萌え町紀行 ─ 3 鎌倉

あなたは自分の萌え町をお持ちでしょうか。
それは初めて訪れてすばらしかった、などというのとは違い、一定期間そこに住んで、日々暮らし、季節折々の変化を肌で感じ、日常の蓄積の結果、その地でのアルバムが一冊、人生の本棚に配置されてしまっていることに気がつきます。
ま、そのアルバムのページを繰り、辿ってみたいと思います。自分と空気のように交歓した町は、どんな彩りと匂いを伝えてくれるのでしょうか。

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エロスの都

鎌倉には十数年間住むことになりましたがこれは自分の動機に基づくものではありません。しかし、鎌倉には人を呼び寄せるものがあることは紛れもない事実だと、経験をもって語れます。
鎌倉について語ろうとして可能な、その切り口の多様な豊富さは、正に鎌倉の魅力の一端と言えます。約めて言えば、多様な魅力が人を惹き付けるのですが、今回はそのことに触れるわけではなく、文芸的な側面から語ろうとするのは、何ともありがちなな発想との謗りを免れないでしょう。このテーマ的な負を抱えてでもその領域に分け入ってみようとしています。
鎌倉で暮らすという日常は、否応なしに文芸的なことを引き寄せてしまうところがあり、それが私の栄養になったかはともかく生活の空気となったことは、間違いないことかと思っています。

円覚寺の竹林
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藤原定家鎌倉時代歌人だと知った時には(定家の後半生)、あまりにもイメージがぴったり合い過ぎてうれしくなりました。この思いに深い意味はなく「軽いノリ」での話です。この鎌倉が隆盛した時代に、正にその時代に京都に定家がいた、ということから私の中で無意識の飛躍が起きて、定家は鎌倉にいたことがある、という風に記憶されました。
しかし、後から自分の記憶を怪訝に思い、私にそう思わしめたのであろう出典を読み返してみましたが、結局何もその根拠は見つかっていません。考えてみれば、定家は天皇に支える公家であったわけですから、武家の都に来る筈はないでしょう。他の文献等でもそういう記載は見つかっていません。

私が定家が鎌倉で作ったとまで思わせられる歌は、これ一つで十分です。

大空は梅の匂いに霞みつつ
曇りも果てぬ春の夜の月

この歌の解説については多くの文学者が語っていることで、素人の私からはスノビズム丸出しになるような気がするので、やめておきます。
鎌倉には、こういう春の宵があるのです。陶然たる艶然たる春夜です。陽が落ちて家並みが夜陰に紛れ始める空気にただよう、えも言われぬ感覚、触感。官能の帳が一気に世界を覆い尽くしていきます。
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また、桜の季節に、昔実朝が惨劇にあった銀杏の木を意識しつつ、源氏池端から中空を見上げるその月が、艶かしい滑りのような手触りをもたらします。咲き誇りあい、ひしめく夜桜の協奏曲が、それを華やかに盛り立てます。
定家の歌の一字一句との照合ではなく、そこにたち現れる「世界観」が、正に現実に顕現する感覚を私は味わいます。私の中で、定家と鎌倉は渾然一体となっています。

「定家は京都のお公家様なのだ」と指摘されたとしても、私に生じた感覚を引き裂きようはないし、あえて言えば京都的なものと鎌倉はつながっているとは言えるのではないでしょうか。このように思うとき、定家が京都で「明月記」を書き綴った鎌倉時代を、現代の鎌倉において思い浮かべる時、それは、地理的な感覚を麻痺させてしまうところがあります。
しかし、それにしても「鎌倉の宵」という抽象的なものに、鬱勃たるエロチシズムを感じる感覚は、特殊なことなのかもしれません。

長谷一丁目の我が住まいのすぐそばに、鎌倉文学館の登り口があります。旧前田侯爵邸を文学館に改修したと、伝わっています。特に、「春の雪」での松枝清顕と綾倉聡子の逢瀬の場として、この館がモデルになったと知ってからは、あらためて訪れたものです。この館から庭のかなた下方に見える、由比ヶ浜の絵画的な光景が印象的です。

「春の雪」中、松枝侯爵邸を聡子が訪った際のシーンがあり、以下のような描写が出てきます。聡子が侯爵邸の庭で花を摘んでいるところです。

「平気で腰をかがめて摘むので、聡子の水いろの着物の裾は、その細身の躰に似合わぬ豊かな腰の稔りを示した。清顕は、自分の透明な孤独な頭に、水を掻き立てて湧き起る水底の砂のような、細濁りがさすのをいやに思った。」

