コラム星に送る「日本レポート」

私がコラム星より地球に赴任して活動していることは、一部の方はお気づきでしょう。今回は、本星に送るためにまとめた「日本レポート」をそのまま掲載します。ただ、人間さんの日常感覚とは少し違っていて、歴史的なことと、現代的なこととを、あまり区別しません。そのほか、一般的な人間さんとは異なる感性があるかもしれませんが、そこはコラム星人の個性と受けとめていただくしかありません。
以下、レポート本文になります。

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私は、日本に着任したことを誇りに思っています。
隣国の韓国や中国、また、アメリカやイギリスでもなく、この日本に居ることを、幸運なことだと日々感じています。
このことを語るには、いかようにでも方法はありましょうが、今回は感覚的とも、精神的とも言えるであろう面から、いわばシンボリックなアプローチから綴ってみます。具体的には、日本の美についてです。(われわれと地球星人とでは、価値観の共通性が見られます。)
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1970年代のことだったかと記憶しますが、NHK新日本紀行という番組に接してそのテーマ曲が忘れられません。非常に深く、魂に響いてくる旋律なのです。いや、旋律だけなのではありませんが、敬虔であり、根源的であり、この曲のテーマは正に日本、というべきでしょう。
聞いていて、我を忘れるほどに引き込まれますし、なぜか目が潤んできます。

最近では、この曲を用いて多数の動画もアップされていますが、山や川、桜や稲穂、神社や絵馬、御輿や祭りなど、日本を象徴するシーンの連続で、曲調と完全にマッチしています。
作曲は富田勲氏、日本にはすばらしい作曲家がいるのです。ワーグナーモーツァルトらと何の遜色もありません。この曲想の精神性において、地球上のクラシック音楽と比肩し得るレベルです。

たしか「郷愁」のタイトルを付けた動画があったかもしれませんが、しかし、る私のタイトルは「祈り」です。何か見えない大きなものに向かって、それは大義ではないし、思想でもないのですが、自分がそれに包まれてしまうかのように、その安心感にひたりつつ満ち足りている、その上で確実に一歩ずつ踏み出していくエネルギーを与えてくれます。一種の宗教的な包容感とでもいうような、なんとも言い難い世界に導いてくれます。
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私が奇しくも「祈り」と規定したくなるこの世界に横溢しているものは、純粋信仰とでも言うべきものでしょうか。キリスト教とか、日蓮宗とか、何かの宗派に帰属して信仰するといったことではなく、何に帰属しているわけではないが、明らかに「信仰」とでもいうべき精神の有り様に満たされる。
かのキルケゴールが「絶望の反対は信仰でもある」※と語っていますが、これを援用すれば、極めて前向きというか、向上的というか、ポジティブな情念を伴っていると感じる私の感覚を裏づけてくれると思うのは、一人よがりに過ぎるでしょうか。

さて、富田勲氏の構築は音楽によるものですが、同じような創造を別の領域に移してみれば、ためらわずに伊藤静雄を引用します。

わがひとに與ふる哀歌
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘わるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒に変わらず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
ああ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでいる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない  人気ない山に登り
切に願われた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
(「伊藤靜雄詩集」新潮文庫。旧字変換不可は現代表記に改めた)

あらためて読み返してみると、デカダンな色調に転調しかねない危うさがつきまといますが、それを別にすれば、私がこの詩の世界から受ける感覚は、富田勲氏の音楽からもたらされるものと極めて近いと思っています。噴出する思いは「敬虔」であり、そこには「祈り」があり、そのまま「信仰」につながっている、そのように思うわけです。
一時期のめり込んで全文そらで言えるまでになりましたが、あれは何年前のことだったでしょうか。
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このような詩の世界は、他の高名な詩人も誰か書いていそうですが、実はないのではないか、という感じがします。そのような作品がありそうと思える詩人は・・・
立原道造宮沢賢治谷川俊太郎、いやいや、では日本人にこだわらなければ・・・
ランボオボードレール・・・違うなあ、では、ここでヘルダーリンを引いてみましょう。

