なぜ、その本は読まれるのか

─ その価値について検証してみる

今回は6冊の本を採り上げます。その本の紹介目的ではなく、また書評をしようとしているわけでもありません。そもそも、なぜその本が買われ、読まれるか、そこが気になっています。それを明らかにする方法としては、自分の書物体験を振り返り、その書物の価値を探り当てることから始めようかと思っています。その上で、その価値がどのようなものか、またその価値を創造する著者の能力や、制作動機がどのようなものか、想像し検証してみたいと構想します。したがって、私が十分に価値を感じることができた作品が対象となってきます。

そもそもこの問題意識は、どのようにしたら読まれる著作を書き得るかや、あるいはどういう能力があれば書けるものなのかなど、その辺にあります。
果たして何らかの答えが出てくるものか、不可知のことです。
各著書に対して、抽出した固有の価値をネーミングし、その上位価値としての社会文化価値を、またそれを制作した能力を、超まとめ的にそれぞれ記載しました。
∴固有価値(社会文化価値)/能力
となります。

作家の値うち福田和也
2000年発刊。この本については、もう記憶は曖昧ですが、確か新聞の書評欄で見たような気がします。はっきりしているのは、絶対読もうと動機づけられたにも関わらず、しばらく後になって入手したことを覚えています。
何しろ前代未聞の恐ろしい企画です。今では福田氏がどんな方なのかよく存知あげますが、これを着想した時の氏の気持ちの高揚感はどれだけのものだったかと想像されます。日本の名だたる小説家どもを抑圧する斬新な視点の獲得は、文芸評論家として「血湧き肉躍る」ものだったと思われます。
この本は発刊当時現在で現存する作家100人の作品について、100点満点で採点しつつ、批評するという企画です。このプランには、手垢にまみれた表現をまた使いますが「度肝を抜かれた」とでも言っておきましょう。

前段では、詳細な企画解説があり、ピックアップした作家選定についての言及があります。
物故している三島由紀夫や、松本清張や、藤沢周平はエントリーされませんが、大江健三郎や、石原慎太郎や、村上春樹はまな板に載ってきています。百田尚樹登場前の時代のことでした。

当時、熱心に文学界をフォローしていませんでしたので、今一つ実感が伴わないのですが、作家たちからかなりな反発があったようです。しかし、読者目線的には、それは所詮「負け犬の遠吠え」であり、文芸評論家の企画勝ちと言うべきと思われます。船戸与一五木寛之は酷評されたのはごもっともという感じですが、石原慎太郎が高評価だったのは意外でした。小説にかつての力がなくなった時代に、福田氏は文学界にカンフル剤をぶち込んだ、そんな印象です。

この本については企画が肝といっていいのではないかと思います。つまり企画に価値があるということです。
冒頭で福田氏は、ワインに関する著書「ボルドー」が発想のヒントになったと、結構くわしくこのことに触れていますが、私には、ワインに品評があるように小説にも同じように点数を付けた批評があってもいいではないか、と語っているように聞こえます。つまり、予め相当の反発なり、拒絶反応なりを想定しているからこそ、パーカーシステムのことを持ち出しているのではないか、という側面が感じられるのです。

企画一発、企画一撃、という感じですが、では企画だけで誰にでもできるかとなると、そうはいきません。作家の小説をあまねく、広範に読んで知っているだけではなく、各々の小説作品を堪能する感受性と、批評的眼識がないと評価を下せない作業と言うべきでしょう。文芸評論の専門家として、面目躍如たる仕事ぶりと拝察いたしました。

文芸評論家江藤淳の「文芸時評」も凄まじい刀使いで作品を斬りますが、福田氏の師にあたる方のハイテンションぶりに負けず劣らず、福田和也の刀の冴えが読みどころと言えましょう。

企画は極めて分りやすいし、そこに読者の期待がかかるし、即購買動機に直結させる企画構造になっていると思います。
∴殺陣批評(文芸批評価値)/文学の泰斗

失速・事故の視角─柳田邦男著
常識的にノンフィクション作品として括られるというべきでしょうか。
これもかなり前の本で、当時どういう動機で手に取ったか記憶が定かではありませんが、この作家を注視していて、他の作品も読んでいます。この作家に対する興味が契機になっていることは間違いないことです。

頻発する飛行機事故を克明に取材した内容となっています。それぞれの事故についての科学的検証ぶりや、ヒューマンエラーについての洞察や、フェイルセーフの概念に感銘を受けた、と言おうとしているわけではありません。私にとってのこの本の価値とは、私の考え方にある変化をもたらしたという、その一点にあります。

柳田邦男氏の航空機事故に対する主張の要点は、事故に対する責任追及論に終始してはならず、事故の経験から安全対策論を導き出さねばならない、というものです。この視点の移動です。

