに山がないのである。しかし、陽射しの加減によって届いてくる水のきらめきは、山深い自分の生まれ育った町を思い出させてくれ、気持ちを落ち着かせるものがあった。キコがこの部屋を気に入っていたことを、アコは思い返していた。
すでにキコのいた病室はかたづけられていた。
「最後見とれなかったわ」
そうアコが言うと
「母さんはアコおばさんの気持ちはわかっているわ。あのカエルをもらってから、いろいろ昔のことを思い出していたわ」
そう言うとキコの一人娘は続けた。
「母さんの話を聞いているうちに、私思い出したことがあるの。昔、私が小さい頃、母さんに連れられて靖国神社に行ったことがあるの。当時はわからなかったけれど、小さい兄さんのことが気になっていたのね」
「そう、キコ姉さん、小さい兄さんの慰霊をしていたのね。英霊だものね。終戦の年に二十歳で召集されたのよ。父さん、何か手を打てなかったのかしら。もともと病弱な人間を出征させることが間違いよ」
アコはぶつけどころのない気持ちをくすぶらせていた。
「そのことは母さんも言っていたわ。でも、やっと母さんも小さい兄さんに会えているのね」
「そうね、今向こうで、みんな集まっているのね。父さん母さん、大きい兄さんも小さい兄さんも」
アコは、川の方を見ながらいった。
「母さんがね、このカエルの置物は棺に入れるなというの。アコおばさんに少しでも長生きしてもらいたいから、渡してあげてってきかないのよ。」
ベッドの上にちょこんと置かれたカエルの神様は、とても愛嬌があった。
「小さい兄さんには、私の手からカエルを渡すチャンスを残してくれたのかしら。いずれ、みんな同じところに帰るわね」
「あれ、カエルの神様・・・」とキコの娘。
「どうしたの?」とアコ。
「今、目が光ったのよ。涙がこぼれたように見えたわ」
「・・・・・」
その時、窓の外からは夕陽の照り返しが一斉に天井に届き、この部屋は突如として神々しい明るさに包まれた。
「あ・・・」とキコの娘。
「あ・・・」とアコ。
二人は同時に何とも言えない、今まで味わったこともない安らぎに満たされていた。カエルの神様は少し微笑んだかのようだった。
・・・・・
「アコおばさん」キコの娘に起こされアコは目をさました。
「今、家族がみんな揃っている夢を見ていたわ」とアコ。
「何を言っているの。私も一緒だったじゃない。私も見たわよ。みんな揃っていたね」
「そう、夢ではなかったのね」
「二人が同時に同じ夢を見るなんてことないわ。夢ではないのよ」
「なんか、とってもうれしい気持ちよ」
「そうよ、アコおばさん、いつもみんな一緒なのよ。いつでも一緒になれるのよ」
キコの娘も、今まで一度も味わったことのない気分に包まれていた。
外を眺めたアコには、川の水面に照り返す夕陽にまじって、また、いま向こうの世界で、新たに加わったキコを含め、みんなが談笑している姿が見えていた。
特に、子供の頃、よく遊んだ小さい兄さんが、元気ではしゃいでいた。
アコおばあちゃんは、みんなの分も、精一杯生きようと思った。★

2021.5.25

萌え町紀行 ─ 3 鎌倉

あなたは自分の萌え町をお持ちでしょうか。
それは初めて訪れてすばらしかった、などというのとは違い、一定期間そこに住んで、日々暮らし、季節折々の変化を肌で感じ、日常の蓄積の結果、その地でのアルバムが一冊、人生の本棚に配置されてしまっていることに気がつきます。
ま、そのアルバムのページを繰り、辿ってみたいと思います。自分と空気のように交歓した町は、どんな彩りと匂いを伝えてくれるのでしょうか。

                                 ☆

エロスの都

鎌倉には十数年間住むことになりましたがこれは自分の動機に基づくものではありません。しかし、鎌倉には人を呼び寄せるものがあることは紛れもない事実だと、経験をもって語れます。
鎌倉について語ろうとして可能な、その切り口の多様な豊富さは、正に鎌倉の魅力の一端と言えます。約めて言えば、多様な魅力が人を惹き付けるのですが、今回はそのことに触れるわけではなく、文芸的な側面から語ろうとするのは、何ともありがちなな発想との謗りを免れないでしょう。このテーマ的な負を抱えてでもその領域に分け入ってみようとしています。
鎌倉で暮らすという日常は、否応なしに文芸的なことを引き寄せてしまうところがあり、それが私の栄養になったかはともかく生活の空気となったことは、間違いないことかと思っています。

円覚寺の竹林
STORYPIC_00005230_BURST210419124917.jpg
藤原定家鎌倉時代歌人だと知った時には(定家の後半生)、あまりにもイメージがぴったり合い過ぎてうれしくなりました。この思いに深い意味はなく「軽いノリ」での話です。この鎌倉が隆盛した時代に、正にその時代に京都に定家がいた、ということから私の中で無意識の飛躍が起きて、定家は鎌倉にいたことがある、という風に記憶されました。
しかし、後から自分の記憶を怪訝に思い、私にそう思わしめたのであろう出典を読み返してみましたが、結局何もその根拠は見つかっていません。考えてみれば、定家は天皇に支える公家であったわけですから、武家の都に来る筈はないでしょう。他の文献等でもそういう記載は見つかっていません。

私が定家が鎌倉で作ったとまで思わせられる歌は、これ一つで十分です。

大空は梅の匂いに霞みつつ
曇りも果てぬ春の夜の月

この歌の解説については多くの文学者が語っていることで、素人の私からはスノビズム丸出しになるような気がするので、やめておきます。
鎌倉には、こういう春の宵があるのです。陶然たる艶然たる春夜です。陽が落ちて家並みが夜陰に紛れ始める空気にただよう、えも言われぬ感覚、触感。官能の帳が一気に世界を覆い尽くしていきます。
DSCN1313.JPG
また、桜の季節に、昔実朝が惨劇にあった銀杏の木を意識しつつ、源氏池端から中空を見上げるその月が、艶かしい滑りのような手触りをもたらします。咲き誇りあい、ひしめく夜桜の協奏曲が、それを華やかに盛り立てます。
定家の歌の一字一句との照合ではなく、そこにたち現れる「世界観」が、正に現実に顕現する感覚を私は味わいます。私の中で、定家と鎌倉は渾然一体となっています。

「定家は京都のお公家様なのだ」と指摘されたとしても、私に生じた感覚を引き裂きようはないし、あえて言えば京都的なものと鎌倉はつながっているとは言えるのではないでしょうか。このように思うとき、定家が京都で「明月記」を書き綴った鎌倉時代を、現代の鎌倉において思い浮かべる時、それは、地理的な感覚を麻痺させてしまうところがあります。
しかし、それにしても「鎌倉の宵」という抽象的なものに、鬱勃たるエロチシズムを感じる感覚は、特殊なことなのかもしれません。

長谷一丁目の我が住まいのすぐそばに、鎌倉文学館の登り口があります。旧前田侯爵邸を文学館に改修したと、伝わっています。特に、「春の雪」での松枝清顕と綾倉聡子の逢瀬の場として、この館がモデルになったと知ってからは、あらためて訪れたものです。この館から庭のかなた下方に見える、由比ヶ浜の絵画的な光景が印象的です。

「春の雪」中、松枝侯爵邸を聡子が訪った際のシーンがあり、以下のような描写が出てきます。聡子が侯爵邸の庭で花を摘んでいるところです。

「平気で腰をかがめて摘むので、聡子の水いろの着物の裾は、その細身の躰に似合わぬ豊かな腰の稔りを示した。清顕は、自分の透明な孤独な頭に、水を掻き立てて湧き起る水底の砂のような、細濁りがさすのをいやに思った。」