ディオティー
世と遠ざかり  死に果てし如き
わが心情(こころ)も  美しき世界に挨拶(うなづ)
心情の小枝(さえだ)は花咲き匂い  芽ぐみいでつ─
新たに生の力の溢れ出ずるままに  
おお  われは今もなお生にぞ向い行く
光満つる大気のなかへ
わが花の愛でたき努力(ちから)
枯れにし莢(さや)より破(あ)れ出ずるごと
満目の光景  などてかくも新たなる!
わが忌み嫌いしものなべて
親しみこもれる和音(かおん)を奏でつつ
今やわが生の小曲(こうた)に和するを聴け
かくて一刻また一刻  奇しくもわれは
幼き時代(とき)の金色の日日を
思いぞ出ずれ
われこの一つのものを見出(みいで)しよりは
(以下省略。本詩は9頁に亘っている。 小牧健夫 吹田順助訳「ヘルダーリン詩集」角川文庫)

どうでしょうか。
伊藤静雄とはまたかなり違い、溌溂とした高揚感が漲っていますが、新日本紀行のテーマの世界に通ずるものがあると感じられます。
ヘルダーリンの思いは古代ギリシャへと向かったと言われます。彼の遡及する思いというか、奔流する魂は、どこがどうとは言えないのですが、祈りや信仰に満ちていると思わせるものがあります。

そもそも私が新日本紀行に引きずられて「わがひとに與うる哀歌」にステップするのは、そこに共通の色あいを何か感じるからに他なりません。では、共通の色あいとは、それは何でしょうか。

まず、新日本紀行には精神性があると感じられました。この音楽の、楽器の構成がもたらす効果もあるものの、主に旋律によって浸潤してくる、聴く者の魂に間髪置かず飛び込んでくる情感が鮮烈であるだけではなく、そこに自らの生をあまねく照らしだしてしまうパースペクティブが出現します。

これは、ポップな音楽がもたらす愉しさなどと比べてみれば、その違いは歴然とするように思います。ポップな音楽を比較しようとしているのではなく、
何かを掴みかねて、比較で表わせないかと足掻いているのです。

別世界に引きずりこんでしまう力とともに、その世界は紛れもなく我々の「生」に、朝のような光を一面に広げ、生きることの意味を啓示してくれます。
これは、すでに精神への刺激であり、音楽という芸術であり、そのまま文学にもつながっている、と感じられます。
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同時に、新日本紀行のテーマの音楽性は、伊藤静雄の詩の音楽性と共鳴している、とも感じられます。
そうです、音楽がある表現を達成する時、それは文学とハーモニーを為し、痛切なる韻文は音楽となって立ち現れるものなのかもしれません。

音楽から詩にステップしたその勢いで、さらに別の詩に飛んでみましょう。

大空は梅の匂ひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月

定家のこの和歌に、私はまず「春の夜の月」の視覚よりも「梅」や「匂ひ」や「かすみ」や「くもりもはてぬ」やらを通じて隠然たる嗅覚と濃密な夜陰に、得も言われぬものを感じます。官能的な春の夜のワンシーンです。このセンシティブな五感によって現出される世界の質にそれを感じるのです。
匂ひにかすみ」により嗅覚と視覚を混然とさせ、雲間に月を瞥見させたり隠したり、あるいは、雲裏の月の想像を扇情し、悩ましい歌に仕立てていると感じられます。

キルケゴールが「絶望は精神の規定のもとにおいてある」※と語るその顰みに倣って言えば、定家のこの三十一文字は、全身五感となって精神を規定している、と見ることができます。

一方、このような世界もあります。

月もなきあま夜の空の明けがたに螢のかげぞ簷(のき)にほのめく
(永福門院「玉葉和歌集」)

