萌え町紀行-5赤レンガ倉庫その③

両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論
3美と思想
─なぜ赤レンガは惹きつけるのか

明治、大正に造られた赤レンガ倉庫が、保存、復元、再生というプロセスを経てこんにちまで至っているわけですが、そこには建築物としての価値や、横浜港発展の記憶など、なんらかの意義を見いだしているからでしょう。その中であえて赤レンガの美に着目してみれば、関わる人々の共通認識として、その美を語ることはそうズレてはいないのではないか、と思われます。
たとえば、宗教を布教する場合は、教えたり、説いたりすることなしには進まないと思いますが、赤レンガは宗教であったわけではなく、政治運動であったわけでもなく、ただただ人々はその美を共有していたのだと思います。ハナからです。「赤レンガは美しい」という美意識があったからこそ、受け継がれたのでしょう。しかも、時間がかかっても、保存への動きは揺るがなかったのです。それは「美」という共通認識があったからではないでしょうか。

明治時代とは

とはいえ、そもそも煉瓦による西洋建築を導入した明治という時代を見ておかなければと思います。「美」そのものより「美意識」ということでは、この頃は官民あげて西洋・米に学ぶことがいいことだという価値観が趨勢だったと考えられます。
赤レンガ2号倉庫(*①)を設計した明治の建築家妻木頼黄(よりなか)は、1882(明治15)年ニューヨークのコーネル大学に入り、その後ヨーロッパにも渡り勉強しています。明治政府としては、近代的な都市を建設することを急務と考えていたようで社会インフラの整備上、頼黄も学んだ虎ノ門工学寮(後の工部大学校)の「造家学科」への期待は大きく、日銀本店や東京駅を設計した辰野金吾(*②)なども輩出しています。

こうした動きとは逆に、イギリス、フランス、ドイツなどから外国人を大量にわが国に迎え入れることが国策として行なわれていました。「御雇い」と呼ばれる国費での招聘です。その分野は政治や法律や産業や教育などなど明治8年のピーク時には500人を超えていたようです。その一例として言えば、辰野金吾の師となり日本建築界の父と呼ばれるジョサイア・コンドルがいました。ちなみに、妻木頼黄は辰野金吾の5歳後輩になります。

「御雇い」によるにしろ、日本人自身が出向いての欧米技術の習得にしろ、明治政府の凄まじい近代化への意志があったことは間違いないでしょう。いわゆる、「文化移転」が進められたのです。

神奈川県立歴史博物館
このことから赤レンガ倉庫を見てみる時、赤レンガの美に捕えられていた、という側面とともに、その機能を構築する技術に躍起になっていたというべきであり、その意味では赤レンガ倉庫は時代思想のシンボルともいえるでしょう。妻木自身による横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)はじめ、付近の横浜開港記念会館(*③)やら、による日銀本店・東京駅など、昭和初期までを含めた建造物群を象徴させての捉え方です。あえて言えば、赤レンガ倉庫の「美」は後世の意識に継承され商業施設となり、倉庫建設の時代は当時の時代の「思想」を反映しているのではないか、という気がします。ここでも両義性は内在しています。

私が、「横浜赤レンガ倉庫」に感じる美とは、外観的にはその優美さです。しかし、それ以外に内面的なものを感じています。一つには内装面についてですが、商業施設としての赤レンガ倉庫造りでは、外観同様にこの内装面についてもかなりな傾注があったと理解しています。建築家、新居千秋氏や株式会社横浜赤レンガ、村澤社長などの取り組みにそれが見られるわけです。
ショッピングセンター(SC)としての赤レンガ倉庫の設計者新居氏は、倉庫の設計者妻木の思想を受け止めるのに「空間」の理解に努めたようです。現代日本を代表する建築家の磯崎新氏なども、 特に赤レンガ倉庫に関してというわけではありませんが、「間」へのこだわりを語っています。
この辺りになると専門的な領域に入りつつあるという気がしますが、私は、SC横浜赤レンガ倉庫について、谷崎の『陰翳礼讚』の指摘がないことを怪訝に感じています。前章「2歴史と現代」で触れたように、私は照明の効果に魅せられていますが、ここに至るまで特にそれに触れた著作物には邂逅していません。同時に、「陰翳」についてもです。『陰翳礼讚』は日本の建築界にも影響をもたらした筈です。「空間」や「間」や「陰翳」は、甚だ興味深いネタと感じられます。前回記事の繰り返しになりますが、陰翳の構成にとって、横浜赤レンガ倉庫の照明に昼光色の許容はいかがなものかと申し上げます。
さらに、妻木は倉庫の屋根に三州瓦を用いていて、石居氏もこれを踏襲しています。
構造に関わる大きなことではなく、ディテールというほど細部でもないように思いますが、瓦という素材や、陰翳の活用は和洋折衷というアクセントになっているのではないか、と考えられます。
そもそも、「赤煉瓦の優美さ」と表現していますが、赤煉瓦を使った建築物は無数にあるわけで、三階建てや全長150㍍(特に2号倉庫=現2号館)からくるボリューム感や、屋根・窓の装飾的デザイン性がありながら、全体としてはシンプルで、質実剛健、横浜港の「主」といった容貌を呈しています。ランドマークタワーは未来を志向して夢見るように空をつんざき、赤レンガ倉庫は過去を遡及して歴史を封じ込めています。
知の衝撃

