萌え町紀行 - エピソード1

具体的な町の名前を出さないのは、実際に名前が出てこないし、出す必要がないとさえ思っているからです。それでは萌え町とは言えないのでは?という指摘がありそうですが、名前を出さないものの私とは熱いというか、深いというか、否応なしに関わりがありました。
今回、私はコラム星からノベル星へ出張しています。折角の機会なので、エッセイやコラムからスピンオフし、ノベル的な世界へ立ち入ってみようか、というわけです。
制作上、ノベルというよりメルヘンやファンタジーに近い作りというべきかもしれません。その際に実名を出さずともストーリーとして成り立つと思っています。つまり実際には町も人物もモデルがあるものの、少し抽象化しているということです。

カエルの神様─ある姉妹の物語

この部屋からはすぐ川が見えていた。
けっこう大きな川だったが、故郷のそれとは異なる点もあった。川のうしろに山がないのである。しかし、陽射しの加減によって届いてくる水のきらめきは、山深い自分の生まれ育った町を思い出させてくれ、気持ちを落ち着かせるものがあった。キコはこの部屋を気に入っていた。
ここは、病院の二階だった。入院してからだいぶ日数が経っていた。
妹のアコがまた来てくれていた。
「キコねえさん、いいものを見つけたわ」
アコが包みを解くと箱の中から白いカエルが出てきた。カエルの置物だった。土産物のようでもあり、何かご利益がありそうで、何よりもその姿がかわいらしく感じられた。
「アコはカエル、好きだからね。とうとう、こんな置物見つけたのね」
「そうなのよ、れっきとしたカエルを神様として奉る神社のものよ」
アコは、窓辺にそれを置いた。
「生きカエル、よみガエルよ。ねえさん、早く元気になって」
キコは、カエルの神様に元気づけられでもしたかのように、半身をゆっくり起こした。
「アコ、私はもう寿命よ。私が先に兄さんたちに会うことになるわ。このカエル、小さい兄さんにきっと渡してあげるね。私が先に会えるんだから、アコの思いを果たしてあげるわ」
するとアコは
「なに言ってるの。このカエルは姉さんのためのものよ。兄さんには、私が持っていくから、そんな心配しないで早く元気になってちょうだい」
キコは、なつかしむように昔の話をしだした。
「あの日は、ほんとにびっくりしたね。今でも、はっきり覚えているよ、大きい兄さんのこと。つくづく、あの日は、私たちの幸せの始まりだったね」
「また、姉さんの昔話が始まった」
そう言うアコも、今日はキコの思いに寄り添いたいと感じていた。
カエルのせいかもしれなかった。

