萌 え 町 紀 行 ─ 1 汐入

あなたは自分の萌え町をお持ちでしょうか。
それは初めて訪れてすばらしかった、などというのとは違い、一定期間そこに住んで、日々暮らし、季節折々の変化を肌で感じ、日常の蓄積の結果、その地でのアルバムが一冊、人生の本棚に配置されてしまっていることに気がつきます。仕事で関わった町は、その職場の人間関係が中心に描かれているでしょうし、暮らしの場として住んだ町は、名前も知らない隣人や、何故かよく会うことになり一言二言交わした人がいたりします。
そのアルバムは過去へ行くほどモノトーンになりますか。最近の新しいアルバムほど色彩豊かに輝いていますか。いいえ、時間の遠近というより、そのときどきの体験の質しだいかもしれません。強烈に焼きついた体験はいつもリアルに思い起こされ、何もなければそれなりに忘れ去られていくようです。
いま、スマホには無数の写真がひしめいています。その中に、独特の匂いが立ち込め、我を忘れて見入ってしまうものがあります。それは、そこに介在した自分の関係性が特別のものであったからかもしれません。そのようなワンカットが連なってアルバムが鎮座しています。一冊、二冊・・・いったい何冊になることでしょうか。
いま、それらのページを繰り、辿ってみたいと思います。自分と空気のように交歓した町は、どんな彩りと匂いを伝えてくれるのでしょうか。
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オレンジ色のサンセット

横須賀に汐入という町があります。この町が自分にとって特別の町になろうとは、思ってもいませんでした。これは縁とでもいうしかありません。
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汐入には名前にどことなく漁港の響きがあり私はそうであることを願っていた時期があります。
というのは、汐入というとどうしても私は「万祝」(まいわい)のことが浮かびます。「万祝」は、キルトで作ったコーディガンのようなもの、または、カラフルな無数の端切れで縫込んだ彩り豊かなドテラ、と言えるかもしれません・・・と私は捉えています。掲載写真のものはかなり洗練されたものです。当時私が見知ったものは手づくり感あふれる素朴な感じでしたが、それなりに華やかさがありました。それを着るのは漁師たちの長にあたる人のようです。また、豊漁の時に漁師達に船主などが祝い着として着させたものといわれます。いずれにせよ、いわば漁村や漁港のシンボルにあたると考えることができます。

以前、この汐入に「ショッパーズプラザ横須賀」というショッピングセンターがありましたが、昔、この商業施設のネーミングに関わる仕事をしていたことがあります。その際の自作に「横須賀マイワイ」があったのです。この案が周囲に多少評価されたのは、歴史的な背景を背負っていることと、万祝のデザインをモチーフとして広告のビジュアル展開に活かせる、このあたりかなと振り返っています。しかし、近世以前はともかく、どうも汐入は漁港とは言えないようで、このプランは没でしかありません。
とはいえ、このような題材はなかなか見つかりはしないので、私の中で深く記憶されることとなったわけです。汐入→商業施設→ネーミング→横須賀マイワイ→万祝、このようなつながりです。
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私が汐入駅前のショッパーズプラザ横須賀に関わる仕事をしていたのは、開業以前の1986年の話です。オープンは1991年4月、閉館は2019年3月、そもそもダイエーが経営していましたが、2015年には完全子会社化により運営がダイエーからイオンに替わりました。この時点でショッパーズは終わったといえます。
ダイエーで勤めた人には今でも中内さんのファンがいて、フェイスブックで繋がったりしているようです。私は職種への思いからこのグループ企業に入り、結果D社の釜の飯を喰ったことになりますが、私は小売業に対する興味はなく、その方達とは別の角度でこの会社に関わってきました。

