萌え町紀行-5赤レンガ倉庫その②

両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論
1温存と再生
─誰が赤レンガ倉庫を創ったのか
2歴史と現代
─なぜ倉庫を造ったのか
3美と思想
─なぜ赤レンガは惹き付けるのか
4欧米と日本
─赤レンガ倉庫はどう評価されるのか

2歴史と現代
─なぜ倉庫を造ったのか

横浜赤レンガ倉庫の歴史を考えてみると、
大きく四つに区分されるのではないかと
思います。

・倉庫の歴史
1907(明治40)年、2号倉庫着工から敗戦を経て1956(昭和31)年、米軍接収解除の頃まで
・保存~復元の歴史(市が価値温存に舵を切った時期)
1965(昭和40)年、横浜市6大事業発表の頃から
1999(平成11)年、保存・活用コンセプトを決める頃まで
・再活用の歴史(SCとして完成させるまでの時期)
2000(平成12)年、商業施設として内装工事に着手
2002(平成14)年、横浜赤レンガ倉庫としてリボーンするまで
・SC開業以来の歴史(オープン以後の時期)
2002(平成14)年、オープンから
2021(令和3)年、今日に至るまで

倉庫という物件も、人間や自然の影響に晒されないわけにはいかず、特に「苦難の歴史」もあるのですがそれは後段に触れます。まず倉庫という機能は何を意味しているのでしょうか。
北側の2号倉庫の竣工は1911(明治44)年南側の1号倉庫は1913(大正2)年となっていて、この時代は日露戦争の勝利気分の中にあったようです。

外貨を稼ごうという波

人間は何かうまくいった時、次へ向けて前向きに積極的になれるものではないでしょうか。日露戦で勝利した日本は、将来へ向けて物流体制として、港湾整備をしなければと考えていたようです。「富国強兵」や「殖産興業」政策の流れです。横浜の新港埠頭計画が推進されていきます。
要は、貿易を活発化させるために新港埠頭に造られたのが赤レンガ倉庫だったわけです。輸出と輸入によって日本を豊かにしようと目論見されていたのでしょう。物品の中継基地として保管機能が役立ちます。輸出に重点があったかもしれませんが、帰りの船がからっぽではないでしょう。物が入ってくると同時に情報も入ってくるわけですから、貿易振興によって外国文化も入ってきます。横浜にはそういう異文化の窓口イメージがあるのではないでしょうか。
また、保税倉庫として貿易の振興と発展に大いに意義があったようで、検品や輸入申告の機能を担っていました。 北側の隣には税関事務所もありました。
当時、貿易港として横浜と神戸はライバルとして競っていたようで、その点国内的にも、赤レンガ倉庫を含め新港埠頭工事は、横浜の期待を担っていたものと思われます。
桜木町駅前の大通り(東口)を渡るとすぐ赤レンガ倉庫へ向かって鉄道レールが路面に残されています。それに沿って汽車道としてプロムナードになっています。ちょっと凱旋門のようにも見える、「ナビオス横浜」を突き抜けていきます。
このプロムナードを歩いてきて、少し遠くから凱旋門の中に見える赤レンガ倉庫というのもなかなかです。接近とは逆にずっと退いて行って試してみましたが、コスモワールドを越えてランドマークタワー動く歩道からもこの構図で赤レンガ倉庫を小さく見ることができます。
鉄道レールは2号館前にも敷設されたものが残されています。国内から群馬の生糸などがこの鉄道を経て海外へ渡った帰りには、葉たばこ、羊毛、洋酒、食料品などが持ち込まれたようです。それらは異国情緒に溢れていたことでしょう。

