解説に美学が宿る

─ 試論、日本民藝館への提案

日本民藝館に行くと、創始者柳宗悦翁の意思により、展示作品については各自の感覚で味わって頂きたく説明はつけない、という趣旨の但し書きがあります(*)。説明書きがないことへの意思表明といって良いでしょう。これについて、違和感を禁じ得ないところがあり、少しく述べたいと考えています。

今回およそ35年振りに民藝館を訪れたのですが、退館した時、何か物足りない感覚があり、この感覚は35年前にもやはりあった、と思い至りました。食い足りないというか、薄味で何かもの足りないという感じなのです。出向いている時の期待に対して、帰る時の空疎な感じ。これは一体何なんだろう?

『なんか違うんだよな』と私が感じる以上、期待とのギャップがあるということになります。では何を私は民藝館に期待していたのか?行く前に、期待を具体的に持っていたりしたろうか?今回行こうと思った動機がどこにあったのだろうか?

「民芸」を借用

といっても、これは大層なことではなくて、柳宗悦翁の業績を振り返るきっかけがあった以上、民藝館に出向いてコレクションの数々に触れたら、何か刺激が得られるのではないか、新たな発見や感銘があるのではないか、ということです。
「振り返るきっかけ」とは、他でもなくこのラインブログなどで展開している、コラム星人としての見解や言説について、昨年6月に「民芸」のコンセプトを採用したことです(**)。柳宗悦先生の民藝をそっくり借用し、援用し、換骨奪胎させて頂いているのです。このことがあって、そもそもの民藝の品々にあらためて触れてみたいと思ったしだいです。
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駒場東大前は目黒区らしい閑静な住宅街です。街路樹に目を凝らしてみれば、紅い実のまばらなディスプレイがなかなかに渋い。ナンテンピラカンサなどのように密生した紅い実の派手さではないことがむしろ好ましく感じられます。
帰るさ、見上げ、この紅い実をたどりながら、この類いの樹木の種類は有り過ぎて、具体的な名称へ行きつく気持ちを萎えさせるとともに、民藝館への失望感が空虚に広がるばかりでした。

解説の価値

各工藝品に対して、見る人それぞれが自分なりに感じれば良い、だから解説はつけませんからね ─ 私はこのことが気になっていました。

私は「解説の価値」を重視し、信奉しています。その意義をクローズアップしたいとさえ、普段から考えています。

すでに私のブログで、小説の解説やプロ野球の解説についてのおもしろさに触れています。野球については、試合そのものより解説の方がおもしろいといった趣旨の意見をもっているぐらいです。そんな私からすれば、民藝館の展示品の一つ一つにキャプションがないことは、寂しいことこの上ありません。
民藝品に触れる感動が、悉く空振りに終わってしまうのです。庶民の手仕事の良さや味わいが、いっこうに伝わってこないのです。謙遜ではなく、感覚の鈍い私のことですから、素朴な花器の肌合いや、藁で編んだ雪沓の味を知るには何年かかることやら…

振り返って印象にあるのは、民藝館の販売コーナーにあった、高価過ぎて手が出ませんでしたが中見真理教授の著作「柳宗悦」には惹き付けるものがありました。因みに、今この新書版を図書館から借りているところです。また、日本民藝館の建物自体、これが一つの工芸品に思えています。静寂な住宅街にひっそりと、渋い美学と思想をインクルードして佇んでいる様は、これこそ、作品といえましょう。そろそろ、改修で休業に入るようですが…
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純文学の世界では「説明的」な表現を下手なこととして見ています。説明的にならず描写を通じて表現を達成する技術が求められています。しかし、世の中には取り扱い説明書はじめ、説明そのもののニーズはふんだんにあります。説明書きには、それなりの必要があることでしょう。その上で、私は説明ではなく、解説にこだわりたいのです。

では解説とは何か。一般論的に言えば、論ずる対象の見えない部分に光を当て、そこに論を構築し、対象を評価したり批評したりすることだと考えています。そこで構成された論は、見る者が思い及ばなかった視点を提供したり、一見して知りようもない事柄を摘出したりして、そのことによって対象の価値を描出、論述、表現することです。
ここに評論家や解説者の需要が生ずるわけです。

つまり対象の価値を確定させること、と言えます。
その内容が批評や批判が強ければ低価値や無価値を確定させ、評価できるものであれば価値創造につなげることも出てきます。たとえば、一つの作品が世に埋もれているような場合でも、評論家の眼識でそれを評価したりすれば、一気に世に出るようなことは、よくあることです。文芸作品であれ、美術品であれ。
芸術に関わらず、報道やニュースでも、解説者が世人の知らぬ裏情報を持ち出して一次情報を喝破して相対化したり、プロ野球などでは、アナウンサーが思わぬ選手起用に戸惑っていると、聡明な解説者がその戦術的意味あいを教示するという具合にです。