中内さんといえば、私の父親とほぼ同世代にあたり、ダイエー創業者の絢爛たる業績に比べて、わが親父の卑小さを呪ったものです。
1990年代のことになりますが、台風が襲来しているある土曜日に出勤した折りのことです。当時本社は浜松町にありました。私はずぶ濡れになって事務所のある上層階へ行こうとして、上がってきたエレベーターに乗り込みました。そうしたら中内さんが乗っているではありませんか。社用車は地下の駐車場に乗りつけるので、昇りEVに乗られていたわけです。「お、おはようございます」私の姿を見た社長は「大変やな」と言われました。二人だけでした。私は確か11階で先に降りました。中内さんは社長室のある15階まで行くわけでした。これが、わがダイエー社長との最初で最後の会話です。

中内さんは戦時中、食べるものがなくて、靴をトンカツと思ってかじったという有名なエピソードがあります。私の父も戦地に行っていますが、その体験からか乾パンが旨い、とよく言っていました。

1980年代の後半、ウォーターフロントが脚光を浴びました。同時にショッピングセンターの時代がやって来る、そんな気運を感じていました。そんな折り
横須賀にできるD社の商業施設の概要書には、「眠らない街」「ラビリンス」などのキャッチフレーズが踊っていました。今で言うショッピングモールの形態を有するこの施設は斬新さに溢れていました。
しかもウォーターフロントダイエーが横須賀に一大商業施設を築こうとしていたわけです。テナント数、百数十は今では珍しくありませんが、中内さんとしては関西、しかも西武系の「つかしん」に対抗する思いがあったものと思われます。
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つかしんは、糸井重里氏のネーミングと言われています。一方、ダイエー系の横須賀の商業施設の命名はどうなったのでしょうか。ショッパーズプラザ横須賀とは、中内さんの命名と言われています。先行して営業していた福岡ショッパーズプラザなどがあり、それを展開させたものと考えられます。結局、広告制作スタッフが何百案名称を作ろうが、命名権のある人がつける、これで決まりというわけです。その点は、堤清二は時代の感性を重視して糸井重里案を採用し、中内功*は自らの思いをネーミングに籠める、この違いです。
正に企業文化の違いですが、私は中内さんの書いたものを読んでみると、堤清二に対する露骨な対抗意識を感じます。文化的なものに対する憧れ、いやルサンチマンともとれるものが不用意に出てしまっている文章に出くわしたことがあります。いずれにせよ、ショッパーズプラザ横須賀は、後に球団経営にまで触手を伸ばすことに比べて、ダイエーにとってより本業に近い形での、広告塔でありシンボルでもあったのでしょう。

私はずっとテナントに関わる業務でしたが、そういうメンバーにとって、ショッパーズのある横須賀は格別の意味がありました。スーパーではなく、ショッピングセンター運営に手を染める部隊としては、横須賀は「花形」という側面がありました。しかし私は、その後横須賀と日常的に関わることはありませんでした。が、自分の中に懐胎した一種の憧れは、横須賀という地名にいつも「汐入」という花をひっそりと咲かせ続けていたようなものです。ウォーターフロントに咲いた、巨大なショッピングセンター「ショッパーズプラザ横須賀」とはそういう存在でした。

長くD社の本社で勤務していた私ですが、定年間近になって横須賀勤務を命ぜられるとは、いわば晴天の霹靂のようなものでした。振り返れば、店での勤務は全くなかったことに気がつきました。2015年の夏、横須賀勤務の異動の知らせを受けた時は運命的なものを感じました。
この年、ダイエーはイオンの完全子会社になっていましたが、すぐに対外的にダイエーの看板を下ろしたわけではなく、それは翌年のことであり、イオンがこのショッピングセンターを手放すのは、その3年先のことになります。
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D社におけるテナント業務に携わる中で、私は過去にショッパーズプラザの事務所に数回出入りしています。そんなわけで、事務所の何人かは知っていました。私を含めた男子社員3名以外に、女子社員が10名ほどいます。何せ百数十のテナントを運営・管理する部隊ですから、こんな布陣になるわけです。スーパーダイエーの事務所は、もちろん別になります。
私は、自分が横須賀に来れたことがどれだけのものか、語って聞かせたい思いがあふれんばかりでした。女子社員さん達はみんな地元の方達で彼女達にとっては、最寄りの仕事先に過ぎません。D社におけるショッパーズのポジションなどは、どうでもいいことでしょう。勝手に、都合よくやって来た大手資本の雇用先というわけです。一方私はと言えば、この商業施設開業前からこの地を見ていて、カスリもしないもののネーミングにも関わり、ショッパーズがどれだけのものか、彼女たちに教えたくて、語りたくてしようがありませんでした。私は、この会社での晩年に汐入に来れたことが、本当にうれしかったのです。