清顕のリビドーの勃興に、若々しい青年らしい羞恥を重ね合わせる叙述は、視覚と心理を描いて官能に至る構図が、春宵の月と梅という視嗅覚の艶然たる定家の描写と重なるものとして感じられ、ここに日本文学の伝統が息づいています。

「春の雪」に関してこの辺りの描写が浮かぶのは、最近「蝉しぐれ」中の描写に、非常に似たような場面があることに気づいたことがあげられます。

「そのうしろ姿を、文四郎は立ち止まったままぼんやりと見送ったが、自分が見送ったものがふくの尻のあたりと、裾からこぼれて見えた白い足首だったのに気づいて、はっとわれに返った。」

綾倉聡子と小柳ふくとでは身分の違いがあり過ぎるとは思うものの、おふくは後々お福様になるわけでもあり、この点でも少しは似たようなオーバーラップになったかという気がします(正確には時代も家柄も違います)。
三島も藤沢も、視覚描写から心理描写への引き込みかたはよく似ています。非常に下世話に言えば男のエッチな目線ということになります。また、日本女性は和服を着たまま男性を誘惑できるし、男性も和服を着た女性に敏感に反応するという、この繊細極まりないエロチシズムはぜひとも強調しておきましょう。日本的ストイシズムであり、美学でもありましょう。

このような意味合いで、「蝉しぐれ」の結末近くで省筆の良さが際立っていると感じられるところが出てきます。それは、お福様と文四郎との最後の逢瀬、別れを伴った哀しい一時を

「何時間経ったことだろう」

との素っ気ないワンフレーズで片づけつつ
全てを語り尽くしてしまう表現に、禁欲があり、含蓄があり、日本的な描写として喜びたいと思います。

一方「春の雪」でのこれも最後の逢瀬になるのですが、清顕と聡子との描写について三島はガッツリ、微に入り細を穿ち描ききるのです。もちろん、三島のことですから流麗な文体で若い二人の性愛を日本語表現の高みにまで引き上げるかのように、美事にドローイングしていくわけです。
ここは比較論としては何とも言えないところですが、私は藤沢の省筆にも、三島の筆の優雅にも、賛辞を贈りたい心境です。

とはいえ、おそらく三島の念頭には世界があった筈であり、省筆の日本的な手法で語ることより、欧米的なオープンさも踏まえた上で日本語の美を表現しようとしたものと思われます。これができるのは、正に彼だけの才能に負わなければならないのは自明のことです。三島としては日本人好みの枠に安穏としてはいられないのです。究極のエロチシズムを世界にもわかる形で、かつ日本的美も表出したかったのだろう、そんな気がします。しかし、藤沢が省いたものを三島は描き切るとはいえ、なお含蓄はあるのです。

ここはD・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」にあるような世界とは雲泥の差と申しましょう。ポリティカル・コレクトネスを欠くような言辞にあたるかどうか知りませんが、アングロサクソンの文化は大したものです。ヒロインのコニーに

「ああ、何ていいんでしょう!」

と語らせてしまう神経、1950年伊藤整訳本が発禁処分になり、裁判沙汰になったのも日本的感覚としてはある意味頷けます。同時に、この動きをGHQが差配したなどとは「臍が茶を沸かす」と断じましょう。このあたりは日本文学に通暁しているドナルド・キーン氏にでも解説願いたいところでした。「チャタレイ夫人の恋人」の文学的価値はさて置き、この慎みのかけらもないオープンさは現代の欧米の方々にもまっすぐにつながっています*。インスタグラムで、上であれ下であれ女性の具体的なパーツを晒すことを自慢気に競うこの文化は一体何なのか。

DSC_0022.JPG
さて、長谷のわが家の町内には、甘縄神社(甘縄神明宮)があり、その鳥居の脇には川端康成の家(川端康成記念会)があります。1分もかからないところです。

川端文学についてはあまり熱心には読んでいませんが、「千羽鶴」については強烈な印象があります。確か高校生の時でした。
具体的に、どんな描写や表現が契機となって強く刻まれたのだろう、と思って読み返してみたのですか、これが全くわからないときています。例えれば、おいしいとの明確な味わいの記憶は残ったものの、おいしいと思わしめたメニューが具体的に何だったか、読めど探せどわからないのです。

今読んでわかることは、これは大人でなければ実感的にはわからない官能の描写があると感じられます。いかに十代がセンシティブで多感とはいえど、これは難しいでしょう。川端が太田夫人や文子を描く時、三島や藤沢がヒロインの着物姿を、その下にある裸身を想像させるかのような叙述を採った方法とは、あまりに異なるアプローチなのです。
抽象的であり、感覚的であり、いきなり官能に到達するという点では、定家の手法に近いということかもしれません。そこにはやはり、省筆や含蓄が使われていると見えます。
「含蓄」については谷崎が方法論として語っていて、川端も谷崎の影響を受けていたとされますから、当然のことなのかもしれません。

千羽鶴」については、胸の痣や、ズケズケしたちか子や、口紅の痕があるかなきかの志野茶碗の縁という「濁」のイメージを配しているとの意図を感じます。魔性の小説には相応しい彩りですが、というより、これは性愛そのもののある側面を描き出していると見る方が自然でしょう。これは「春の雪」や「蝉しぐれ」にはない世界です。川端の美への鋭さは、醜への感度の高さと同義といえましょう。

また、菊治の、太田夫人への思いや外形に対する描写は、あるかなきかの幽かなものです。柱となる物語もでてきません。明確なストーリーを放棄して、放恣な男女の情欲を二重三重に描くことを通じて性愛そのものの持っている、とりとめのない寄せては返す波のような感覚の世界を顕現させているのではないか、そんな印象を受けます。

そんな妖しい男女の交錯にすかさず配置される志野の水指や赤楽の筒茶碗を見る時、私は背後に魯山人の世界が広がっているように感じられてきます。そのような指摘がすでになされているかは預かり知りません。魯山人の食と器を一体化した捉え方や「食器は料理のきもの」と語る、そのような関係性を川端がどれだけ意識していたかは知る由もありませんが、蠢く男女と絢爛たる陶器との一体化や同質化を企図していたのでは、とさえ思われます。一つの織部が、男女同士が関わり合うと同じように手から手へ委ねられていく様は、微妙に気色の悪さを伴っていつつも、陶器自体の存在感も際立ってきます。こういう意味で魯山人を感じているわけです。

見渡せば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮れ
(うらのとまや)

これは、定家の天才ぶりが面目躍如たる歌として認識しています。この歌について二年前に亡くなったドナルド・キーン氏が、墨絵の世界として解釈している文章に出会いました。淡彩的というか、非常に抑制的な色彩感、微妙な幽玄な描写だという指摘です。私は、堀田善衛などが解説する「なかりけり」と言うや否やむしろ現前する絢爛たる花や紅葉の華やぎを味わう解釈を好みます。これ有名な話でして、キーン氏の認識を意外に思うくらいなのですが、こうした感覚に出合う時、「千羽鶴」は正に恬淡な味わいに満ちていると気づかされます。おどろおどろしいエロスの大胆と同時に、淡い超精妙な感性それこそ「末期の眼」に通じるものを感じずにはいられません。