解説はクリエイティビティ

というわけで、評論家や解説者は言いたいことを言っているだけのようですが、論ずる際に論者としての眼識、見識がなければ、それこそ悪口の言いたい放題となりましょう。すぐれた解説や評論であれば
読者を感動や開眼させることも可能です。その場合は、その解説自体が一つの歴とした価値を形成することになります。解説、評論活動は、クリエイティブな営為なのです。そこに美学や思想が華開くと言っていいでしょう。「解説に美学が宿る」と私は考えています。

そういう意味で民藝館の展示品の一つ一つに解説がほしかった、という思いが拭えません。一品一品にPOPのような形態で解説が付くことが、作品と同時に味わえる点でベストかと思われます。さもなくば
当日の展示品について、リーフレットを発行する方法もあるかと思います。設備的には、音声ガイダンスもあって然るべきではないでしょうか。

実はこのことは、鈍感な私等のような来館者にわかりやすく解説を与える、という機能以上に、そもそもその必要性があることであり、その意義は小さくはないと思っています。
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柳翁の民藝に対する考え方すなわち、その美学、思想は極めて明確である、と感じられます。こんにち
その著作「手仕事の日本」や「民藝とは何か」に触れても、その価値はいやますばかりと思います。というのも拾いあげられたり、見出だされたりした作品は、実用に付したものばかりであり、一部を除いて、それは時代とともに早晩消え行く運命にあります。この点では日本民藝館は時代とともに博物館化していると言えましょう。

解説で知る手仕事ぶり

柳先生の思想を注視してみれば、美術品に対する民藝品の構図の中で、美術品について反措定的に民藝品の概念を展開されている部分に加えて、作品個別についての逐一の解説が輝きを放っているように思われます。「手仕事の日本」は、日本全国に点在している正に一品ごとの解説であり、それだけでコレクション実物と同等の価値がある、と私には感じられます。

「民藝とは何か」で著者柳宗悦氏は、工藝品がどれだけ美術的であるかをめざしていることに対して、民藝品は「どれだけ用途のために作られているか」(P65)によってその美が決まると述べています。また、「用美相即」(ようびそうそく/P67)の語を引き合いに出し、「用から美が出ずば、真の美ではない」や、「もし美が用に交らずば真の用にはならない」と続けています。

繰り返しになりますが、すでに私は ─「手づくりの日本」は、全国の、正に一品ごとの解説であり、それだけでコレクション実物と同等の価値がある、と私には感じられます ─と書きました。要はこの点に集約されているのですが、私は、解説に費やされるすぐれた文章は、対象を解説する媒体であることを超えて、対象例えば民藝品であれ、小説であれ、その対象の価値同等の価値がある、と考えるものです。文章は独自に、解説は解説として屹立した存在とさえ思っています。

「用」に用のある話

特に柳先生はすでに引用のように「用の美」を語っておられます。「民藝とは何か」166ページに写真での作品紹介があり、この焼き物は、捏鉢(こねばち)だそうです。先生は、見る者の直感でその美しさを堪能すればよい、と言われます。しかし、これが捏鉢か、供え物の鉢かは、見た目には計りかねます。どちらでも用は為す、ということではなく、そもそもどのような用に供するものか、が肝心といわなければなりません。それでなければ「用の美」は成り立たないのではないでしょうか。
ただこの捏鉢は深さ5寸となっていて、比較的想像しやすいとは言えますが、その用途が語られなければわからないものは、かなりになることでしょう。この意味で、民藝品個々についての解説は、極めて重要な意義をもつものであると言えましょう。私が冒頭より縷々申し上げている核心はこのあたりにあると申し上げます。

さらに言えば、「用の美」を言いながら、それを解説せず各自の直感で感じれば良いというのは、矛盾を抱えていると言わざるを得ません。「用」は見えないものであるからです。まして生活が時代とともに変わり、用具の変遷が伴っているわけで、その道具としての機能は語られなければ知られないことではないか、そのように思われます。
ここに至って、民藝品に対する解説の必要性は高まるばかりではないでしょうか。
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民藝品についての語られるべき内容は、名称、用途、制作技術的特徴、地域性、生活、そして私がいちばん読みたいのは、それを書く方の主観です。
ここに、柳宗悦著「手仕事の日本」のP111から越中富山の売薬行李についての記述を拾ってみましょう。