ピカピカの近代的倉庫

そもそも赤レンガ倉庫は、倉庫機能とともに防火戸、スプリンクラー等、防火設備も当時としては最新だったようです。屋根上に突き出した避雷針も西欧臭さを放っています。荷物用のエレベーターもありました。これは今でも、塔屋とモーターを見ることができます。特筆すべきは、建築物としてのアンフィラード構造があります。廊下がない造りで、部屋と部屋を往還するために、連続して一気通貫になっているのです。くり貫かれた出入口を通して150メートル奥まで見渡せ、ちょっとおもしろい構図なっています。これは、今は写真で見るしかありませんが。
倉庫とはいえ、その機能により横浜の日本の近代化を一身に担っていたことと同時に、倉庫自体も画期的な近代の匂いをまとっていたと言えましょう。

先に四つの年代区分で赤レンガ倉庫を見たわけですが、倉庫として誕生した最初の区分の時代が70年近くにもなり、もっとも長くなっています。
この間、関東大震災で1号倉庫が半壊するというできごとがありました。現在2号館と比べ、1号館の長さが短くなっているのは、このせいだということです。
また、敗戦後米軍に接収されてしまい、
1956(昭和31)年の解除まで、そもそものわが国の趣旨に沿った倉庫機能は果たし得なかったと見られます。何しろ米軍が港湾指令部として牛耳ったようです。赤レンガ倉庫も時代の波にさらされたわけです。この時代を「苦難の歴史」と言わずして何と言いましょうか。

横浜大空襲があったとは!

さて、今回赤レンガ倉庫にじっくり向き合ってみようと思ってから、私は一つ気になることがありました。それは、赤レンガ倉庫は空襲を受けなかったのだろうと思いつつ、その真偽がわかりませんでした。東京大空襲はよく知られていますが、横浜はどうだったのだろうということです。私の無知を表すだけですが、「横浜大空襲」の検索は一発でヒットして驚きました。横浜も大空襲を受けていたのです。

ウィキペディアによれば、1945年5月米軍B29の焼夷弾攻撃で中心市街地が壊滅したとのことです。焼夷弾で木造住宅の燃え進み方などを実験する狙いがあったともされています。一般市民を巻き添えにしたということです。鬼畜の米軍らしいやり方ではありませんか。
この年の8月には、トルーマンが我が国に原爆を落とすわけですが、すでにここにその可能性は出ていたわけです。「実験」で日本人を大量虐殺するというその鬼畜の本性です。それは、アメリカ大陸でインディアンを皆殺しにした民族のDNAがどす黒く連綿と繋がっています。

横浜で焼夷弾の攻撃を受けなかったのは、
山手地区と山下公園付近だけだったようです。つまり赤レンガ倉庫は、空襲を受けなかったわけです。
ここに至って私は、赤レンガ倉庫の別の意味が大きく迫り上がってくるのを感じずにはいられません。赤レンガ倉庫が残ったという意味は、横浜大空襲の記念碑、シンボルになってしまったという側面です。8千人から1万人とも言われる一般市民の死者の霊を引き受けていることになります。横浜赤レンガ倉庫が戦争遺産などとは聞いたことがありませんが、歴史的事実としてこれは見逃せない一大事です。私は、今となっては、赤煉瓦の優美な色を、もはや優美さだけに浸って見ることはできません。あの赤には別の意味も明らかに存在していることになるのですから。赤レンガ倉庫とは
海を望む大東亜戦争の墓標になってしまった!

戦争遺産としての赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫に「戦争」と「平和」のテーマが隠されていたとは、こんな両義性は全く構想外のことです。頑強な大きな倉庫に、アンフィラードのかなたに、見えない歴史的荷物が厳然とし存在していたことになります。横浜市は今からすぐ、戦争遺産としての視点からも赤レンガ倉庫を語るべきでしょう。当時亡くなった多くの人々の慰霊は為されなければなりませんし、この悲惨な歴史は語り継がれなければなりません。それなくしてどうして焼き殺された方々が浮かばれましょうか。
「キング」「クィーン」「ジャック」(※注①)を率いて海に迫り出した「横浜赤レンガ倉庫」は歴史遺産であり、公共性を担ったモニュメントでもあり、みなとみらいの、横浜のシンボルとして、こうした使命を担っていると私は思います。