                               *

その日家に帰ると、子供のアコはまた、軒下にぶら下げた小さなカエルの縫いぐるみをいじっていた。
「アコが触ってばかりいるから、そのカエルだいぶ汚くなってきたね」
姉のキコがそう言うと
「そうね、でも作り直すのはちょっと縁起が悪いような気がして···」
アコは、不満そうな顔になった。
そのカエルは、アコが緑色の端切れを円形にして縫い、中に綿を詰めて膨らませ、目玉を付けただけの、カエルの顔に似せたものだった。それに紐を付けてぶら下げていた。
「どうしてあの日、小さい兄さんは私が家にもどる前に戦争に行ってしまったのかしら。もう少し待っていてくれたら、この御守りを渡せたのに」
そういうアコに
「また、アコの口ぐせが始まった」
キコは、何度アコのこのセリフを聞いたことか、とあきれていた。
大きい兄さんにはカエルの御守りを渡すことができたのに、小さい兄さんには渡せずじまいなっているのだった。特にアコは、若い小さい兄さんとは、よく遊んでいた。
アコは、小さい兄さんに自分の作った御守りを渡せなかったことを本当に悔しく思っているようすだった。
終戦から数ヵ月が過ぎていた。
この山あいの町にも確実に戦争はきていた。キコの家の裏側、川の向こうにある工場は米軍機の銃撃を受けていた。軍需工場が狙われたようであった。民家が被弾することがなかったのは、幸いだった。
キコは、アコと小さい兄さんがよく遊んでいたことだけではなく、アコにせがまれて宿題の手伝いをしていた頃の小さい兄さんのことを思い返していた。
どうして戦争なんてするのだろう、この世はわからないことだらけだった。大きい兄さんが出征してからどのぐらいになるだろう。もう、終戦になったのだからとっくにみんな帰ってきていいはずだった。
父さんは、仕事からもどると、
「帰ってないか?」と言うことがクセになっていた。
母さんは、大きい兄さんと小さい兄さんが二人で使っていた部屋を毎日毎日掃除をするのだった。いつも力一杯あきれるほど畳拭きをする母さんを見かねて、キコは、
「母さん、そのうち畳が擦りきれるよ」と声をかけたが
「きれいな畳の部屋でゆっくり眠らせてやりたいのさ。戦地ではろくに寝てられないだろうに」
そう母が語るものの、もう終戦になっているのだから、もし生還していれば、どこかで存分に眠る時間はある筈だった。
もう17歳になるキコは、母の言うことは少しおかしいと思うものの、近所では掃除好き、きれい好きで知られていたほどだった
母に、何も言い返したりはしなかった。
町の通りは商店や旅館ばかりだったが、キコの家は普通の民家だった。
この山あいの温泉町で、キコの父は商店を営んだこともあったが、今は旅館の仕事をする方が実入りがいいとして、いつも働きに出かけていた。
アコが学校からもどり、キコに言われて汚れたカエルを作り変えるべきか迷っていた日、玄関の戸が開く音がした。
アコは、玄関に行ってみた。
すると、そこには無精髭だらけ、まるぶちメガネの奥の眼をらんらんと光らせる兵隊が突っ立っていた。
アコは傷痍軍人が物乞いに来たのかとあわてていたが
「アコか?」
という声に聞き覚えがあった。
「・・・大きい兄さん?」
玄関口のようすを察してか、奥からキコが出てきた。
「・・・兄さん、兄さんじゃないの!」
そこへ、買い物を終えた母がもどってきた。
母は、兄さんをすわらせると、ポロポロ涙をこぼした。キコもアコも、急に気がついたかのように泣きだした。
その日は、予期せぬ突然のできごとに家族は幸福感に包まれた。
夕食はうれしい珍客を交えたような格好となったが、大きい兄は自分の弟のことを尋ねた。父の顔と母の顔を見た。
「あいつは、まだ?」
「・・・・・」
父は首を横に振った。母は、また泣き出しそうだった。
「ここに、今日揃っていたらよかったのに・・・」
と言うそばから母は眼を押さえた。
アコが言った。
「大きい兄さん、小さい兄さんと一緒に帰ってくればよかったじゃない。どうして連れて帰らなかったの?」
するとキコが
「同じ所に行ったわけじゃないんだから一緒に帰れるわけないのよ。幼稚園児みたいなこと言わないの」
ところがキコの言葉にアコは怒り出してしまった。
「何よ!大きい兄さんは、絶対に小さい兄さんを連れて帰るべきだったのよ。兄さん、今からでも連れてきて!」
と言うそばからアコは泣き出した。
「小さい兄さん連れてきて!連れてきてよ!」
アコの泣きじゃくりながらダダをこねる様は、まるでほんとに幼児にもどったかのようだった。
夕食が終わると、兄さんは、薄汚れたリュックの底を漁っていたが
「アコ、これ、ほら」
アコはなにごとかと怪訝な顔だったが、みるみる眼に輝きが増した。
「あ、これ」
それは、リュックの底で上の荷物に圧しつぶされ、ペッタンコになった、カエルの縫いぐるみだった。アコがくれたものを大きい兄さんは持っていたのだった。
「俺がもどれたのは、アコの作ったこの御守りのせいかもしれないな」
そう大きい兄さんに言われて、アコは何かを考える風だった。
アコは何かで読んだカエル大明神を信じてよかったと思った。アコは兄さんに言った。
「ほんとにカエル大明神はいるんだ!」
1946年(昭和21年)、新緑がみずみずしく輝きだしたこの町にも、日本中が復興へ向けて動き出した活気が押し寄せてきていた。
27歳、キコの兄の生還は、五十代の父とともに、この家の家計を支える労働力の増強を意味していた。キコは母の表情に、とても生き生きしたものがみなぎってきたようで、その元気は自分にも移ってくるように思われた。満州に行き、衛生兵として従軍したらしい。五体満足でもどれるとは、なんという僥倖であったろう。
翌日、兄さんの無精髭もさっぱり剃り落とされ27歳の若々しい青年の顔があった。また、キコの家の軒先にはアコが新たに作ったカエルの縫いぐるみがぶら下げられた。一回り大きくなり、前のものよりはこぎれいになった。通りがかりの人は、てるてる坊主ではなくカエルを下げて、雨乞いでもしているのかと不審がった。
それから1カ月して、キコの家に通知が届いた。それは、小さい兄さんが戦病死したとのことだった。それを読んだ大きい兄さんが伝えた。この時アコはいなかった。
キコは、とてもアコに言えるものではない、と感じていた。

