萌え町紀行-5赤レンガ倉庫

ショッピングセンター(以下SC)を「萌え町紀行」として語るには、少し整理が必要と感じています。
シンプルに考えてSCを語るとは商業施設をテーマとして論ずることに他ならず、直接的には町の話ではないわけで、そこ、どうよ、という疑問です。しかし、それに答えるには、結局本論に入らざるを得ないと思いますが、事前にひとつだけ言うとすれば、私は町とSCを分けて捉えてはいません。SCは町の文脈に位置づけられるべきものであり、そこを読み解くことが醍醐味でもあり、特に赤レンガ倉庫については、横浜を語ることに直結しているそこを拾い上げることで、その答えになればと考えています。いわゆる、売上げやら来館客数やらテナント構成等々の業界的な商業施設論を展開するつもりは毛頭ないということになります。

両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論

2002(平成14)年開業ですから来年は20周年を迎えることになります。以前SCの集客論の中で同SCに触れていますが※①、この館の惹き付けて止まないものは何だろうかと思い、また考え続けてきました。
新しいSCがオープンすると、期待を胸に訪れたりもしています。もちろん、細大漏らさず見果せているわけではありません。南町田グランベリーパークについてはもう一度訪れさせるものはなく、丹沢方面の夕陽と鶴間公園が印象的でした。渋谷スクランブルスクエアについては渋谷キューズが核心と見ましたが、落胆を禁じ得ませんでした※②。規模の大きさが本質であるはずもなく、湘南T-SITEはいい感じではあるのですが、何かが欠落しているように思えます。若葉ケヤキモールなどは業界の玄人筋が好むという説もあり、そういう点で湘南T-SITEは評価が高いのでしょうか。新たな町をまるごと造ってしまったかのような六本木ヒルズについては、毛利庭園や妙経寺の配置、ジョン・ジャーディ氏によるもともとの傾斜地形を活かす思考に、歴史へのオマージュを感じさせます。キャナルシティ博多については、ジャーディ氏により有名なったオーバーハングの壁構造などより、同SCから隣接地へ入った途端、私は櫛田神社に立っていることに気づき、このキャナルと同神社とのコントラストにこそ、博多のそして福岡の豊かさを知る思いがしました。
横浜赤レンガ倉庫」に対する私が得たひとつの結論は、「両義性の館」というものです。この赤レンガ倉庫を超えるSCが出てこない中、私は否応なしにこの館にのめり込んでみたいと考えています。しかし、それにしてもどこから、どう解き明かせばいいのでしょうか。建築のプロでもなく、まちづくりの専門家でもない輩に何ができると言うのでしょうか。それでも駆り立てて止まないものがある、赤レンガ倉庫とは私にとってそういう存在です。ランドマークタワーの高さはないけれども、それは、圧倒的な存在感で立ちはだかっています。

四つの着眼点で構想しています。
1温存と再生
─誰が赤レンガ倉庫を創ったのか
2歴史と現代
─なぜ倉庫を造ったのか
3美と思想
─なぜ赤レンガは惹き付けるのか
4欧米と日本
─赤レンガ倉庫はどう評価されるのか

1温存と再生
─誰が赤レンガ倉庫を創ったのか

「赤レンガ倉庫」と言う場合、当初造られた倉庫という側面と、2002年に開業した商業施設という側面があり、このことが両義性の一つを形成しているわけですが、ここを明確にして語らなければ、と思っています。まず、この章では、SC「赤レンガ倉庫」を創ったのは誰か、という設問から始めます。

以前倉庫だった物件を商業施設としてリユースした企画であることは、特に情報や知識がなくても、誰にでもわかることだと思います。私自身もそう思い続けてきましたし、そこにおもしろみがある、とも感じてきました。同時に誰がこの商業施設としての建築物に関与したのか、ずっと気になっていました。倉庫として造られた状態を大半使えたとしても、誰か最低でも一人「監修者」として、商業施設としての設計に関わった人がいるはずだと信じていました。

関与した建築家とは

このいわく言い難い美を備えた館に対して、私をさらに一歩引きずり込んだのは、「この館は現代の建築基準法等のコンプライアンスをクリアする技術的裏打ちが施されている」という事実を知った際のインパクトによるものだと振り返っています。言われてみれば当たり前のことではありますが、気がつかなければ気がつかないで過ぎてしまう部分でもあります。この時から「横浜赤レンガ倉庫」は、私を深く魅了しているのです。目に見えないところでの技術的工夫とは、すなわち隠し味です。詳しいことはわからない建築の素人の私でも、屈強で堅牢に造られた倉庫の技術と、そうして造られた姿を活かしたまま、現代の技術を施すという、何というクリエイティブなのだろうか、と感動を禁じ得ません。