円覚寺境内
STORYPIC_00005283_BURST210419124301.jpg
冒頭、円覚寺の茶会の書き出しから始まるわけですが、ある意味「円覚寺」が「千羽鶴」の世界を語り尽くしているようにも思われます。山麓に広がる瀟洒な寺院、手入れの行き届いた清々しい「鎌倉五山」のひとつには違いありませんが、死霊の世界が濃厚にはびこっていることも事実です。エロスとデスが出合う舞台それが「千羽鶴」なのかもしれません。

長谷の後は鎌倉宮に近い二階堂というエリアに住みましたが、かつて川端もこの地区に居たことがあったようです。小説家、文芸評論家、詩人など、鎌倉は犬も歩けば作家に当たるというほど、文芸関係者を呼び寄せているようです。★

補足
チャタレイ夫人の恋人」の文学的価値を否定するものではありません。表現のオープンさを意図的に抽出したものです。ロレンスの狙いは、センセーショナルな描出のはるか先にあると思われます。
また、「チャタレイ裁判」に関連して、日本で無修正版が出版されたのが1950年で、本家のイギリスでは1960年とは、その辺は事情がありそうな話です。ロレンスは、イギリスで1928年にはこの小説を発表していたのですから。
ドナルド・キーン氏には「ドナルド・キーン著作集」全15刊という大部な著述記録があり、この中で「チャタレイ夫人の恋人」について何らかの言及があるかもしれません。




「萌え町紀行」のスキームについて

スピンオフ
「萌え町紀行」ということで汐入と上大岡について書いてみました(公開済)。その後も、いくつかの町が題材として控えているのですが、ここで、ふと立ち止まってしまいました。
DSC_0464.JPG
故郷も萌え町の一つとなるでしょう

漫然と書いていては、一般的な紀行文との違いが不分明になり「萌え町紀行」が続かなくなるような懸念が襲ってきたのです。
各記事のイントロ部分で「萌え町紀行」の世界観は表現していて、自分としては意識的とは思っているのですが、第3回の記事を構想している時に、フレームワークが甘いような気がしたのです。
そこで、「萌え町紀行」の立ち位置を明確にしようという気になっています。
つまり、もともと概念的な設計を行なってから着手しているわけではありません。

「一般的な町紀行」と対比させてみると表のようになります。
1617955603894_燃え町フレーム.png
この表で一目瞭然とは思いますが、少し補足が必要でしょう。紀行制作者イメージの愛好家とはどういうことでしょうか。

生活者とはその町に住んでいる人のことです。仕事従事者とは、その町に住んでいなくとも、仕事を通じて深い関わりを持つケースを想定しています。その町が勤務先ということです。愛好家とは、その町に暮らしていなくとも、例えば文芸作品の舞台や作家への愛好の結果、深い関わりを持つに至るケースを考えています。その為の訪問が一回や二回で済まない人達のことです。
仕事従事者と愛好家は、そのまま生活者に至ることもあります。いずれにせよ、一時的な旅行者とは属性が違うだろうと思うわけです。

紀行文の書き手を考察してみたわけですが、今度は書かれたもののスタイルについて検討してみたいと思います。
一般的な紀行ものではエッセイのようなスタイルが多いような気がします。旅先でのことをエッセイとしてまとめ、その結果紀行文になる、そんな感じでしょうか。ルポルタージュはいくら旅先のできごとでも、それはルポルタージュに分類されるように思えます。この場合、ルポルタージュ的な紀行というものは、あり得るのかもしれません。

ここで、私が漠然と構想しているのは、コラム的な紀行文というものがあるかもしれない、ということです。では、コラムとは何なのかの話になりますが、辞書により辿ると文章の短さもその特徴の一つとなるようですが、そんな外形的なことはさておき、批評文のたぐいとしてみたいと思います。その根拠は、となれば、すでに別記事で引用した山本夏彦氏の「異論がなければ意見はないはずである」辺りに至ることになりましょう。異論が批評を構成するわけです。

しかし、文章スタイル論もあまり本質的ではないような気がしています。ここで私が言い得るとすれば、こんな概念整理的なことよりも実際に「萌え町紀行」や「萌え町コラム」を書いてみることの方が重要ではないか、ということです。

こんな理屈ぽいフレームワーク作業も、一旦まとめ終えてみれば、ここに至って新たに、はたと気がつくことが生まれます。
それは「一般的な町紀行」も「萌え町紀行」も、紀行文である以上、制作者が制作時点現在から過去を遡及するものだということです。体験や思考の再構成だということです。旅行しながらの、ほぼ同時的な旅行記作成といえど、書く時点での追体験、回想であることは免れないでしょう。
ということは、「一般的な町紀行」も「萌え町紀行」も、「紀行」という概念にインクルードされてしまうのではないか、と思えてきます。どちらも「〇〇紀行」なわけですからその意味では極めて当たり前の結果になったとも言えます。

しかし、この結論は私にとってとても意義のあることと言えます。これは自分が創作した「萌え町紀行」の概念の裾野を豊かに敷衍してくれるもののように感じられるからです。鳥が風を得て自在に大空を飛び回るように、私は「萌え町紀行」の地平が広がったように感じています。これは紛れもなくフレームワークの成果と思えます。

また、何故私は「萌え町紀行」にこだわったのかということですが、それは、紀行文というジャンルに新たな視点を構成できないものか、ということに尽きます。通常の旅行や観光を経ての紀行文が一般的とすれば、そうではないジャンルの構築ができないものだろうか、という着想です。

最後に似たような用語があるのでこれを使い倒してみようとすれば、「萌え町紀行」を「一般的な町紀行」との対比表の形でフレームワークし、表内に記載した内容が「萌え町紀行」のコンセプトの一端であり、この記事を通して構想している計画全体が「萌え町紀行」のスキームということになりましょうか。

方法論に意識的であること、これはコラム星人としての重要なテーゼに他なりません。
ここから先は、実際の紀行文としての記事を制作していくことしかないでしょう。第3回は鎌倉を予定していますが、さて、うまくまとまるものやら···★

萌え町紀行 ─ 2 上大岡

あなたは自分の萌え町をお持ちでしょうか。
それは初めて訪れてすばらしかった、などというのとは違い、一定期間そこに住んで、日々暮らし、季節折々の変化を肌で感じ、日常の蓄積の結果、その地でのアルバムが一冊、人生の本棚に配置されてしまっていることに気がつきます。
ま、そのアルバムのページを繰り、辿ってみたいと思います。自分と空気のように交歓した町は、どんな彩りと匂いを伝えてくれるのでしょうか。

                                 ☆

風 の 渚

車でこの街に入ると駅前の両サイドに急に高いビルが現れる、上大岡はそんな印象しかなく、通過する町に過ぎませんでした。しかし、思いがけず暮らすことになった4年半はとても生き生きとしています。今、桜が咲き始めたこの季節に、上大岡という町を思い返すのは、現在と過去を同期させてくれるようなところがあり、この上なくよいタイミングになったと感じられます。というのは、何しろこの町は、私の中でいつも花々が咲いているのです···
DSC_1373.JPG
桜というありふれたモチーフから入るこの平凡さもこの町には似つかわしいように思えます。大岡川沿いの桜は確かに豊饒な桜の賑わいを見せ、そこに集う人々の表情に桜の華やぎの影響を読みとることは容易です。こういう季節が常にあればとは思いますが、しかし、少し考えれば年に一度しかこない期限つきのイベントであればこそ、桜の華やぎがいやますことは、誰しも思うところでありましょう。

イト-ヨ-カド-別所店を少し過ぎた辺りから横浜市立南が丘中学校へ至る道に桜並木のところがあります。ある日、次から次へ親子連れが現れるので、たぶん入学式と知れました。桜と入学式、何度見ても晴れやかなシ-ンであり、親子の大きな節目がこんな季節にことほがれるとは、なんとも喜ばしいことと言うしかありません。大袈裟とは思いますが、こんな瞬間に神様の存在を浮かべてしまう自分は、たぶん、どこか感性の回路がショートしているのでしょうか。