当時私は、ある制作に関わる仕事をしていて、自分が同じようなミスが続くなあ、とボンヤリ気がつきだしていて、気になったことをノートに書き留めるようにしていました。厳密にはミスと言えることではないにしても、人の指摘を自分が受け入れてもいいと思うなら、それを記録しようと思ったのです。属人的な仕事であり、客観的に正解といえるものがあるかは微妙な分野です。

そのような時に「失速・事故の視角」に接して、ミスなり、間違い相当のことなり、できるだけ避けた方がいい技術的なことを、そのことを避けよう注意しようと気をつけるだけではなく、そこをもうちょっと押し進めて、そうならないためにどうしたら良いかを考えるクセをつけるようにしたのです。なぜ何度もこうなるんだ、だめだなぁ、ではなく、まずこの失敗を書きつけること、まず次に繰り返さないようにすることを意識するようにしたのです。

記録付けの反復作業による問題意識の体質化が蓄積されるとともに、悪戯に自分を責める思いから抜け出し、思考の転換はその後身についていった、と感じています。

この本の私にとっての価値とは、ある思考の習得でした。これは、この本に向き合う時に見えていたわけではありません。予めその考え方をわかっていて、それを身につけたいとして購入したわけではないのですが、読んでみてその内容から影響を受けたという経緯になります。

柳田邦男氏も、思考法としてこの本を書いたわけではないでしょう。幾多の航空機事故を検証し、事故防止の観点から、ケーススタディを重ねていくうちに責任追及論からは何も得られないと悟ったものではないか、と想像されます。
丹念な取材とともに、科学的、論理的に突き詰めていく能力、これが柳田論を形成しているのだと考えられます。特に氏は航空機のメカニックについて詳しい方との定評があります。
∴視点の転換(事故対策価値)/事故追究力

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仕事の結果は『始める前に』決まっている─大嶋祥誉著
これはタイトルからしてビジネス本であり、ハウツーものといっていいでしょう。
書店で見つけるなり一瞬でタイトルに惹き付けられましたが、私には具体的な問題意識がありました。

これは2016年の12月と記憶します。その頃私は何としてでも一冊本を書こうとしていました。題材は決まっていたのですが、全体構成をどうしようか迷っていたのです。ネタは熟していたのですぐにでも書き始められそうでした。しかし、構成なしで始めて行き詰まったらどうしようとか、それは書き進めながらでも、どうにでもできそうにも思えるのでした。

そんな矢先に大嶋氏の本に出くわしたのです。コンテンツを見れば「あらゆる仕事に『』をもつ」や「『全体設計』が最短のルートを示す」等魅惑に満ちていて、私は迷わずそれを購入し、とっとと読みました。その上で、私は本の全体構成づくりに着手したのです。

章立てを作り、その章の中に見出しを築き、その見出しの中に考えられる要素項目をリストアップしていきました。これは、絵でいうデッサンのような作業でしょうか。細部はともかく、全体像、全体のバランスを整える作業です。「細部はともかく」と書きましたが、実は、ミソは、この時自分には描くべきディテールが見えていなくてはなりません。地図で言うルートを辿りながら、ルートに沿ったその周囲の風景も鮮明にイメージする必要があります。

この全体構成を作りあげた後、私はこのロードマップに基づいて、本一冊文の原稿を書き上げることができました。ボリュームは、一行40文字×15行×200頁強ぐらいになります。3カ月超掛かったでしょうか。

このようなことから、私の本づくりの背中を押してくれた一冊となりました。まさか、大嶋氏は、自分のビジネス書を原稿作成方法として読まれているとは思ってもいないでしょう。私は確かな手応えを入手できたので、うれしさのあまり何度もこの体験を著者に伝えようと思ったほどです。

私の得た価値とは、あるノウハウの体得でした。私は、原稿制作に着手する前に全体構成を組み立てきること、このことの背中を押してもらったことは大嶋氏の本の代金1400円は破格の安さだったと思っています。氏はおそらく日常の業務遂行をしながら、常に方法意識をもって臨んでいるのでしょう。それなくして、仕事のしかたの新方法論が生まれる筈がありません。
カルチャーセンターのようなところに通って文章の勉強をしたら、その金額の10倍100倍は掛かってしまうのではないでしょうか。(*①)
∴前さばき法(仕事ノウハウ価値)/方法化力

ところで、大嶋氏は、先述の福田氏や柳田氏に比べたら作家としての知名度は、低いと見るべきでしょう。ビジネス界ではお名前が通っているのかもしれません。他の著書もありますし。なぜこのようなことに触れるかと言うと、本の購買動機に関わる点で知名度がどんな影響があるのだろう、ないのだろうかということです。