このようなこともあり、これを創ったのは誰だろう?という問いが生まれたわけでした。例えば根津美術館には隈研吾氏が関わり、表参道ヒルズには安藤忠雄氏が設計者として従事したようですが、そのような意味合いでの誰かを、赤レンガ倉庫について思い浮かべていたわけです。その意味では建築家新居千秋氏だとわかっています。しかし、この案件については設計者一人の力に帰せられないところがあります。ここに横浜赤レンガ倉庫再生プロジェクトのドラマがある、と私は思っています。
因みに、NHKプロジェクトX~挑戦者たち~」で赤レンガ倉庫を扱ってなかったかを調べてみると、横浜ベイブリッジをとりあげた回はあったようですが、全190本(2000年~2005年放送)の中にそれは見当たりませんでした。プロジェクトXの格好のネタと感じられるものが、実は赤レンガ倉庫にはあるのです。

とはいえ、このコラムはプロジェクトXではありませんので、逐一すべての個人名を挙げることはしませんが、どういう人々が関わったかを寸描してみることは、意義のあることだと思っています。本章では主に「横浜赤レンガ倉庫」を商業施設と決めるそれ以前までを瞥見することになります。

私は当初、赤レンガ倉庫は極めて堅牢に
造られた建築物であったので、建築基準法などの点から手を入れただけで再生、リユースした可能性もあるかと想像しましたが、それは大いに違っていました。何しろ
倉庫としての役目を終えた後は取り壊される可能性もあったらしいのです。通常SCを新規に開設する場合とは異なって、そもそも出自が違っているわけです。

価値を知る推進者たち

しかも、最初からSC=商業施設にすると決まっていたわけではなかったのです。私は解体されるかもしれなかった館を、なんらかの価値を認め保存の必要を唱えた人々に
まず注目します。いわば思想的推進者とでも言いましょうか。これについては、田村明と村松貞次郎の両氏を紹介します。
昭和40年代横浜の飛鳥田市長は六大事業の一環として都心部強化事業、いわゆる「みなとみらい21」事業に着手するわけですが、この時市長の参謀として田村氏がいたというわけです。氏は「横浜市で行った数多い仕事の中で、もっとも困難であったものの一つ」と、赤レンガ倉庫の保全の難しさを語っています横浜赤レンガ倉庫物語」 p11)。何しろ市長でさえ、「本気で残す気かい?」という状況だったようです。田村氏は横浜のまちづくりにおける赤レンガ倉庫の活用価値をしっかり見据えていました。また、もうひとかたの松貞次郎氏は、近代建築の保全活用の専門家です。博物館明治村の村長でもあり、横浜市の知的アドバイザーといった感じでしょうか。新港埠頭の倉庫としての役目を終えた赤レンガ倉庫を、横浜のために「残す」ことにとって、まずこの二人がキーマンだったのだろうと見ています。

また実際に「残す」ことを実現させるには
いくつかの行政的な手続きが必要だったようです。そもそも赤レンガ倉庫は国の管理下の物件だったそうで、横浜市の意志で「手をかける」には、市の資産にすることが急務でした。この課題については市の港湾局小池博氏が骨を折ったようで1987(昭和62)年頃から始まったとされています。
この件はみなとみらい21事業の中で動いていくことになります。今現在も2号館は、港湾局の所有となっています。しかし、簡単に実現したのではなく、時間がかかりさまざまな人々が介入しなければならず、資金的な問題もありました。

赤レンガ倉庫にひそむ力

「残す」考えの最終的な局面では、国に対して活用コンセプトの提出も必要でした。これについては港湾局内藤恒平氏がその構想作りに邁進したとのことです。その際、赤レンガ倉庫の魅力を活かすために、氏は
近代建築や、煉瓦積みの方法などの勉強を重ねたそうです。このエピソードで私が興味深く推測しているのは、内藤氏は造園屋であって建築屋ではなかったからこそ、虚心坦懐に赤レンガ倉庫に向き合えたのだろうという点と、仕事として関わる過程で氏を引きずり込んでしまう力は、赤レンガ倉庫自身から波及していたのではないか、ということです。

商業施設という活用プランはまだまだ先のことであり、「残す」方向づけが固まってくると、次は保存のための改修工事に向き合うことになります。これはすなわち商業施設としてではなく、まず建築物としての保存工事です。明治時代に倉庫としていくら頑強に造られていたとはいえ、今後のみなとみらいの一翼を担っていく存在でもあり、保存し保全を図る工事が必要というわけです。このへんは、全く預かり知らないことであって、今回のスタディを通じて明らかになった事柄です。
ここで一つ言えると思うのは、関わった人々は皆、赤レンガ倉庫の建築物としての
価値を見いだしていて、今後も横浜のまちづくりや経済活性化にも寄与させることを共通項として持っていたのではないか、ということです。特にこだわりたいポイントは、赤レンガ倉庫という存在自体の人を動かすパワー、影響力です。