親子連れが疎らになりだし、時間が迫っているのかと思っていると、角を曲がってまた母子が現れました。なんと、少年の背丈はお母さんの身長を越えています。しかも、少年の手はしっかり母の手につかまっています。年齢的には少年でしょうが、身体的には青年とも言えそうなぐらいです。私は軽い驚きとともに、とっても「かわいらしい」と感じていました。
微笑ましいと思ったのではありません。よくよく考えてみれば、子ではなく、母に視点があったのかもしれません。たぶん、この子と手を携えて歩く最後の機会と思っていた、そんな想像があったのかと。
以前の自分なら、あまっちょろい奴とその子を侮蔑的に一笑していたのでしょうが、こういう気持ちの感じ方に少し変化が起きているように思えます。少年の気持ちもまるごと受け入れた上で、かわいらしいシ-ン、そう感じている自分がいます。
満開を過ぎた桜並木の下、シンボリックな映像展開の中に何かとても満たされているものが感じられ、この世をことほぎたい気持ちになってきます。
20190328_111353-COLLAGE.jpg
桜の季節だけではなく、通勤途中にしろ、休日に図書館に向かう道すがらにしろ、さまざまな花と出会います。花と言っても特別のものではありません。住居の軒先の鉢植えや庭先の樹木の花、家並のない路傍に咲く花もあります。いったいどうしたことでしょうか。世の中に急に花が溢れだしてきたわけではないでしょう。おそらく、私が、そのような日常に彩りを見せるもの達を受け止め出しているという変化、と思うのです。きれいごとを語ろうとしているわけではありません。気持ちの中に生起する微妙な変化をスルーせずに、キッチリ捕捉しようとする何かです。

当然花や鳥や月だけではなく、人とのやりとりで生じる感情的な動きについてもです。理屈ぽい私のことですから理屈が絡むことは余計にそうなります。
きれい、かわいいなどに対する受容の広がりは、おかしい、変などに対する追求の高まりと、ほぼ同期しているかのようです。

散歩を目的に出かけることはまずありません。ボールペンの替芯を買いに行くとか、図書館に期限になった本を返しに行くとか、本当に些細な用事があってのことです。しかし、この道中を散歩と言ってもいいのではないでしょうか。通勤とかではなく、休日に些細な目的で出歩く時間は散歩に他ならないのではないか、と思います。

散歩の達人」では、散歩について何らかの規定や定義を記載しているのでしょうか。私の見るところ町や街のガイドブックと言えば聞こえはまだしも、ショップやレストランの宣伝媒体になっているのではと危惧されます。「HANAKO」が高額の広告料をとってショップ記事を掲載していることは、周知の事実です。とはいえ、人権や差別を不必要に煽って世論をミスリードする雑誌に比べればまだマシなのかもしれません。雑誌ビジネスを論難するつもりはありませんが、思想の「清貧」は問われるべきでしょう。せめてここは「散歩の達人」に頼らずとも散歩のオリジナルな定義を試みてみるのも一興です。
散歩とは、宇宙と交歓する歩みと感じられます。

野暮な説明は抜きにして、近所を「徘徊」した折りのちょっとした出会いが思い出されます。時々この親子、たぶん父子と思っているのですが、いつも気になって見てしまいます。
vGYfovSLut.jpg
何故このライオンが気になるかはわかりませんが、どうも、私は父ライオンの立場でこの二匹を見ているようです。私はいつも自分が子の立場で父を見てきたように思いますが、今となっては、自分が紛れもなく子を持つ父となっています。
親ライオンとしては、この弱肉強食の世界で、何か知恵なりノウハウなりを子に伝授してやろうとするのですが、いくら言葉で情報を伝えたところで伝わりはしない、と考えています。伝えようのないことがあるのであり、自分で学びとるしかないことがあると思っています。だからこそ「獅子の子落とし」があるのではないか。獅子とライオンは違いますが、いつもこのことに思い及ぶことになるのです。

私の「お宅」は、丘の上にあります。単身4年目になる上大岡でのオタク生活は、佳境に入っていたということかもしれません。上大岡駅弘明寺駅との中間地点、部屋の窓から京急電車の往還を見下ろすことができます。京急線はこの丘陵地帯の谷底を走っていることになります。
希に、船の汽笛が空を覆うように、素っ頓狂に響いてくることがあります。海側に丘を越えれば磯子あたりなのです。

横浜市南図書館はいわば私の「サ-ドプレイス」といっていいかも知れません。気持ちの拠点とでも言ったらいいような、というか、気がつけば、「そうだ図書館へ行こう」と気が向くことが多いのです。「サ-ドプレイス」などとスタバのコンセプトを援用するのはやめて、「マイ・フェイヴァリット・シングス」の一つということにしておきましょう。図書館への道中、ジョン・コルトレーンの旋律は私の中で時々鳴り響くわけです。50年以上も前にジャズ喫茶では頻繁にかかったものです。今やJR東海の京都CMメロディとして定着したかのようです。
DSC_1489_HORIZON.JPG
南図書館は京急線弘明寺駅のすぐ脇にあります。というより、弘明寺の西側一帯が小さな森になっていて、なにしろ弘明寺公園を形成しています。この公園に図書館があるのです。上大岡側から図書館に向かうにはこの森に一度入ることが必要なのですが、この道行きが実に愉しい。
木々の緑の変化や梅や桜、春先にはマグノリアの白さが華やかです。白木蓮は背の高い樹木で、まだ寒さの残る季節に、白のワンピースに身を包んだ麗人に出会うかのような、ソフトなショックに見舞われます。折り重なる木々の葉から漏れる陽射しも表情豊かで心をほぐします。道端から猫が現れたりもします。
いつ頃からか私にはすっかり定番ルートができていました。高架下のファミマを左折して、マンション前の小さな公園で遊ぶ子供達を見ながら、急傾斜の坂を登ります。斜度20度ぐらい、スキーなら緩斜面ですが歩いて登るにはきつい斜度で、これが50~60メートルその先は人だけ通れる細い道になります。

冬の緑の乏しい殺風景な季節からどんどん気温が上がりだし、あっという間にこの森林公園は緑に覆われます。細い道が、くの字に折れ曲がる辺りで手摺りに腰をもたせ、一息ついて上大岡方面を見れば、そこそこ登っているので、眺望が開けます。
気がつくと、風の強さで木々の枝が揺すられ、ザーッザーッと音が寄せては返しています。風の心地良さに、吹かれるままにこの音に浸っていると、その音は波打ち際の音と全く同じです。目をつぶってみれば、本当に由比ヶ浜にでもいる錯覚に陥ります。風の波に自分が洗われているかのようです。完全にここは別世界です。ここは一体どこなんでしょう。どことはわからないものの、確かに覚えのある安らぎに満たされています。何時間でも浸っていたい、ここは一体どこなんだろう?