柳田氏は元NHKの方でニュース解説などをしていて良く知っていました。ノンフィクション作品を矢継ぎ早に出版し、その新聞広告を通じてお名前は売れていた、と言えましょう。福田氏は「作家の値うち」を通じて知りました。この出版広告の露出自体かなりだったのではという印象です。始めから売れることが見込まれていたのだと思います。同書の奥付を見ると発売3カ月で7刷までいってますから、当時かなり話題になり、売れたものでしょう。氏も旺盛な筆力で出版を続けるだけでなく、文学賞の獲得なども経て、江藤淳に連なる文芸評論家の地位を築いた、と私は見ています。というより、氏は泰斗と言うべき方であり、かつ、その大陸的な気風は正に「作家の値うち」の作者と言えます。

これら三人と三作を見たときに、柳田氏については
本の内容は予めには未知数でも氏の力量に触れてみたい思いがあったと思います。そこであった価値は、購入、読了以前は見えていませんでした。一方、福田氏と大嶋氏の著作については、購入読了以前から、その価値は明確だったと思います。当時、福田氏も大嶋氏も私にとっては無名の方です。大嶋氏はマッキンゼーの方だったので、その肩書は光っていましたが、そこは購買動機に全く関係なかったと思います。
つまり、私は書物の内容価値によって購入し、読もうとしたことは、明白だと分析しています。柳田氏については、内容より作家力によって購買したと言えるかもしれません。

企業参謀大前研一
今振り返って私が大前研一氏を知ったのは、おそらく新聞の出版広告情報にあったのではないかと思います。「企業参謀」はタイトルからして魅力を放っていましたし、通勤電車の中で貪るように読みました。例えて言えば、これを読んだら頭が良くなれるかもしれない、という期待感です。

その結果についてはどのように表現したら適切かと迷いますが、私の中で「革命」が起きたと感覚しています。私の脳をクレンジングし、オイルを注入し、チューンナップした、とでも言うべきでしょうか。思考がグルグル回りだすようになり、論理がチャキチャキ展開するようになったのです。これは、すごい体験でした。書かれていることのどれがどうというのではなく、その中に充填されている成分に触れたら一気に覚醒が起きるのです。その成分とは
ストラテジックマインドにほかなりません。

これは、小説などの文学的感動とは異質の体験でした。この本も、私が読む前に求めていたものと、読後得たものが一致していたというより、それ以上の成果が得られたケースになります。約めて言えば、
私の思考を活性化させるものがありました。

確か、先に英語で著書「ストラテジックマインド」を出版、その後「企業参謀」を上梓したとの記述を読んだと記憶します。著書「ストラテジックマインド」はビジネス関係者だけではなく、海外の首脳が政権幹部に読ませたというエピソードがある他、マハティール首相の熱はかなりなものだったらしく、大前氏はマッキンゼーの経営コンサルとして、様々なアドバイスを行なったものと想像されます。

この本から私が学んだと思っているものは、仮に思考法技術が10個あったとして、その記述の習得にあったとは思っていません。氏も強調していたように思いますが、要はストラテジックマインドの獲得です。しかし、どちらかと言えば、「戦略思考」の概念の方が普及した、といえるかもしれません。私の大雑把な感覚では、1980年代以降の戦略思考ブームを氏が牽引した、そんな気がしています。

それから氏のもう一冊「悪魔のサイクル」にも触れておくべきかもしれません。これは「企業参謀」の元ネタ帳にあたるもの、と申し上げます。大前氏が日立在籍中にノートを付けていたらしいのです。ですから「悪魔のサイクル」「企業参謀」「ストラテジックマインド」は三冊とも、本質はストラテジックマインドといっていいものと、私は捉えています。

大前氏の論述はどこから出てくるものでしょうか。
これは、頭脳のクオリティが違い過ぎて頭を抱えてしまうのですが、そこに特徴的に表れているものは、本質追究力であり、分析力であり、柔軟性だと思います。

「企業参謀」自体からは少し離れますが、氏を総合的に見た場合に、今では私は甚だしく懐疑的にみています。思想的影響力として日本のグローバリゼーションを牽引した側面もあったでしょうし、経営コンサルとしてチャイナと日本企業の接続に加担したのではないかと疑っています。国家観なきグローバリストの姿が見え隠れするような気がしています。(*②)
∴マインド醸成(戦略マインド価値)/金もうけの天才(拝金主義者)