勢い余ってこんな妄想にも及びました。自分が今三十代として、この地方都市のショッピングセンターに転勤して来た。パートの女子達からしてみれば、この汐入に都会の青年がやって来た!私が三十以上タイムスリップしているということは、彼女達も十分若々しい乙女達!この状況を俯瞰で捉えつつ、少し脚色して遊ぶ、こんな妄想で私は通勤途中を愉しんでいました。

私がナルシストというより、こんな妄想に耽ることが歳をとった証拠なのかもしれません。もし実際に三十代でショッパーズ勤務になったら、妄想にしろこういう客観的な目線で自分を持ち上げて見立てる余裕などなかったでしょう。
実際問題、私の定年はおよそ一年半後に迫っていました。私は、日々の業務を愉しんで過ごしました。
汐入の里での勤務を擬人化して「汐里」という女性に会いに行っていた、と思えるくらいですから、妄想もここまでくれば、ほぼ「いっちゃっている」と言えましょう。
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2016年3月ショッパーズは対外的に看板を下ろし、
イオン横須賀店となり、内部システムもイオン仕様に切り替わりました。これをもって、ショッパーズプラザ横須賀終了、私は、これを「ダイエーの終わりの終わり」と捉えています。2001年中内さんがD社を退いてからも、会社自体はまだ長らえていたわけです。

1990年代、私は、D社が忠実屋を呑み込んだ時に、現場で吸収される側の人達に対して、吸収する側の人間としてふるまったことがあります。今は、逆のパターンを迎えている、そこは明確に意識していました。しかし、イオンの吸収は比較的穏やかなものでした。もちろん文化の違いは多少あるものの 、まあ、似た者同士の結婚だったと言えましょう。相当厳しい局面の可能性もないではなかったわけですから、これは幸福なことではあります。文化の衝突や破壊はもっとも苛酷なことですから。

ダイエーリクルート社を買収した際、リクルート側の危機感は相当なものでした。これは、藤原和博氏が「リクルートという奇跡」で記録していますが、編集権を守ろうとしての闘い、そんなところが印象的なノンフィクションです。もし、これがD社ではなく、西武だったら違ったかもしれません。推測に過ぎませんが、堤さんならリクルートの資質を活かそうとし、中内さんならDカラーを出そうとしたのかもしれません。すでに見たようにそれは商業施設のネーミングの例で見た通りです。この意味では、藤原氏は敏感に中内さんを恐怖をもって迎えたということでしょう。
汐入の女子社員さん達は、おそらくイオンとの統合にそんな恐ろしい懸念を抱くことはなかったでしょうが、それは幸せなことだったと思っています。

定年は、その年2016年の終盤には来るのでした。私はD社の人事制度の中で定年を処理することになりました。ただ、すでにイオンもかぶっていましたので、最終出勤日の設定変更などはイオンのシステムも絡むという具合でした。私の定年とは、正に「ダイエーの終わりの終わり」にオーバーラップするものでした。D社グループに入った時にショッパーズに関与し、 仕事先としてのD社のラストにショッパーズにいる、ということになったわけです。
仕事を終えたある日、ショッパーズ館内を移動して中央部の吹き抜け付近を通りかかると、西側のガラス壁全体がオレンジ色の光彩を賑々しく放っていました。「オレンジ色のサンセット」と心の中で呟いていました。オレンジは、D社のコーポレートカラーであることはよく知られています。
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ダイエーの業績が悪化した頃、中内さんは一転して世間から叩かれ出したように見えました。金融機関も手のひらを返すような感じでいたたまれませんでした。この時、右胸に心臓をもつ、ルソン島で生き抜いた、ヘビーデューティ中内功の姿は、もうありません。あの大雨の土曜出勤、唯一無二の中内さんとの会話「大変やな」は、正にご自身にブーメランとなって返るものになってしまいました。リクルート江副浩正氏の時も同じような感じがあり、世間は寄ってたかって、かつての成功者を地獄に叩き落とすのです。