ある夏の日、高齢の母を中心に、子らの兄弟、その孫達が一堂に会することがありました。母から見れば、曾孫まで揃う裾野の広がりです。
その中に私の弟の息子、甥がまもなく結婚するということでその相手も来ていました。結婚のお披露目の機会になったわけです。甥は二十代半ば、お嫁さんも同じぐらいでしょう、少し下かもしれません。
後から私はこのお嫁さんのことがずっと気になっていました。言葉多く会話したわけではなく、むしろ会話らしい会話もなかったのです。お嫁さんは、みもごっているとのことでした。
彼女は幸福感に溢れていました。とても「満たされている」感を発散しているのです。幸せのオーラに包まれているかのようです。そこににじみ出ているものは、温かく、優しく、周囲をほぐし、癒す、何かがあります。
もうすぐ結婚というそのことや、同時に母になるという、そういう状況はあるでしょう。そのせいかはともかく、もっと直接的に彼女の表情や身体から何かが溢れだしているのです。聖母マリアとはたぶんこんな風に、周囲に慈愛を振り撒いていたのかもしれません。

私が真っ先に想起したのは、自分が小学生だった頃叔母が結婚して子を授かった頃のことです。60年近い遡及になりますが、私は当時の叔母を思っていました。あの頃の叔母にも同じような安らぎの風情があり、一直線にそこにある臭気に辿り着いていました。その生まれてきた赤ちゃんの寝姿にすり寄って、私と弟は「いい匂いがする」と争って、自分の顔や身体を密着させあうことがありました。
9RyXU1MrSg.JPG
ザーッザーッという頭上の波の音とともに、この森を吹き抜ける風の流れは、私を異次元へ誘っていたのでしょうか。あの慈愛に包まれたお嫁さんがお母さんになる時、産まれてくる子はどんなにか健やかなことでしょう。風に煽られ散乱する桜の中で、母と手をつないで入学式に向かう長身の男子は、母の胎内に懐胎した時の慈愛をまだ引きずっていたのかもしれません。
それ以上に、この水音の緑の中にいる私とは、そのような癒しの感覚を呼び寄せていることは、私自身が今、慈しみの風の中にある、ということなのかもしれません。私は時間や空間を超えて、ただ揺り篭の中にいるようなものだったと言えましょう。もしかしたら、この場所は神的な何かと交感し、宇宙と交歓する特別の場所なのでしょうか。
それにしてもなぜ葉音が水音として感じられるのでしょうか。もしかして、この私の頭上の葉音と、どこかの渚は同期していたのかもしれません。また、私がこの世に産まれる前の記憶と、今が同期していたものでもありましょうか。音の触感が根源的とでもいうような、慈愛として感じられるかのようです。
風の渚は、宇宙や神様とつながるドアだったのかもしれません。
P4ZPJiAhbh.JPG
以後、ここが私の散策定番ルートになったのは当然の成り行きでしょう。

上大岡を離れて一年経ったある日、たまたま用事がありこの町を訪ねることがありました。用事を終えると足は嘗ての「お宅」に向いているのでした。早春の風の強い、花粉が飛びまくる天候です。あの橋のたもと、あの家の玄関先···と、どこにどんな花が咲くか、焼きついています。季節はズレていたかもしれませんが、黄色が美しい山吹の花の家は、すっかり建て替えられていました。
いよいよ、「お宅」のある丘に上がる坂道に入ります。秋なら紅い実が可愛い姫りんごの木は、その下を通ることが本当に楽しいことでした。私が「お宅」に向かうのは、ある期待があったからです。この地を去る日に見送ってくれた赤いハーネスをつけたあの猫に会えるかもしれない、と思ったのです。そうして、その後は、風の渚に向かうことに決めていました。★

付記
今回上大岡を採り上げましたが、実はこの町については一度書き、投稿しています。上大岡とは一切表現していませんが、事実上、「萌え町紀行・上大岡編その①」とも言える内容かと思っています。
ご参考までURLを下に貼っておきます。


いかにして価値ある本を書くか

─ その価値創造について検証してみる
 
前回の記事から問題意識を踏襲していて、どのようにして価値ある本を書こうか、必ずしも本でなくともいいのですが、どうしたらわれわれ臣民にも表現に関わる価値を創造できるか、そのあたりを探っています。文章論ではありません。
 
や記事は「値うち」の輝きが問われている
IMG_20210219_093650.jpg
 
前回の「なぜ、その本は読まれるのか」で本の価値として6つ抽出しています。これは私にとって意義深かった6種の本から導きだしたものです。
・殺陣批評(文芸批評価値)福田和也「作家の値うち」
・視点の転換(事故対策価値)─柳田邦男「失速・事故の視角」
・前さばき法(仕事ノウハウ価値)─大嶋祥誉「仕事の結果は『始める前に』決まっている」
・マインド醸成(戦略マインド価値)大前研一「企業参謀」
・柳思想世界(柳思想価値)中見真理柳宗悦
・美酒宝物殿(定家玩味価値)堀田善衛「定家明月記私抄」
 
価値を見いだせなかった事例
 
対比的に、上記の事例のようには価値が得られなかったケースを述べておきます。その著作に対する批判では全くありません。
先日「日本語は論理的である」という非常に興味深い一冊と出会いました。工学博士で人工知能専攻の方の著作です。「論理とは比喩の形式である」や「日本語の論理の基本は形式論理である」などの見出しは魅力を放っていました。この本を読み込むべきかどうか判断しようと少しぺージを繰ってみましたが、結局やめました。
 
決定的だったのは最終章の見出しが「小学校英語教育は廃止すべきである」、これでした。この廃止の意見は私もそう思うのですが、私がこの本に求める興味とは全く別の文脈で構成していることがわかるからです。
私にとってこの本は、分析のために分析しているものにしか映らず、自分の表現行為に活かせる日本語の構造論を期待していました。たぶん、日本語の分析から、表現行為に使える展開論を私は求めていたのではないか、と思っています。
というように、期待がはずれることがあることにも触れておきたいのです。
 
一定の分量ある本にしろ比較的短いコラムにしろ、「期待はずれ」と思わせないためには何を、どんなことを考えなければならないのでしょうか。すでに触れているように、私は自分にとって有意義だった著作に「価値があった」としています。この体験から言えば、自分が制作する側に立った場合、この価値を追求すればよい、とは自然な考え方のように思われます。
 
普遍性・汎用性の意義
 
では書かれることの価値とは何なのでしょうか。前回の記事で、私は読者の立場で6種の本について、この記事での上述のように、自分にとっての価値を整理してみたわけです。しかし、ここでは、書く側からこのことを検証しようとしています。
私が採り上げた6種の著書のうち、「失速・事故の視角」と「仕事の結果は─」については、著者の想定する価値と、私の得た価値とが全くアンマッチだった事例と言えると思います。柳田氏は航空機事故の問題を、私が自分の仕事上の視点転換に活用するなどは考えていないわけですし、大嶋氏は仕事の前さばきの重要性を、私が本の事前構成に役立てたなどは想定外だと思うわけです。しかし、これは柳田氏大嶋氏の扱うテーマに普遍性や汎用性があるから生じていると考えられます。著者自身がそこまで意識しているかはわかりませんが、航空機の安全対策論や、仕事のハウツーについて、一定の角度から突き詰めた結果、そのテーマに広がりが生じた、といえるかと思います。著者は、私の個人的な問題意識に沿って書くわけもありません。
 
社会性・公共性という価値
 
著者は、構想時自分の考えるテーマに社会性や公共性を感じ、それに価値を見いだして執筆に至ったものだと思われます。「失速・事故の視角」については数多くの事故に対するケーススタディがあり、「仕事の結果は─」については仕事に対して独自の着眼点があり、そのことが著者に制作動機の契機形成を促進していたものと想像されます。その結果まとめ上げられた著書が、十分に一般読者にとっての価値を提供したと考えられます。私の場合については、テーマの普遍性汎用性が、私にとっての個別価値の獲得に至ったケースといえるかと思います。
逆に、他の4種の著作「作家の値うち」「企業参謀」「柳宗悦」「定家明月記私抄」については、一般的な読者が享受している価値と、私が得ているものは、共通ではないかと考えられます。
そういう意味では「日本語は論理的である」が期待はずれとは、私の固有の期待価値にそぐわなかっただけで、社会的公共的価値はあるので、その本に価値がないとは思っていません。
 