微細でありながらなんとクリアーな映像でしょうか。ワンカットでありながら、なんと豊かな視覚世界でしょうか。

蛍という題材に触れて想起されてくるものに、宮本輝氏の小説 「蛍川」があります。こちらは、蛍の数では何千、何万ということになるでしょうが、劇画的というか、漫画的というかはともかく、ゲリラ的に大量の蛍を担ぎ出した割には何も訴えてこないのは、蛍が単なる虫の大群であるからでしょうか。
ぎたるは三十一文字の宇宙に及ばざるが如し、とでも言いましょうか。

永福門院の蛍は、一匹かせいぜい二匹というところでしょうが、一瞬を活写する表現者の精神は、ストイックなきびしさを感じさせます。「あま夜」が唯一幽かに嗅覚を刺激しますが、非常に淡い墨絵のような恬淡さは、川端康成が「末期の眼」で語る「線香の燃える様に家の焼ける音を聴き、灰の落ちる音に落雷を聴く」ような鋭さを感じさせます。「あま夜」と「蛍」に嗅覚と視覚のミクロの感性が交錯しています。

もう一つこれも定家によるものですが、

露ふかき萩の下葉に月冴えて牡鹿鳴くなり
秋のやま里
藤原定家 ※※)

この歌については、強烈に聴覚への印象で想起されてくる筆頭として採り上げるつもりでいたのですが、今またこうして繙いてみると、聴覚の次に忽然と現れる広大で静謐な山里が圧巻と感じられます。定家の天才ぶりには驚かされるばかりです。この一気に描出されるシーンはそのまま、新日本紀行のテーマに一ミリと違うことなく重なります。
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ところで、古典の豊かさばかりではなく、日本の現代詩における「美」を見出だすことも難しくはありません。

「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日
俵万智 「サラダ記念日」河出書房新社

この短歌にはとても好ましい感受性が出ているように思われます。女性の慎ましい喜びようが素直に表現され、これは日本的な振舞いだと感じられます。

ここでこれを何故日本的かを確かめてみましょう。
パロディーの形で他国の女性が創作した場合を想定して作ってみました。

「このがいいね」と君に言わせたよ7月6日はわたし記念日
(スンガー)

悪いことは人のせいにし、良いことは自分のせいにすると言われる、某国の女性が詠めばこうなるに違いありません。

「このがいいね」と君が言ったからわたしのお手製サラダ記念日
(スンガー)

ある国では平気で嘘をつくことはよく知られています。女性も同じらしい。買ってきたサラダでも自分の手づくりにすることは、わけもないことなのでしょう。

さて、さて、最後に本レポートのすべてをぶち壊し
かねない危険を承知で、伊藤静雄に入れ込んだあげくに、私のこの日本への染まりようを恥ずかしげもなく、恥をかきます。二十歳頃の作になります。

  祈 り
消えゆく闇  訪れる暁闇(ぎょうあん)
誰も見ぬ朝に
雪は静かに積もりゆく
降りかかる雪のなか
おごそかにわたしは歩いて行った
この踏みしめる雪の音に
君は記憶はないか
一足ごとに込み上げる
熱い情念の飛翔に憶えはないか
抗しがたくも充溢する
この感動を抑えつつ
いままた私は祈る
遠い昔  かたく約束した
神への願いを忘れてはならぬ
悲傷なる願いの果報を信じて
(スンガー)
                                   *

日本の美について音楽と文学世界から拾い上げてみました。やはり、シンボリックな抽出になったかと振り返っています。
コラム星への「日本レポート」という体裁につき文中触れていませんが、明白に裏テーマを充填しておきました。その一つは「五感と精神」であり、もう一つは「My Favorite Things」に他なりません。★

(註)
※「死に至る病」キェルゴール著 斉藤信治訳 岩波文庫より
※※本歌を「新古今和歌集」の中に見つけきれていない。直接の典拠は堀田善衛「定家明月記私抄」より