清顕のリビドーの勃興に、若々しい青年らしい羞恥を重ね合わせる叙述は、視覚と心理を描いて官能に至る構図が、春宵の月と梅という視嗅覚の艶然たる定家の描写と重なるものとして感じられ、ここに日本文学の伝統が息づいています。

「春の雪」に関してこの辺りの描写が浮かぶのは、最近「蝉しぐれ」中の描写に、非常に似たような場面があることに気づいたことがあげられます。

「そのうしろ姿を、文四郎は立ち止まったままぼんやりと見送ったが、自分が見送ったものがふくの尻のあたりと、裾からこぼれて見えた白い足首だったのに気づいて、はっとわれに返った。」

綾倉聡子と小柳ふくとでは身分の違いがあり過ぎるとは思うものの、おふくは後々お福様になるわけでもあり、この点でも少しは似たようなオーバーラップになったかという気がします(正確には時代も家柄も違います)。
三島も藤沢も、視覚描写から心理描写への引き込みかたはよく似ています。非常に下世話に言えば男のエッチな目線ということになります。また、日本女性は和服を着たまま男性を誘惑できるし、男性も和服を着た女性に敏感に反応するという、この繊細極まりないエロチシズムはぜひとも強調しておきましょう。日本的ストイシズムであり、美学でもありましょう。

このような意味合いで、「蝉しぐれ」の結末近くで省筆の良さが際立っていると感じられるところが出てきます。それは、お福様と文四郎との最後の逢瀬、別れを伴った哀しい一時を

「何時間経ったことだろう」

との素っ気ないワンフレーズで片づけつつ
全てを語り尽くしてしまう表現に、禁欲があり、含蓄があり、日本的な描写として喜びたいと思います。

一方「春の雪」でのこれも最後の逢瀬になるのですが、清顕と聡子との描写について三島はガッツリ、微に入り細を穿ち描ききるのです。もちろん、三島のことですから流麗な文体で若い二人の性愛を日本語表現の高みにまで引き上げるかのように、美事にドローイングしていくわけです。
ここは比較論としては何とも言えないところですが、私は藤沢の省筆にも、三島の筆の優雅にも、賛辞を贈りたい心境です。

とはいえ、おそらく三島の念頭には世界があった筈であり、省筆の日本的な手法で語ることより、欧米的なオープンさも踏まえた上で日本語の美を表現しようとしたものと思われます。これができるのは、正に彼だけの才能に負わなければならないのは自明のことです。三島としては日本人好みの枠に安穏としてはいられないのです。究極のエロチシズムを世界にもわかる形で、かつ日本的美も表出したかったのだろう、そんな気がします。しかし、藤沢が省いたものを三島は描き切るとはいえ、なお含蓄はあるのです。

ここはD・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」にあるような世界とは雲泥の差と申しましょう。ポリティカル・コレクトネスを欠くような言辞にあたるかどうか知りませんが、アングロサクソンの文化は大したものです。ヒロインのコニーに

「ああ、何ていいんでしょう!」

と語らせてしまう神経、1950年伊藤整訳本が発禁処分になり、裁判沙汰になったのも日本的感覚としてはある意味頷けます。同時に、この動きをGHQが差配したなどとは「臍が茶を沸かす」と断じましょう。このあたりは日本文学に通暁しているドナルド・キーン氏にでも解説願いたいところでした。「チャタレイ夫人の恋人」の文学的価値はさて置き、この慎みのかけらもないオープンさは現代の欧米の方々にもまっすぐにつながっています*。インスタグラムで、上であれ下であれ女性の具体的なパーツを晒すことを自慢気に競うこの文化は一体何なのか。

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さて、長谷のわが家の町内には、甘縄神社(甘縄神明宮)があり、その鳥居の脇には川端康成の家(川端康成記念会)があります。1分もかからないところです。

川端文学についてはあまり熱心には読んでいませんが、「千羽鶴」については強烈な印象があります。確か高校生の時でした。
具体的に、どんな描写や表現が契機となって強く刻まれたのだろう、と思って読み返してみたのですか、これが全くわからないときています。例えれば、おいしいとの明確な味わいの記憶は残ったものの、おいしいと思わしめたメニューが具体的に何だったか、読めど探せどわからないのです。