山本夏彦の至言
 
さて、もうひとつ私の問題意識は、価値の構想だけで内容が書けるかと言う点にあります。読まれるべき価値は当然考えられるべきことですが、そもそもディスクール自体社会的な営為でありましょう。
しかし、発想の経緯として、きっかけは極めて個別的個人的なことから動機形成されるものだろうと思っています。
変だな、違うでしょ、おかしい等々、不満や懐疑が出発点になるものではないか、そんな気がしています。かのコラムニスト山本夏彦氏が以下のように述べています。
 
「書物は定評をくつがえすためにあるもので、定評に従って異存がなければ、発言はないはずである。沈黙して定評に従っていればいいのである。異議を述べて、はじめて発言である。」(「日常茶飯事」─日記のすすめ)
正に山本氏仰せのとおりであり、これは至言というべきたぐいのことかと思われます。結局この指摘は
発言の価値のことを言っているわけであり、著作物についても全く当てはまると思います。
 
日頃からの目配り
 
コラムなどでは単なる異論、異存の表明はじめとしてテーマを追いかけたり、誰も見たこともないことを見てしまったとか(題材の発見)とか、論文などでは誰も言っていないことに気づいた(新視点の着眼)とか、新しいものを造り上げることができた(新概念の構築)等々を制作動機として結晶するその瞬間に、実はほぼ同時にその書こうとすることのうちに、社会的価値や公共的価値が構想されていなければならないのだと考えられます。しかも、そこに普遍性や汎用性が伴えば、それを読む側に固有の価値をもたらす可能性も出てきます。読まれる可能性の拡大につながることでしょう。
 
おそらくプロの作家、著述家は、当然のようにそういう営為を行なっていることでしょう。逆に不満タラタラで制作動機を稼働させても、テーマ価値への目配りが欠けているようでは、読まれることは少なくなるでしょう。つまり、普段から社会的なことや公共的なことへのサーチライトが身についているべきものと考えられます。さらに、その興味が体質化されるほどにまでなっていれば、至るところに、題材やテーマが転がっている、という感覚を持てるようになるのではないでしょうか。
 
価値を懐胎するとき
 
それではここで、私の価値体験の6例から制作動機について見てみたいと思います。
福田和也「作家の値うち」
文壇、世評等一般通念的文芸価値に対する挑戦
・柳田邦男「失速・事故の視角」
事故の個別追究、探究を通して、問題の本質をつかもうとする使命感
・大嶋祥誉「仕事の結果は『始める前に』決まっている」
日常業務の濁流から事前作業の重要性を掬いあげ得た着眼
大前研一「企業参謀」
幾多のビジネスケーススタディを通して、自ら掘り当てた鉱脈の開陳
柳宗悦を民芸から解き放つための、全容把握熱情
堀田善衛「定家明月記私抄」
藤原定家という宝物を自ら堪能しつつ、その美酒を味わい尽くす
 
こうして各制作者、著者の制作動機そして、縷々述べているテーマ価値に思いを致してみると、制作動機のうちに価値意識が懐胎している、と考えることができます。
この記事のタイトルは「いかにして価値ある─」ではありますが、要は「何を書くか」を中心に考えていることになるでしょう。著作や叙述を行なおうとする者は、まず「何を書くか」に思いをいたし、そのテーマについてその質を検証することが求められると考えられます。そのテーマの質こそ、「なぜ読まれるのか」に結びつくキィファクターになると考えています。すなわち、それは価値をどう設計するかにつながり、そのためには日頃の問題意識に帰着するのではないか、ということを検証しました。
 
採り上げた6例の著作中、「作家の値うち」「定家明月記私抄」は濃厚な文学的素養なしには書けないと思いますし、「企業参謀」は突出した大前氏の能力あっての開発スキルという点では、素人のリテラシーには参考になりません。語られている内容のことではなく、著作づくりや、論述の参考としての場合です。そういう点では、素人が自ら何か表現に企もうとした場合、「失速・事故の視角」「仕事は始める前に─」「柳宗悦」はテキストになるのではないか、と思っています。同じようなレベルのものが書けるというのではなく、企画の設計方法の参考の意味においてです。知識や理論の基礎部分については、その対象とする分野についてはスタディあるのみです。
 
考古学に無関心でもツタンカーメンの造型や金箔に魅せられる人はいる
DSC_2515.JPG
 
 
民芸と呼べる価値をめざして
 
私は素人のディスクールを「民芸コラム」と概念化して考えたいと思いますが、一般臣民の論述・著作や、その活動のことです。そもそも前回分含め本記事で扱っているのは、素人でも読まれるもの価値あるものを書き得るか、といった意識が出発点になっています。
結論的には、価値あるものこそが読まれるのであり、素人といえど、価値創造に挑戦してみよう、ということです。
 
昨年、6月に公開した私の記事「素人視点 本コラムについて②」の中で、柳宗悦翁の「民藝」を借用し、民芸を私の考え方の軸としていることに触れています。SNS時代という表現媒体の普及を背景に、臣民・民衆の表現活動に名前を与えたいわけです。
そもそも「民藝」は民衆工芸の美学的なテーゼですが、言論は美を追求するものではありません。もちろん、美をテーマにした論述はありうるのですが、真実の追求や論理的価値が理念といえましょう。この点では、私の唱える「民芸コラム」は、民の作品を渉猟したり、専門家やプロのディスクールの対立概念化を意図しようとするものではありません。
あくまで私の理念、目標としてのものです。アマチュアといえど、一定の価値創造に寄与したいと考えるものです。柳宗悦が美術品に対して民藝品の価値を打ち立てたことが、大いなるお手本です。もちろん、プロが見向きもしない領域の開拓や、プロが陥っている言論を俯瞰したり、われわれだからできることも少なくないと思われます。
 
締め括りとして、もう一度山本夏彦の名言を繰り返し掲載し、また、私の描くイメージにしっくりと感じられるウィトゲンシュタインの哲学の説明中、恐れ多いことですが、「哲学」を「民芸」と変換して、下記の通り据え置きたいと思います。
 
「書物は定評をくつがえすためにあるもので、定評に従って異存がなければ、発言はないはずである。沈黙して定評に従っていればいいのである。異議を述べて、はじめて発言である。」
山本夏彦「日常茶飯事」
 
「民芸の目的は思考の論理的明晰化である。
民芸は学説ではなく、活動である。
民芸の仕事の本質は解明することにある。
民芸の成果は『民芸的命題』ではない。諸命題の明確化である。」
 
 
 
 
 
 
 

萌 え 町 紀 行 ─ 1 汐入

あなたは自分の萌え町をお持ちでしょうか。
それは初めて訪れてすばらしかった、などというのとは違い、一定期間そこに住んで、日々暮らし、季節折々の変化を肌で感じ、日常の蓄積の結果、その地でのアルバムが一冊、人生の本棚に配置されてしまっていることに気がつきます。仕事で関わった町は、その職場の人間関係が中心に描かれているでしょうし、暮らしの場として住んだ町は、名前も知らない隣人や、何故かよく会うことになり一言二言交わした人がいたりします。
そのアルバムは過去へ行くほどモノトーンになりますか。最近の新しいアルバムほど色彩豊かに輝いていますか。いいえ、時間の遠近というより、そのときどきの体験の質しだいかもしれません。強烈に焼きついた体験はいつもリアルに思い起こされ、何もなければそれなりに忘れ去られていくようです。
いま、スマホには無数の写真がひしめいています。その中に、独特の匂いが立ち込め、我を忘れて見入ってしまうものがあります。それは、そこに介在した自分の関係性が特別のものであったからかもしれません。そのようなワンカットが連なってアルバムが鎮座しています。一冊、二冊・・・いったい何冊になることでしょうか。
いま、それらのページを繰り、辿ってみたいと思います。自分と空気のように交歓した町は、どんな彩りと匂いを伝えてくれるのでしょうか。
                              ☆
オレンジ色のサンセット

