いかにして価値ある本を書くか

─ その価値創造について検証してみる
 
前回の記事から問題意識を踏襲していて、どのようにして価値ある本を書こうか、必ずしも本でなくともいいのですが、どうしたらわれわれ臣民にも表現に関わる価値を創造できるか、そのあたりを探っています。文章論ではありません。
 
や記事は「値うち」の輝きが問われている
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前回の「なぜ、その本は読まれるのか」で本の価値として6つ抽出しています。これは私にとって意義深かった6種の本から導きだしたものです。
・殺陣批評(文芸批評価値)福田和也「作家の値うち」
・視点の転換(事故対策価値)─柳田邦男「失速・事故の視角」
・前さばき法(仕事ノウハウ価値)─大嶋祥誉「仕事の結果は『始める前に』決まっている」
・マインド醸成(戦略マインド価値)大前研一「企業参謀」
・柳思想世界(柳思想価値)中見真理柳宗悦
・美酒宝物殿(定家玩味価値)堀田善衛「定家明月記私抄」
 
価値を見いだせなかった事例
 
対比的に、上記の事例のようには価値が得られなかったケースを述べておきます。その著作に対する批判では全くありません。
先日「日本語は論理的である」という非常に興味深い一冊と出会いました。工学博士で人工知能専攻の方の著作です。「論理とは比喩の形式である」や「日本語の論理の基本は形式論理である」などの見出しは魅力を放っていました。この本を読み込むべきかどうか判断しようと少しぺージを繰ってみましたが、結局やめました。
 
決定的だったのは最終章の見出しが「小学校英語教育は廃止すべきである」、これでした。この廃止の意見は私もそう思うのですが、私がこの本に求める興味とは全く別の文脈で構成していることがわかるからです。
私にとってこの本は、分析のために分析しているものにしか映らず、自分の表現行為に活かせる日本語の構造論を期待していました。たぶん、日本語の分析から、表現行為に使える展開論を私は求めていたのではないか、と思っています。
というように、期待がはずれることがあることにも触れておきたいのです。
 
一定の分量ある本にしろ比較的短いコラムにしろ、「期待はずれ」と思わせないためには何を、どんなことを考えなければならないのでしょうか。すでに触れているように、私は自分にとって有意義だった著作に「価値があった」としています。この体験から言えば、自分が制作する側に立った場合、この価値を追求すればよい、とは自然な考え方のように思われます。
 
普遍性・汎用性の意義
 
では書かれることの価値とは何なのでしょうか。前回の記事で、私は読者の立場で6種の本について、この記事での上述のように、自分にとっての価値を整理してみたわけです。しかし、ここでは、書く側からこのことを検証しようとしています。
私が採り上げた6種の著書のうち、「失速・事故の視角」と「仕事の結果は─」については、著者の想定する価値と、私の得た価値とが全くアンマッチだった事例と言えると思います。柳田氏は航空機事故の問題を、私が自分の仕事上の視点転換に活用するなどは考えていないわけですし、大嶋氏は仕事の前さばきの重要性を、私が本の事前構成に役立てたなどは想定外だと思うわけです。しかし、これは柳田氏大嶋氏の扱うテーマに普遍性や汎用性があるから生じていると考えられます。著者自身がそこまで意識しているかはわかりませんが、航空機の安全対策論や、仕事のハウツーについて、一定の角度から突き詰めた結果、そのテーマに広がりが生じた、といえるかと思います。著者は、私の個人的な問題意識に沿って書くわけもありません。
 
社会性・公共性という価値
 
著者は、構想時自分の考えるテーマに社会性や公共性を感じ、それに価値を見いだして執筆に至ったものだと思われます。「失速・事故の視角」については数多くの事故に対するケーススタディがあり、「仕事の結果は─」については仕事に対して独自の着眼点があり、そのことが著者に制作動機の契機形成を促進していたものと想像されます。その結果まとめ上げられた著書が、十分に一般読者にとっての価値を提供したと考えられます。私の場合については、テーマの普遍性汎用性が、私にとっての個別価値の獲得に至ったケースといえるかと思います。
逆に、他の4種の著作「作家の値うち」「企業参謀」「柳宗悦」「定家明月記私抄」については、一般的な読者が享受している価値と、私が得ているものは、共通ではないかと考えられます。
そういう意味では「日本語は論理的である」が期待はずれとは、私の固有の期待価値にそぐわなかっただけで、社会的公共的価値はあるので、その本に価値がないとは思っていません。
 
山本夏彦の至言
 
さて、もうひとつ私の問題意識は、価値の構想だけで内容が書けるかと言う点にあります。読まれるべき価値は当然考えられるべきことですが、そもそもディスクール自体社会的な営為でありましょう。
しかし、発想の経緯として、きっかけは極めて個別的個人的なことから動機形成されるものだろうと思っています。
変だな、違うでしょ、おかしい等々、不満や懐疑が出発点になるものではないか、そんな気がしています。かのコラムニスト山本夏彦氏が以下のように述べています。
 
「書物は定評をくつがえすためにあるもので、定評に従って異存がなければ、発言はないはずである。沈黙して定評に従っていればいいのである。異議を述べて、はじめて発言である。」(「日常茶飯事」─日記のすすめ)
正に山本氏仰せのとおりであり、これは至言というべきたぐいのことかと思われます。結局この指摘は
発言の価値のことを言っているわけであり、著作物についても全く当てはまると思います。
 