上から時計反対回りに。
キング=県庁本庁舎、クィーン=横浜税関、ジャック=横浜市開港記念会館
私はこの章ではないところで書こうとしていた事柄があります。それは、赤レンガ倉庫の外からレンガ壁の窓奥に見えるライトの優しい、温かい明かりのことです。赤レンガ倉庫を想うとき、赤煉瓦の優美さとともに、窓奥に映る明かりに得も言われぬ癒しのようなものを感じます。照明としてはダウンライト(※②)の効果だと思いますが、山小屋のカンテラやランタンを思わせるこの照明プランを高く評価しています。赤煉瓦との調和を計算したセンスに喝采を贈ります。そして今、温かいうるおいの明かりが、95年前に焼け死んだ横浜市民の慰霊として鎮魂として、穏やかにともし続けられるべきと思います。その意味でも、明かりの色合いはオレンジがかった電球色は厳しく統一されるべきだし、一部のテナントに許容している昼光色は、デベロッパーの堕落以外の何物でもありません。照明効果に、新たな意味合いを添えて、今ここで語るべきと思い直したしだいです。
横浜赤レンガ倉庫は、商業施設として経済的に成り立てばよい、という一般のSCと同じでいいわけがありません。横浜の歴史を否応なく背負ってしまっているのです。ここにもこの館の両義性が見られます。

やや逸れますが、このような町の歴史を自覚し、どういう形かでSCに取り込むセンスは今デベロッパーに求められていると考えます。商業施設はそんな公共性を担っているのです。横浜赤レンガ倉庫のような大きなテーマ、エピソードでなくとも、ネタは豊富に転がっています。何しろ皇紀2681年のこの国です。些細な事例を出してみましょう。ここにモール型ではないものの、そこそこのGMSゼネラルマーチャンダイズストア=総合スーパー)があるとしましょう。客用出入口についての、その呼称です。南側の出入口に「〇〇神社側口」と名付けられその呼称が使われていたものが、「〇〇神社」と言ったところでお客はわからないということで、その呼称をやめてしまうようなことがあります。しかし、その神社とは、北条氏ゆかりの神社だったりするわけです。「わからないからやめる」では、見識がなさすぎます。ここは、「〇〇神社側口」にこだわって、使い続けるべきです。これは、価値観の問題であり、国家観、歴史観の識見であり、思想でもありましょう。使うことでむしろ知ってもらうべきなのです。公共性のある施設は、日本中こうした役割を担っていると思います。以前「仲木戸」の駅名を廃止した京急電鉄を私は批判しました(※③)。

閑話休題。文字通り倉庫として機能してきた赤レンガ倉庫ですが、1965(昭和40)年頃になるとコンテナの登場によって赤レンガ倉庫の機能は急速に萎んでいったようです。コンテナ自体に倉庫機能があることや、接岸しやすさなどで、赤レンガ倉庫だけに頼る必要がない時代の波が押し寄せてきていたようです。
その一方では、横浜市の都市づくりのための6大事業の発表があり、これがみなとみらい21事業に繋がっていきます。これが
前回記事で触れた赤レンガ倉庫の保存・復元の時代になっています。

復元・活用というクリエイティブ

「1温存と再生」の章で、過去の建築物を単に保存するのではなく、復元の作業もあったことに触れ、そのことにより「価値温存」を図ったと指摘しました。このあたりについてもう少し掘り下げてみたいと思います。というのも、ここが一般的な商業施設にはない部分だからです。
野村和宣氏著の『生まれ変わる歴史的建造物』によれば「一方で、使い続けるためには、まったく手を加えないで残すことはできない。歴史的建造物に向き合う関係者は、生き抜いてきた建築をリスペクトし、価値とその所在を認識し、抱える課題を把握し、できるかぎり継承に向けた努力をすべきである。」(同著P15)と述べておられます。赤レンガ倉庫においても、このような努力が為されています。関わった建築家新居千秋氏の考え方に全く同様の符合が見られます。「妻木頼黄(よりなか)という明治の大建築家は、赤レンガ倉庫という空間に何を残したのだろう。妻木頼黄という人を理解し、妻木がこの建物に託した〝気〟を理解できなければ、この建物に手をつけることはできないと新居は考えた。」(『横浜赤レンガ倉庫物語』P114)とのことです。
明治の建築家妻木頼黄が赤レンガ倉庫に関わり、現代に至って新居千秋氏がその継承者として、魂のバトンタッチが行なわれたと言ってもいいのではないでしょうか。私は、ここに建築のクリエイティビティの一端があると感じます。赤レンガ倉庫の活用とは、壮大な建築のドラマでもあると言えましょう。