                            *

それから十年経った。
アコが嫁入りする日が近づいていた。
もう父は亡くなっていたが、長男が生還しキコの家は、日本の戦後復興と歩調を合わせるように、標準的な営みを得ることができた。
「キコねえさん、先にこの家出るね。」アコは告げた。
「ああ、さっさとお行き。大きい兄さんいるし、この家のことはいいから自分の幸せだけを考えなさい。小さい兄さんの分も生きるんだよ」
アコは、思い出したかのように仏壇に手を合わせた。父の脇に小さい兄さんの遺影も並んでいた。
「キコ姉さんも、早く結婚してよ」
そうアコに言われてキコは笑うばかりだった。アコの嫁入りで、人生で初めてキコとアコは離れることになった。
アコの嫁入り姿に、母はまたポロポロ泣いた。母は夫に先立たれていたが、しかし、すでに長男の大きい兄は嫁をとっていて、三人の孫たちに囲まれていた。
「母さん、私は戦争に行くわけではないのよ。いつでも会えるのよ」
アコは、母を慰めた。
その後、キコもしばらくして嫁入りした。

                            *

それから、およそ六十数年の歳月が流れた。
キコもアコもそれぞれ家庭を持ち、孫たちもいる、おばあちゃんであった。
この部屋からはすぐ川が見えていた。
けっこう大きな川だったが、故郷のそれとは異なる点もあった。川のうしろに山がないのである。しかし、陽射しの加減によって届いてくる水のきらめきは、山深い自分の生まれ育った町を思い出させてくれ、気持ちを落ち着かせるものがあった。キコがこの部屋を気に入っていたことを、アコは思い返していた。
すでにキコのいた病室はかたづけられていた。
「最後見とれなかったわ」
そうアコが言うと
「母さんはアコおばさんの気持ちはわかっているわ。あのカエルをもらってから、いろいろ昔のことを思い出していたわ」
そう言うとキコの一人娘は続けた。
「母さんの話を聞いているうちに、私思い出したことがあるの。昔、私が小さい頃、母さんに連れられて靖国神社に行ったことがあるの。当時はわからなかったけれど、小さい兄さんのことが気になっていたのね」
「そう、キコ姉さん、小さい兄さんの慰霊をしていたのね。英霊だものね。終戦の年に二十歳で召集されたのよ。父さん、何か手を打てなかったのかしら。もともと病弱な人間を出征させることが間違いよ」
アコはぶつけどころのない気持ちをくすぶらせていた。
「そのことは母さんも言っていたわ。でも、やっと母さんも小さい兄さんに会えているのね」
「そうね、今向こうで、みんな集まっているのね。父さん母さん、大きい兄さんも小さい兄さんも」
アコは、川の方を見ながらいった。
「母さんがね、このカエルの置物は棺に入れるなというの。アコおばさんに少しでも長生きしてもらいたいから、渡してあげてってきかないのよ。」
ベッドの上にちょこんと置かれたカエルの神様は、とても愛嬌があった。
「小さい兄さんには、私の手からカエルを渡すチャンスを残してくれたのかしら。いずれ、みんな同じところに帰るわね」
「あれ、カエルの神様・・・」とキコの娘。
「どうしたの?」とアコ。
「今、目が光ったのよ。涙がこぼれたように見えたわ」
「・・・・・」
その時、窓の外からは夕陽の照り返しが一斉に天井に届き、この部屋は突如として神々しい明るさに包まれた。
「あ・・・」とキコの娘。
「あ・・・」とアコ。
二人は同時に何とも言えない、今まで味わったこともない安らぎに満たされていた。カエルの神様は少し微笑んだかのようだった。
・・・・・
「アコおばさん」キコの娘に起こされアコは目をさました。
「今、家族がみんな揃っている夢を見ていたわ」とアコ。
「何を言っているの。私も一緒だったじゃない。私も見たわよ。みんな揃っていたね」
「そう、夢ではなかったのね」
「二人が同時に同じ夢を見るなんてことないわ。夢ではないのよ」
「なんか、とってもうれしい気持ちよ」
「そうよ、アコおばさん、いつもみんな一緒なのよ。いつでも一緒になれるのよ」
キコの娘も、今まで一度も味わったことのない気分に包まれていた。
外を眺めたアコには、川の水面に照り返す夕陽にまじって、また、いま向こうの世界で、新たに加わったキコを含め、みんなが談笑している姿が見えていた。
特に、子供の頃、よく遊んだ小さい兄さんが、元気ではしゃいでいた。
アコおばあちゃんは、みんなの分も、精一杯生きようと思った。★

2021.5.25