横須賀に汐入という町があります。この町が自分にとって特別の町になろうとは、思ってもいませんでした。これは縁とでもいうしかありません。
IMG_20210312_220316.jpg
汐入には名前にどことなく漁港の響きがあり私はそうであることを願っていた時期があります。
というのは、汐入というとどうしても私は「万祝」(まいわい)のことが浮かびます。「万祝」は、キルトで作ったコーディガンのようなもの、または、カラフルな無数の端切れで縫込んだ彩り豊かなドテラ、と言えるかもしれません・・・と私は捉えています。掲載写真のものはかなり洗練されたものです。当時私が見知ったものは手づくり感あふれる素朴な感じでしたが、それなりに華やかさがありました。それを着るのは漁師たちの長にあたる人のようです。また、豊漁の時に漁師達に船主などが祝い着として着させたものといわれます。いずれにせよ、いわば漁村や漁港のシンボルにあたると考えることができます。

以前、この汐入に「ショッパーズプラザ横須賀」というショッピングセンターがありましたが、昔、この商業施設のネーミングに関わる仕事をしていたことがあります。その際の自作に「横須賀マイワイ」があったのです。この案が周囲に多少評価されたのは、歴史的な背景を背負っていることと、万祝のデザインをモチーフとして広告のビジュアル展開に活かせる、このあたりかなと振り返っています。しかし、近世以前はともかく、どうも汐入は漁港とは言えないようで、このプランは没でしかありません。
とはいえ、このような題材はなかなか見つかりはしないので、私の中で深く記憶されることとなったわけです。汐入→商業施設→ネーミング→横須賀マイワイ→万祝、このようなつながりです。
DSC_0975_HORIZON.JPG
私が汐入駅前のショッパーズプラザ横須賀に関わる仕事をしていたのは、開業以前の1986年の話です。オープンは1991年4月、閉館は2019年3月、そもそもダイエーが経営していましたが、2015年には完全子会社化により運営がダイエーからイオンに替わりました。この時点でショッパーズは終わったといえます。
ダイエーで勤めた人には今でも中内さんのファンがいて、フェイスブックで繋がったりしているようです。私は職種への思いからこのグループ企業に入り、結果D社の釜の飯を喰ったことになりますが、私は小売業に対する興味はなく、その方達とは別の角度でこの会社に関わってきました。

中内さんといえば、私の父親とほぼ同世代にあたり、ダイエー創業者の絢爛たる業績に比べて、わが親父の卑小さを呪ったものです。
1990年代のことになりますが、台風が襲来しているある土曜日に出勤した折りのことです。当時本社は浜松町にありました。私はずぶ濡れになって事務所のある上層階へ行こうとして、上がってきたエレベーターに乗り込みました。そうしたら中内さんが乗っているではありませんか。社用車は地下の駐車場に乗りつけるので、昇りEVに乗られていたわけです。「お、おはようございます」私の姿を見た社長は「大変やな」と言われました。二人だけでした。私は確か11階で先に降りました。中内さんは社長室のある15階まで行くわけでした。これが、わがダイエー社長との最初で最後の会話です。

中内さんは戦時中、食べるものがなくて、靴をトンカツと思ってかじったという有名なエピソードがあります。私の父も戦地に行っていますが、その体験からか乾パンが旨い、とよく言っていました。

1980年代の後半、ウォーターフロントが脚光を浴びました。同時にショッピングセンターの時代がやって来る、そんな気運を感じていました。そんな折り
横須賀にできるD社の商業施設の概要書には、「眠らない街」「ラビリンス」などのキャッチフレーズが踊っていました。今で言うショッピングモールの形態を有するこの施設は斬新さに溢れていました。
しかもウォーターフロントダイエーが横須賀に一大商業施設を築こうとしていたわけです。テナント数、百数十は今では珍しくありませんが、中内さんとしては関西、しかも西武系の「つかしん」に対抗する思いがあったものと思われます。
0_DSC_0546.JPG
つかしんは、糸井重里氏のネーミングと言われています。一方、ダイエー系の横須賀の商業施設の命名はどうなったのでしょうか。ショッパーズプラザ横須賀とは、中内さんの命名と言われています。先行して営業していた福岡ショッパーズプラザなどがあり、それを展開させたものと考えられます。結局、広告制作スタッフが何百案名称を作ろうが、命名権のある人がつける、これで決まりというわけです。その点は、堤清二は時代の感性を重視して糸井重里案を採用し、中内功*は自らの思いをネーミングに籠める、この違いです。
正に企業文化の違いですが、私は中内さんの書いたものを読んでみると、堤清二に対する露骨な対抗意識を感じます。文化的なものに対する憧れ、いやルサンチマンともとれるものが不用意に出てしまっている文章に出くわしたことがあります。いずれにせよ、ショッパーズプラザ横須賀は、後に球団経営にまで触手を伸ばすことに比べて、ダイエーにとってより本業に近い形での、広告塔でありシンボルでもあったのでしょう。

私はずっとテナントに関わる業務でしたが、そういうメンバーにとって、ショッパーズのある横須賀は格別の意味がありました。スーパーではなく、ショッピングセンター運営に手を染める部隊としては、横須賀は「花形」という側面がありました。しかし私は、その後横須賀と日常的に関わることはありませんでした。が、自分の中に懐胎した一種の憧れは、横須賀という地名にいつも「汐入」という花をひっそりと咲かせ続けていたようなものです。ウォーターフロントに咲いた、巨大なショッピングセンター「ショッパーズプラザ横須賀」とはそういう存在でした。

長くD社の本社で勤務していた私ですが、定年間近になって横須賀勤務を命ぜられるとは、いわば晴天の霹靂のようなものでした。振り返れば、店での勤務は全くなかったことに気がつきました。2015年の夏、横須賀勤務の異動の知らせを受けた時は運命的なものを感じました。
この年、ダイエーはイオンの完全子会社になっていましたが、すぐに対外的にダイエーの看板を下ろしたわけではなく、それは翌年のことであり、イオンがこのショッピングセンターを手放すのは、その3年先のことになります。
0_DSC_0239_CENTER.JPG
D社におけるテナント業務に携わる中で、私は過去にショッパーズプラザの事務所に数回出入りしています。そんなわけで、事務所の何人かは知っていました。私を含めた男子社員3名以外に、女子社員が10名ほどいます。何せ百数十のテナントを運営・管理する部隊ですから、こんな布陣になるわけです。スーパーダイエーの事務所は、もちろん別になります。
私は、自分が横須賀に来れたことがどれだけのものか、語って聞かせたい思いがあふれんばかりでした。女子社員さん達はみんな地元の方達で彼女達にとっては、最寄りの仕事先に過ぎません。D社におけるショッパーズのポジションなどは、どうでもいいことでしょう。勝手に、都合よくやって来た大手資本の雇用先というわけです。一方私はと言えば、この商業施設開業前からこの地を見ていて、カスリもしないもののネーミングにも関わり、ショッパーズがどれだけのものか、彼女たちに教えたくて、語りたくてしようがありませんでした。私は、この会社での晩年に汐入に来れたことが、本当にうれしかったのです。