「実はその『柳行李』は富山でできるのではなく、遠い但馬の国の豊岡で作られて、ここに運ばれます。それを仕上げるのが富山で、町はずれに行くとそれを作っている店々を見られるでしょう。黒塗りの革で四隅をとり、さらに中央に帯をあてがいます。そこに金箔押しで屋号を入れます。行李の形は特別なもので、背負うのにちょうどよい大きさに作られます。行李の中には珍しくも入れ子が四つ重ねてあります。それゆえ全体としてやや高めになり、形がよく仕事も丈夫を旨としますから入念になされます。入れ子にはさらに仕切りををして薬の類を分けますから、これが重宝な行李であるのは言うを俟ちません。長い経験がここまで仕事を煮つめたのであります。われわれが不断用いてさえ大変に便利なのを覚えます。見ても美しいこういうものを、必ず行商の持物にするということに心を惹かれます。長い旅のことですから、間に合わせものではこまるでありましょう。これを人生の旅に置き換えて考えると、なお値打ちがわかるように思います。」

すばらしい解説と感じられます。柳行李は他の地で作られて持ち込まれてくるという意外なエピソードをはじめ、作り方や形態の説明、そこにある熟練の技術、かつヘビーデューティーな、今風に言えば、バックパックになるでしょう。この機能美の叙述・解説に私は愉しさを覚えます。

昨年、霜月の中浣に私が民藝館を訪れた際の企画展は「アイヌの美しき手仕事」でした。これはおよそ35年ぶりに訪館する私にとってはあいにくのものとなりました。私は、特にアイヌの生活に触れたいわけではなかったからです。織り込まれた生地のテクスチュアや、藁で作られた簑のようなもの、そういった民藝の品々が上滑りして私を通り過ぎました。アイヌ展を望んでいないなどとは見学者の不遜であり、どのような地方の民藝であれ、それぞれの「用の美」を愉しむべきことではあります。
そこで敢えて言わせていただければ、それぞれの品々についての「用」についての解説があれば、というのが見学者の我儘です。この意味ではアイヌの暮らしぶりを知る方にとっては、極めて興味深い企画展になり得たことでしょう。
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中見真理教授は著書「柳宗悦─『複合の美』の思想」の中で、このように指摘しています。

「現在でも日本民藝館の展示には、ほとんど説明が付けられていない。それは先見を排してモノを見ることを重んじた柳の展示方法を引き継いだものであり、モノをじかに見ることができるよう訓練する道場として、民藝館がとらえられていた結果である。」

もし、この考え方で展示品についての解説を付けないということは、柳先生は自己撞着に陥っているかもしれません。すでに私が申し上げた「用」は不可視であり、生活自体が変わり読み取れないばかりではなく、まず柳先生が美しいと感じたところを示して頂かなければ、自分の評価がそれと一致するかどうかもわかりません。柳宗悦の美意識を権威としてその枠にはまるつもりは微塵もありません。むしろ、「先入観や偏見なく」モノをじかにごらんあれとは、庶民にはこの美がわかるかな、といった不遜がありはしないでしょうか。まず、私はこんな見方をしているよ、を示して頂くべきではないでしょうか。

日本民藝館はこれから改修工事に入る旨の案内がありました。新たな開館の時には、ぜひ民藝品の逐一について、解説がどういう形かで表現が実現されることを期待しています。
このことは、すでに誰か識者が指摘しているかもしれません。しかし、民藝は「民」のものであり、
一訪館者としての素人(民)がこの声を上げずにいられましょうか。
とはいえ、なかなか難しいことには違いありません。しかし、このこのことは、公益社団法人として民藝館を運営される以上、今後の民藝館の役割を担う上で、不可欠の事業という性格を帯びていると考えられます。もっと言えば、民藝品の解説の必要は
日本民藝館の価値に関わっているとさえ言えます。
つまり、民藝館の存立価値に繋がっている、とは言い過ぎになるでしょうか。
1936(昭和11)年開館からこれまで、一度もこの課題に直面しなかったとは想像しにくいことです。今このことは、議論されてしかるべきことと、問題提起いたします。

縷々申し上げましたが、私はひとえに展示品一つ一つの「用の美」を感じいりたいと言うに過ぎないことではあります。★

註釈
民藝館で表示されている原文を一言一句再現してはいない可能性がありますが、趣旨は捉えていると思います。

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ここで言っている「民芸」とは、民=素人が芸=論述する行為のことです。
素人の言論活動を柳先生の民藝を借用、援用し、別の意味を充填しコンセプトとさせて頂いているわけです。これについては、昨年6月の、ラインブログ「素人視点 本コラムについて②」で要点をまとめています。
私は、一人の民として一つの論(芸)を提案しています。昨年私が「民芸」を借用した時点では、まさか日本民藝館に対して私論を投稿するなどとは夢にも思っていませんでした。
また今回、中見真理教授の著作に出会って、柳翁の人間としての大きさと、自己の思想への追究姿勢を学ぶに及んで、ますます翁への魅了が深まるばかりです。
(追記)
中見真理教授には「柳宗悦  時代と思想」の著作もあります。

∴本稿はプリントし月内に、日本民藝館の深澤館長宛に投函予定しています。