柳宗悦─ 「複合の美」の思想
これは私が読んだもっとも最近の一冊ですが、その前書きにあるように「柳宗悦を『民芸』から解き放つ」ところに焦点があります。
柳宗悦といえば、民芸の祖であり、日本民藝館創始者です。それだけで日本文化の大いなる側面を発掘するという偉業、と思っていたら、中見教授の著作に触れて、連なる大山脈が朝日に照らし出されて刻々とその全貌を現すかのように、柳宗悦翁の思想的大きさが読む者を圧倒してきます。しかも、その内容がすご過ぎます。
今だ私は翁をスタディ中であり、そのすごさを的確に語る自信はありませんが、現代の知識人が忘れているものや、日本人がめざすべき方向を、如実に示してくれます。戦後、日本の思想的輪客として名を成した著名人が幾人もいますが、今や霞んで見えてきます。中見教授が、その思想を継承したいというその思いがわかる、と言っては生意気でしょうか。

この本は、柳宗悦の思想をあまねく照射し「民芸の柳」脱色し、「新たな柳」像を描き出した、と言えると考えます。こういった表現作業は、柳宗悦の偉大さ同等の価値を築造しているようなものです。既述の「作家の値うち」や「企業参謀」のような派手さはありませんし、著者の才気が前面に出てくるような感じもありません。しかし、この制作の裏には、確かに「企画」や「ストラテジックマインド」がひそんでいます。かつ、地味ながら、コツコツとした探究があります。いかにも研究者の成果という感じがします。

対象に対するアプローチ、制作上の方法論として、
これほど魅力的な事例だったとは、このコラム作成過程で獲得した、またとない成果ではないか、そのように今思えます。
∴柳思想世界(柳思想価値)/肉薄力

定家の書蹟
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定家名月記私抄堀田善衛

堀田善衛は作家として有名ですが、私はこの定家解説本を通じて知っているのみです。
そもそも藤原定家については40年以上も前に、NHK
日本史探訪で知ったと記憶します。特に「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」は、衝撃的でした。素人の思い付きですが、これをもって定家をアウトサイダーに括り入れたいと思うのですが、どんなものでしょうか。
河上徹太郎著「日本のアウトサイダー」には残念ながら定家は入っていませんが。

「定家名月記私抄」にも、冒頭で「紅旗征戎─」のくだりは触れられていますが、この本の魅力は定家やその和歌の解説にあるといっていいでしょう。この本に抱く私のイメージは、匂いやかで、色彩ゆたかな、花園のようなものです。これは、知で理解するというより、じっくり味わう世界、そんな感じがします。
二三定家の和歌を紹介したい誘惑にかられますが、
そんな不粋はやめておきましょう。ソムリエ堀田氏の解説に直に接して頂いた方が玩味できることと思います。今はただ、定家の世界に誘ってくれる堀田善衛の古典的素養に祝杯をあげようではありませんか。
∴美酒宝物殿(定家玩味価値)/堪能

まとめ
私が本を読もう買おうとするのは、基本は何かを学ぼう、教えてもらおう、あるいは、知ろう、のぞいてみよう、そんな気持ちがあると思うのです。ということは、必然的にその分野に詳しい著者、専門家の本になってくるでしょう。作家、ノンフィクションライター、コンサルタント、研究者、いわゆるプロの書き手のものになります。これは、そのまま一般的な購買動機といえると思います。

つまり、何らかの価値を認めるからそれを学ぼうとなるわけです。今回採り上げた6種の著作について見てみれば、私が得た価値を、その本の入手以前にそれをわかっていたかといえば、柳田氏については否、ということになります。本の内容的価値は見えていずとも、柳田氏の著作に触れてみようという判断だったと思います。

柳田氏の場合のような購読に至るには、ノンフィクションライターなり作家として、一定の地位を築いていないと起きないことと言えましょう。他の5作品については、著者がだれであろうと内容価値によって購読に至るものと考えられます。確かに私は、その内容に惹かれて入手したものばかりとなっています。これらの著作によってその著者を知ったケースばかりです。

一つ言えることは、本の価値は企画として、読む前からわかっているべきこと、伝わっているべきことだという感じがします。小説のように読まなくてはわからない、ということでは、「作家」として確立していないことには、見向きもされないのではないでしょうか。

6事例について検証してみましたが、本における価値創造についての検討や、プロしか書けない仕事なのか、などについては、まだまだ追究が不足しているように感じられます。今回のテーマについての論考は、本記事のみでは終わりそうもありません。★
(次回へ続く)

註釈
*①
本一冊分の原稿を書きましたが、出版には至っていません。
*②
大前氏に関してはかなりな著作を読みましたが、能力には驚くものの今は思想的に落胆しています。
30数年前私が師と仰ぐ方に「大前研一をどう思うか」と尋ねたところ言下に「売国奴」と言いました。私は、師が間違っているとずっと思いつつ、大前研一の本を貪り読みました。しかし、この数年で私の認識が変化しました。この内容は記事中で触れていますので繰り返しませんが、私のこの見方を否定できる方がいたら、教えて頂きたいものです。