勢い余ってこんな妄想にも及びました。自分が今三十代として、この地方都市のショッピングセンターに転勤して来た。パートの女子達からしてみれば、この汐入に都会の青年がやって来た!私が三十以上タイムスリップしているということは、彼女達も十分若々しい乙女達!この状況を俯瞰で捉えつつ、少し脚色して遊ぶ、こんな妄想で私は通勤途中を愉しんでいました。

私がナルシストというより、こんな妄想に耽ることが歳をとった証拠なのかもしれません。もし実際に三十代でショッパーズ勤務になったら、妄想にしろこういう客観的な目線で自分を持ち上げて見立てる余裕などなかったでしょう。
実際問題、私の定年はおよそ一年半後に迫っていました。私は、日々の業務を愉しんで過ごしました。
汐入の里での勤務を擬人化して「汐里」という女性に会いに行っていた、と思えるくらいですから、妄想もここまでくれば、ほぼ「いっちゃっている」と言えましょう。
DCF00128.JPG
2016年3月ショッパーズは対外的に看板を下ろし、
イオン横須賀店となり、内部システムもイオン仕様に切り替わりました。これをもって、ショッパーズプラザ横須賀終了、私は、これを「ダイエーの終わりの終わり」と捉えています。2001年中内さんがD社を退いてからも、会社自体はまだ長らえていたわけです。

1990年代、私は、D社が忠実屋を呑み込んだ時に、現場で吸収される側の人達に対して、吸収する側の人間としてふるまったことがあります。今は、逆のパターンを迎えている、そこは明確に意識していました。しかし、イオンの吸収は比較的穏やかなものでした。もちろん文化の違いは多少あるものの 、まあ、似た者同士の結婚だったと言えましょう。相当厳しい局面の可能性もないではなかったわけですから、これは幸福なことではあります。文化の衝突や破壊はもっとも苛酷なことですから。

ダイエーリクルート社を買収した際、リクルート側の危機感は相当なものでした。これは、藤原和博氏が「リクルートという奇跡」で記録していますが、編集権を守ろうとしての闘い、そんなところが印象的なノンフィクションです。もし、これがD社ではなく、西武だったら違ったかもしれません。推測に過ぎませんが、堤さんならリクルートの資質を活かそうとし、中内さんならDカラーを出そうとしたのかもしれません。すでに見たようにそれは商業施設のネーミングの例で見た通りです。この意味では、藤原氏は敏感に中内さんを恐怖をもって迎えたということでしょう。
汐入の女子社員さん達は、おそらくイオンとの統合にそんな恐ろしい懸念を抱くことはなかったでしょうが、それは幸せなことだったと思っています。

定年は、その年2016年の終盤には来るのでした。私はD社の人事制度の中で定年を処理することになりました。ただ、すでにイオンもかぶっていましたので、最終出勤日の設定変更などはイオンのシステムも絡むという具合でした。私の定年とは、正に「ダイエーの終わりの終わり」にオーバーラップするものでした。D社グループに入った時にショッパーズに関与し、 仕事先としてのD社のラストにショッパーズにいる、ということになったわけです。
仕事を終えたある日、ショッパーズ館内を移動して中央部の吹き抜け付近を通りかかると、西側のガラス壁全体がオレンジ色の光彩を賑々しく放っていました。「オレンジ色のサンセット」と心の中で呟いていました。オレンジは、D社のコーポレートカラーであることはよく知られています。
DCF00091.JPG
ダイエーの業績が悪化した頃、中内さんは一転して世間から叩かれ出したように見えました。金融機関も手のひらを返すような感じでいたたまれませんでした。この時、右胸に心臓をもつ、ルソン島で生き抜いた、ヘビーデューティ中内功の姿は、もうありません。あの大雨の土曜出勤、唯一無二の中内さんとの会話「大変やな」は、正にご自身にブーメランとなって返るものになってしまいました。リクルート江副浩正氏の時も同じような感じがあり、世間は寄ってたかって、かつての成功者を地獄に叩き落とすのです。

中内さんは2005年に亡くなりましたが、わが父はその6年前に最期を迎えました。戦地から生還し、七人兄弟の長男として一家を支えました。銃弾のかすり傷と聞いたと記憶しますが、昼寝の時なども膝のあたりをよく痙攣させていたものです。臨終が迫って実家へ向かう途中、乗り替え駅で見た夕陽のオレンジ色には、幾重にも思いが錯綜して、色に感情があることを知りました。
人は死にゆくものだし、商業施設にも寿命があると学びました。

ショッパーズプラザ横須賀の看板は下ろされ、イオン横須賀店というショボい店名になったもののおよそ3年、2019年の3月まで職場は維持されました(私も、定年を跨いでイオンの制度で勤務は維持)。しかし、女子社員たちも、顧客としての地元住民も、通称ショッパーズは使われ続けました。職場に進駐軍が乗り込んで来ることはついに起きず、平和は維持されました。これはラッキーだったとつくづく思えます。一方で、100強に数が減っていたテナントの退館交渉も進められました。

2018年年末、閉館が告知され、翌年春には館脇のヴェルニー公園に桜が咲きました。この地は、1986年開業前の現地取材で更地だった一帯です。横須賀造船所の周辺、今では日本遺産となったエリアであり、「日本近代化の躍動を体感できるまち」と詠われた歴史的な場所です。館の5階休憩室から望まれるヴェルニー公園の桜を、私は、特別な思いをもって眺めていました。
事務所のかたづけも始まり、28年間に蓄積した廃棄されるべきものは大量でした。館内の廃棄物集積所に指定されたのは、吹き抜けの1階客用エレベーター付近です。実は、イベントステージとして使われたこのあたりは、かつての横須賀製鉄所を象徴する時計台のあった場所にあたります。歴史は、私の肌身に感じられました。
09z354KzqV.JPG
もったいないものの、処分しかしようのないものが山積みでした。最後に捨てるべき、A3サイズのコピー用紙を、私は持っていました。封は切られているのですが、結構な枚数でした。貰うにも荷物と思い
捨てようとしていたら、同僚の女子社員が「それ、少しもらえませんか」と言われた私は、急にその価値に気づかされたかのように「おれも、もらって帰ろうっと」と思い直し、二人で分合いました。用紙のまっさらの白い空間は、とても輝くようにも見えました。そこにはだいぶ少なくなってきた人生の時間とはいえ、まだ描かれていない何かがあるような気がしてもいました。
私は、その若い女子社員と共に、勤務先の備品を窃盗することに当たる共犯的な行為に、汐入の最後の思い出の彩りとして焼きつけることにしたのでした。
SP横須賀.png
今回この拙文を記すにあたり、中内さんの履歴を確認する上でウィキペディアを見ていたところ、初めて知る記述がありました。それは経営者としての栄光が見るも無惨に砕け散っていくリアルな合理主義の現場で、かろうじて、こんな、救われるようなシーンがあったとは、全く知りませんでした。数行をそのまま引用します。

『2001年、経営悪化の責任を取り、「時代が変わった」としてダイエー代表取締役を退任。中内が退任表明を行った同年の株主総会では、厳しい質問が続き、2時間36分と長時間行われる大荒れの会となった。中内は過ちを認め株主に謝罪して、総会中に壇上を降りたが、株主から「議長、中内さんがあんまり寂しすぎる!拍手で送ってあげたい」との声があがって再登壇し、中内に満場の拍手が鳴り止まなかった。』

*註
中内さんの「功」は、正しくは「エ」に「刀」です。