「町づくり」という文脈

建築物と言うとどうしても建築家が脚光を浴びますが、それが極めて重要なことは何も変わりません。ただ、横浜赤レンガ倉庫の場合で言うと、新規のSC開発と違って歴史的な建造物の再生が伴っていること以外に、俯瞰的プランの側面が存在しています。価値ある歴史的な建造物の再生、例えば、野村和宣氏が関わった三菱1号館や歌舞伎座の再生作業は「町づくり」視点はあるものの、どちらかと言えば建築物単品がテーマと言えるかと思います。横浜赤レンガ倉庫の場合は、横浜みなとみらい事業という都市計画の一環という、上位概念の大テーマがあることを忘れるわけにはいきません。このように考えると、横浜赤レンガ倉庫の事例は、商業施設開発と都市づくりが「がっぷり四つ」に組み込まれたケースとも言えます。

その点では、横浜市港湾局や都市計画局、株式会社横浜みなとみらい21や、株式会社横浜赤レンガの面々の関わりは、非常に大きなものであったことは疑いありません。復元における竹中工務店の力量などとともに、これらの組織の方々については、それこそプロジェクトX的なエピソードは山ほど出てきます。一つだけ触れておきます。それは、株式会社横浜赤レンガ社長の村澤氏がSC先進国であるアメリカのファニエルホール・マーケットプレイスを視察した際のことです。昔の建物を保全し、商業施設として利用しているので、赤レンガ倉庫と似たような事例として参照したようです。ここで村澤社長は、重要な示唆を得ることになります。それは、赤レンガという外観を活かすべきという判断を得たことです。当のマーケットプレイスは、多くの飾り物がせっかくのレンガ建築の外壁を殺していることを発見したのです。

妻木頼黄が残したもの

本章の「なぜ倉庫を造ったのか」という設問は倉庫機能の時代ニーズを引き出したと思いますが、設計者に視点を置き妻木頼黄は「なぜあのような倉庫を造ったのか」と敷衍すると、この倉庫の建築価値が照射されるのではないでしょうか。妻木のこだわり、それを歴史的な価値の充填にあったと言ってしまえば、そのことが後世の保存・復元意欲を招き、本人の意図にはないことながら結果として、次世代にわたって今後も永遠に横浜大空襲の霊を見守る役割を持ち得た、あるいは持ってしまった、そう私は考えています(注④)。★

(続く)

※注① これらが焼夷弾を浴びなかったのは、外国人居留地のエリアという面があったからかもしれませんが、木造建築の燃やし方実験意図の作戦があったからです。したがって、赤レンガ倉庫を始めとする歴史的建造物群は、アメリカの思想の痕跡でもあります。このことを憎悪をもって語ることは易しいのですが、われわれはこれらの建物を「素敵」と感じているでしょう。ここ、重要です。
※注② ダウンライトの一種と思われます。スポットライトかも…。
※注③ 仲木戸云々…。
※注④ 横浜赤レンガ倉庫では、1号館や、広場で様々なイベントが企画されますが、横浜大空襲に因んだものは行なわれていないようです。

参考文献・資料
・「生まれ変わる歴史的建造物」都市再生の中で価値ある建造物を継承する手法─野村和宣著 日刊工業新聞社
・「ことりっぷ」─(株)横浜赤レンガ発行
・パネル展示資料─横浜赤レンガ倉庫1号館1階