市は、活用検討段階から市民を巻き込んでもいて、横浜青年会議所も関わり始めていて、具体的な活用案を出してもらってもいます。行政サイドのスタンスとして望ましいことだと言えますが、青年会議所自身の赤レンガ倉庫に対する熱意もかなりなものであったようです。双方の話し合いの場がもたれたり、青年会議所を中心として市民の組織「赤レンガ倶楽部・横濱」ができたというほどです。そういう一面もあったそうです。
手厚い作業が深みを造る 

当面課題の「保存工事」とは、極めて地味な作業という気がします。作業上目立たないこと以上に、新規に建築する場合のプラン、設計、工事、完成という工程と比べると、影の薄さを抱えているように思えます。当初、私は「保存工事」というステップがあったことなど想像もできませんでした。しかも7年も要したということです。
また、この工程には「復元」作業もあります。単なる保存作業ですまないところに、この歴史的建築再現の難しさが生じています。結局、明治時代に造られた建造物は経年劣化で傷んでいるわけですから、復元した上で保存することになります。煉瓦だけに絞って言えば「煉瓦の外装修理というのは、劣化した煉瓦をくり抜いて、一枚一枚入れていくため、非常に根気のいる仕事になった」(上記掲示同p37)ということです。復元しただけではなく、今後何百年かも耐えられる技術も駆使されるという、何というクリエイティブでしょうか。つまり、これは単に新しいものを作る以上の手間暇が生じているということです。ここに至って私は初めて気がつくのですが、赤レンガ倉庫の深みは、こういうことからきているのかもしれません。

当初私が認識した現代の建築基準のクリアという部分は、主に安全性や防災や衛生面がその内容になると思われます。ここには復元や保存の概念認識はないわけで、つまり赤レンガ倉庫とは、国宝とでもいうべき歴史建築の扱いをもって再生されたのであって、一定の「価値の温存」という作業が伴っていた、と考えられます。温存成って再生があり、その再生とは商業施設という新しい機能の形成ということです。

1号館と2号館とは、歴史的に運営管理主体上の違いはあるのですが、本論では両館あわせて広い意味でのSCとして述べるに留めます。
2002年のオープンを迎えるには、倉庫として着工した明治時代から数えておよそ100年、赤レンガ倉庫を中心とした赤レンガパーク計画から数えて20年という歳月が流れています。具体的には、みなとみらい21事業のスキームで進められました。開業を一つの到達点として見る時、(株)横浜赤レンガ社長の村澤彰氏や営業部長の杉一郎氏など、これら最終局面で関わった人々も、赤レンガ倉庫の価値や横浜の歴史を学ぶことから始めている、と伝えられています。私は、終始誰もが赤レンガ倉庫へのリスペクトをもって接していて、そこに赤レンガ倉庫自体の大きな力をあらためて感じています。つまり、SC赤レンガ倉庫創造の歴史とは、赤レンガ倉庫の魅力に取り憑かれた人びとの歴史、といえるような気がしています。★

(続く)

参考文献・資料
「横浜・歴史の街かど」─横浜開港資料館
「都市の記憶 横浜の土木遺産」「都市の記憶 横浜の近代建築」─横浜市歴史的資産調査会発行 横浜市都市計画局都市デザイン室編集
「横浜・港・近代建築」─横浜市教育委員会
「ことりっぷ」─(株)横浜赤レンガ発行
パネル展示資料─横浜赤レンガ倉庫1号館1階
※①「日本の集客力とSC  グローカルセンターとしてのSC像」菅原和男─「SC JAPAN TODAY」2004年12月号 日本ショッピングセンター協会 
※②「渋谷キューズの難点」はてなブログ 2020.3.31
sunger
渋谷キューズの難点 - sunger2のブログ
「難点」という用語にはどうも引っ掛かります。貧弱な感じが拭えません。それでもタイトルに使うのは、故なきことではありません。 ここ数週間来ずっと渋谷キューズについて、どう理解したらいいのだろう、と取り組んできました。パンフレットを読み、ウエブサイトを調べるだけでなく、キューズのエンテランスまで行き、3回ヒヤリングを行ないました。その内一度は、コミュニケーターに施設を案内してもらい、説明を聴きました。 また、3回目の時は、キューズの会員審査にも関わるという星〇氏の説明に触れ、キューズをテーマに語り合うことになりました。この機会を経て、会員になった暁には、きっと得られるであろう充実感を疑似体験できた…
sunger2-ozukara.hatenablog.com