中内さんは2005年に亡くなりましたが、わが父はその6年前に最期を迎えました。戦地から生還し、七人兄弟の長男として一家を支えました。銃弾のかすり傷と聞いたと記憶しますが、昼寝の時なども膝のあたりをよく痙攣させていたものです。臨終が迫って実家へ向かう途中、乗り替え駅で見た夕陽のオレンジ色には、幾重にも思いが錯綜して、色に感情があることを知りました。
人は死にゆくものだし、商業施設にも寿命があると学びました。

ショッパーズプラザ横須賀の看板は下ろされ、イオン横須賀店というショボい店名になったもののおよそ3年、2019年の3月まで職場は維持されました(私も、定年を跨いでイオンの制度で勤務は維持)。しかし、女子社員たちも、顧客としての地元住民も、通称ショッパーズは使われ続けました。職場に進駐軍が乗り込んで来ることはついに起きず、平和は維持されました。これはラッキーだったとつくづく思えます。一方で、100強に数が減っていたテナントの退館交渉も進められました。

2018年年末、閉館が告知され、翌年春には館脇のヴェルニー公園に桜が咲きました。この地は、1986年開業前の現地取材で更地だった一帯です。横須賀造船所の周辺、今では日本遺産となったエリアであり、「日本近代化の躍動を体感できるまち」と詠われた歴史的な場所です。館の5階休憩室から望まれるヴェルニー公園の桜を、私は、特別な思いをもって眺めていました。
事務所のかたづけも始まり、28年間に蓄積した廃棄されるべきものは大量でした。館内の廃棄物集積所に指定されたのは、吹き抜けの1階客用エレベーター付近です。実は、イベントステージとして使われたこのあたりは、かつての横須賀製鉄所を象徴する時計台のあった場所にあたります。歴史は、私の肌身に感じられました。
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もったいないものの、処分しかしようのないものが山積みでした。最後に捨てるべき、A3サイズのコピー用紙を、私は持っていました。封は切られているのですが、結構な枚数でした。貰うにも荷物と思い
捨てようとしていたら、同僚の女子社員が「それ、少しもらえませんか」と言われた私は、急にその価値に気づかされたかのように「おれも、もらって帰ろうっと」と思い直し、二人で分合いました。用紙のまっさらの白い空間は、とても輝くようにも見えました。そこにはだいぶ少なくなってきた人生の時間とはいえ、まだ描かれていない何かがあるような気がしてもいました。
私は、その若い女子社員と共に、勤務先の備品を窃盗することに当たる共犯的な行為に、汐入の最後の思い出の彩りとして焼きつけることにしたのでした。
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今回この拙文を記すにあたり、中内さんの履歴を確認する上でウィキペディアを見ていたところ、初めて知る記述がありました。それは経営者としての栄光が見るも無惨に砕け散っていくリアルな合理主義の現場で、かろうじて、こんな、救われるようなシーンがあったとは、全く知りませんでした。数行をそのまま引用します。

『2001年、経営悪化の責任を取り、「時代が変わった」としてダイエー代表取締役を退任。中内が退任表明を行った同年の株主総会では、厳しい質問が続き、2時間36分と長時間行われる大荒れの会となった。中内は過ちを認め株主に謝罪して、総会中に壇上を降りたが、株主から「議長、中内さんがあんまり寂しすぎる!拍手で送ってあげたい」との声があがって再登壇し、中内に満場の拍手が鳴り止まなかった。』

*註
中内さんの「功」は、正しくは「エ」に「刀」です。