日頃からの目配り
 
コラムなどでは単なる異論、異存の表明はじめとしてテーマを追いかけたり、誰も見たこともないことを見てしまったとか(題材の発見)とか、論文などでは誰も言っていないことに気づいた(新視点の着眼)とか、新しいものを造り上げることができた(新概念の構築)等々を制作動機として結晶するその瞬間に、実はほぼ同時にその書こうとすることのうちに、社会的価値や公共的価値が構想されていなければならないのだと考えられます。しかも、そこに普遍性や汎用性が伴えば、それを読む側に固有の価値をもたらす可能性も出てきます。読まれる可能性の拡大につながることでしょう。
 
おそらくプロの作家、著述家は、当然のようにそういう営為を行なっていることでしょう。逆に不満タラタラで制作動機を稼働させても、テーマ価値への目配りが欠けているようでは、読まれることは少なくなるでしょう。つまり、普段から社会的なことや公共的なことへのサーチライトが身についているべきものと考えられます。さらに、その興味が体質化されるほどにまでなっていれば、至るところに、題材やテーマが転がっている、という感覚を持てるようになるのではないでしょうか。
 
価値を懐胎するとき
 
それではここで、私の価値体験の6例から制作動機について見てみたいと思います。
福田和也「作家の値うち」
文壇、世評等一般通念的文芸価値に対する挑戦
・柳田邦男「失速・事故の視角」
事故の個別追究、探究を通して、問題の本質をつかもうとする使命感
・大嶋祥誉「仕事の結果は『始める前に』決まっている」
日常業務の濁流から事前作業の重要性を掬いあげ得た着眼
大前研一「企業参謀」
幾多のビジネスケーススタディを通して、自ら掘り当てた鉱脈の開陳
柳宗悦を民芸から解き放つための、全容把握熱情
堀田善衛「定家明月記私抄」
藤原定家という宝物を自ら堪能しつつ、その美酒を味わい尽くす
 
こうして各制作者、著者の制作動機そして、縷々述べているテーマ価値に思いを致してみると、制作動機のうちに価値意識が懐胎している、と考えることができます。
この記事のタイトルは「いかにして価値ある─」ではありますが、要は「何を書くか」を中心に考えていることになるでしょう。著作や叙述を行なおうとする者は、まず「何を書くか」に思いをいたし、そのテーマについてその質を検証することが求められると考えられます。そのテーマの質こそ、「なぜ読まれるのか」に結びつくキィファクターになると考えています。すなわち、それは価値をどう設計するかにつながり、そのためには日頃の問題意識に帰着するのではないか、ということを検証しました。
 
採り上げた6例の著作中、「作家の値うち」「定家明月記私抄」は濃厚な文学的素養なしには書けないと思いますし、「企業参謀」は突出した大前氏の能力あっての開発スキルという点では、素人のリテラシーには参考になりません。語られている内容のことではなく、著作づくりや、論述の参考としての場合です。そういう点では、素人が自ら何か表現に企もうとした場合、「失速・事故の視角」「仕事は始める前に─」「柳宗悦」はテキストになるのではないか、と思っています。同じようなレベルのものが書けるというのではなく、企画の設計方法の参考の意味においてです。知識や理論の基礎部分については、その対象とする分野についてはスタディあるのみです。
 
考古学に無関心でもツタンカーメンの造型や金箔に魅せられる人はいる
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民芸と呼べる価値をめざして
 
私は素人のディスクールを「民芸コラム」と概念化して考えたいと思いますが、一般臣民の論述・著作や、その活動のことです。そもそも前回分含め本記事で扱っているのは、素人でも読まれるもの価値あるものを書き得るか、といった意識が出発点になっています。
結論的には、価値あるものこそが読まれるのであり、素人といえど、価値創造に挑戦してみよう、ということです。
 
昨年、6月に公開した私の記事「素人視点 本コラムについて②」の中で、柳宗悦翁の「民藝」を借用し、民芸を私の考え方の軸としていることに触れています。SNS時代という表現媒体の普及を背景に、臣民・民衆の表現活動に名前を与えたいわけです。
そもそも「民藝」は民衆工芸の美学的なテーゼですが、言論は美を追求するものではありません。もちろん、美をテーマにした論述はありうるのですが、真実の追求や論理的価値が理念といえましょう。この点では、私の唱える「民芸コラム」は、民の作品を渉猟したり、専門家やプロのディスクールの対立概念化を意図しようとするものではありません。
あくまで私の理念、目標としてのものです。アマチュアといえど、一定の価値創造に寄与したいと考えるものです。柳宗悦が美術品に対して民藝品の価値を打ち立てたことが、大いなるお手本です。もちろん、プロが見向きもしない領域の開拓や、プロが陥っている言論を俯瞰したり、われわれだからできることも少なくないと思われます。
 
締め括りとして、もう一度山本夏彦の名言を繰り返し掲載し、また、私の描くイメージにしっくりと感じられるウィトゲンシュタインの哲学の説明中、恐れ多いことですが、「哲学」を「民芸」と変換して、下記の通り据え置きたいと思います。
 
「書物は定評をくつがえすためにあるもので、定評に従って異存がなければ、発言はないはずである。沈黙して定評に従っていればいいのである。異議を述べて、はじめて発言である。」
山本夏彦「日常茶飯事」
 
「民芸の目的は思考の論理的明晰化である。
民芸は学説ではなく、活動である。
民芸の仕事の本質は解明することにある。
民芸の成果は『民芸的命題』ではない。諸命題の明確化である。」