今読んでわかることは、これは大人でなければ実感的にはわからない官能の描写があると感じられます。いかに十代がセンシティブで多感とはいえど、これは難しいでしょう。川端が太田夫人や文子を描く時、三島や藤沢がヒロインの着物姿を、その下にある裸身を想像させるかのような叙述を採った方法とは、あまりに異なるアプローチなのです。
抽象的であり、感覚的であり、いきなり官能に到達するという点では、定家の手法に近いということかもしれません。そこにはやはり、省筆や含蓄が使われていると見えます。
「含蓄」については谷崎が方法論として語っていて、川端も谷崎の影響を受けていたとされますから、当然のことなのかもしれません。

千羽鶴」については、胸の痣や、ズケズケしたちか子や、口紅の痕があるかなきかの志野茶碗の縁という「濁」のイメージを配しているとの意図を感じます。魔性の小説には相応しい彩りですが、というより、これは性愛そのもののある側面を描き出していると見る方が自然でしょう。これは「春の雪」や「蝉しぐれ」にはない世界です。川端の美への鋭さは、醜への感度の高さと同義といえましょう。

また、菊治の、太田夫人への思いや外形に対する描写は、あるかなきかの幽かなものです。柱となる物語もでてきません。明確なストーリーを放棄して、放恣な男女の情欲を二重三重に描くことを通じて性愛そのものの持っている、とりとめのない寄せては返す波のような感覚の世界を顕現させているのではないか、そんな印象を受けます。

そんな妖しい男女の交錯にすかさず配置される志野の水指や赤楽の筒茶碗を見る時、私は背後に魯山人の世界が広がっているように感じられてきます。そのような指摘がすでになされているかは預かり知りません。魯山人の食と器を一体化した捉え方や「食器は料理のきもの」と語る、そのような関係性を川端がどれだけ意識していたかは知る由もありませんが、蠢く男女と絢爛たる陶器との一体化や同質化を企図していたのでは、とさえ思われます。一つの織部が、男女同士が関わり合うと同じように手から手へ委ねられていく様は、微妙に気色の悪さを伴っていつつも、陶器自体の存在感も際立ってきます。こういう意味で魯山人を感じているわけです。

見渡せば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮れ
(うらのとまや)

これは、定家の天才ぶりが面目躍如たる歌として認識しています。この歌について二年前に亡くなったドナルド・キーン氏が、墨絵の世界として解釈している文章に出会いました。淡彩的というか、非常に抑制的な色彩感、微妙な幽玄な描写だという指摘です。私は、堀田善衛などが解説する「なかりけり」と言うや否やむしろ現前する絢爛たる花や紅葉の華やぎを味わう解釈を好みます。これ有名な話でして、キーン氏の認識を意外に思うくらいなのですが、こうした感覚に出合う時、「千羽鶴」は正に恬淡な味わいに満ちていると気づかされます。おどろおどろしいエロスの大胆と同時に、淡い超精妙な感性それこそ「末期の眼」に通じるものを感じずにはいられません。

円覚寺境内
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冒頭、円覚寺の茶会の書き出しから始まるわけですが、ある意味「円覚寺」が「千羽鶴」の世界を語り尽くしているようにも思われます。山麓に広がる瀟洒な寺院、手入れの行き届いた清々しい「鎌倉五山」のひとつには違いありませんが、死霊の世界が濃厚にはびこっていることも事実です。エロスとデスが出合う舞台それが「千羽鶴」なのかもしれません。

長谷の後は鎌倉宮に近い二階堂というエリアに住みましたが、かつて川端もこの地区に居たことがあったようです。小説家、文芸評論家、詩人など、鎌倉は犬も歩けば作家に当たるというほど、文芸関係者を呼び寄せているようです。★

補足
チャタレイ夫人の恋人」の文学的価値を否定するものではありません。表現のオープンさを意図的に抽出したものです。ロレンスの狙いは、センセーショナルな描出のはるか先にあると思われます。
また、「チャタレイ裁判」に関連して、日本で無修正版が出版されたのが1950年で、本家のイギリスでは1960年とは、その辺は事情がありそうな話です。ロレンスは、イギリスで1928年にはこの小説を発表していたのですから。
ドナルド・キーン氏には「ドナルド・キーン著作集」全15刊という大部な著述記録があり、この中で「チャタレイ夫人の恋人」について何らかの言及があるかもしれません。