また、赤レンガ倉庫の内面的な美として、
私は「換骨奪胎」を感じています。芸術作品で行なわれるようなそれを想うのです。
ポピュラーな事例を援用すれば、三島由紀夫の「金閣寺」は放火という通俗的社会的な事件を、真に芸術の名に値する文学作品にまで昇華してしまいました。それと同等のクオリティを感じています。三菱地所の建築家野村和宣氏がその著『生まれ変わる歴史的建造物』で触れている、「歴史継承とは創造である」と言われるようにです。
赤レンガ倉庫が「横浜赤レンガ倉庫」という商業施設になるとは、トランスフォーメーションであり、蛻変と言えると思います。建築業界のコンヴァージョンの一言で済ますには惜しい何かがあります。ここに私は一種の「美」を感じるものであり、すぐれた小説を読む時に得られるものに似た感銘を受けるものです。ありがちな無難な博物館などへの転用をよくぞ退けてくれた、と思います。
こういう言い方が正鵠を射ているかはわかりませんが、建築の世界は「脱構築」など哲学的領域というか、言語空間と浸潤し合っているところがあり、赤レンガ倉庫から醸し出されてくるものに、そのような大いなる「知」の「衝撃」も感じています。

現代の建築家、野村和宣氏の著作『生まれ変わる歴史的建造物』は、副題の「都市再生の中で価値ある建造物を継承する手法」とあるように、横浜赤レンガ倉庫のような建造物を繙くにはうってつけの内容となっています。赤レンガ倉庫を念頭において読み進めることで、まるで赤レンガ倉庫の復元・再生作業に立ち合うかのようです。
事例紹介の章で日本工業倶楽部会館について叙述されていますが、この小見出しの展開を見ただけでも、建造物の再生クリエイティブに望んだような臨場感に見舞われます。小見出し部分だけでも以下引用羅列してみます。

〇創建後まもなく関東大震災を経験した建築
〇会館の歴史的意義
〇外装の歴史的評価と所在
〇内装歴史的評価と所在
〇構造躯体の安全性の評価
〇内外装の維持と火災安全性の評価
〇原位置での会館機能の維持と敷地の高度利用
〇用語の定義
〇時点
〇位置
〇範囲
〇保存修復、復原の考え方
〇整備(改変)の考え方
〇事業性と諸制度
〇躯体保存の範囲による10案の検討
〇実施設計に反映するための二次調査
〇躯体を守り強化する構造計画
〇大階段と広間のつながりを残す防災計画
〇躯体保存範囲の免震化工事
〇古材を残し再現材にオーラを伝達させる外装の継承
〇伝統の職人技が光る内装の継承
〇歴史的建造物の背景として調和するタワーデザイン
〇新たな倶楽部施設機能の導入

実際に赤レンガ倉庫の場合が全く同じプロセスとは言えないでしょうが、似たような手続きが踏まれたことでしょう。私はここに流れている建築家の営為に、この合理的展開、論理的追究に、ある種カタルシスのようなものを感じるのです。これは、いわば歴史的建造物の再生作業を紙の上で再現したドラマとも言えましょう。建築ってこんなに面白いものだったのだ、そんな驚きさえ感じます。
しかも単なる新築ではなく、復元・再生の中に、歴史への顧慮と、現代のあらゆる制約の超克という両義性を備えています。

このような思考を赤レンガ倉庫にトレースしてみる時、現代の「横浜赤レンガ倉庫」という具体的なハードウェアの中から、まだ言説化されずにある、壮大なソフトウェアの物語が立ち上がってくるようにさえ思われます。イメージとしては、上述した野村和宣氏の日本工業倶楽部会館についての
エクリチュールのようなことです。私が感じた「知」の「衝撃」とは、こういった内容だったのではないか、と思っています。
これは、壮大な建設のドラマです。建築物の建造を逸脱して、そこにはまだ書かれざる未完の大作、まだ原石のフラグメントが散逸しているようにも見えます。

破壊と創造

一方、三島由紀夫の「金閣寺」は破壊のドラマです。木造建築の日本的歴史建造物(国宝)を焼失させることによって、主人公の溝口は己れに立ち向かい、自らを回復させ、人生を再生しようと意図したのではないでしょうか。溝口は金閣寺の美に圧倒され、押し潰されかかっていたのであり、事故で急逝した鶴川のように死ぬこともなく、惨めな戦後とともにおめおめと日常に無聊をかこつだけだった。「金閣を焼く」ことによって金閣を支配し、時代を超え、活路を見いだす、それが犯罪として文化を毀損する小説の文学的意味です。三島は歴史的建造物の破壊に、小説としての価値を創造しました。
一方は破壊、もう一方の赤レンガ倉庫は創造と、ベクトルは全く逆なのですが、建造物の構築とは別に、思想の具現化ドラマが存在しているのではないか、と思っています。このことを併せて横浜赤レンガ倉庫に見入る時、赤レンガの色合いの深みは増すばかりに感じられます。

横浜大空襲時の記録写真にも、赤レンガ倉庫はその佇まいは変わることなく写し出されています。
マチエールとしての煉瓦は、焼き込まれることによって製造されるようです。煉瓦の「煉」自体にすでにそのような意味がうかがえます。おそらく横浜大空襲の焼夷弾(※④)を受けても、燃えなかったのかもしれません。しかし、旧外国人居留地への攻撃を、米軍は避けたようです。無被災エリアと重なるのです。古地図に「山下居留地」と「山手居留地」が見えることから、明らかに除外されたと思われます。
国際条約違反であるアメリカによる横浜一般市民への「放火」を、焼き締められた赤煉瓦の倉庫がそれを見届けることになったとは、いわく言いがたい因縁です。この視点から赤レンガ倉庫を見る時、その優美な「赤」に何を感じ、何を思うかは、複雑極まりない感情の波の寄せ返しが生じるかのようです。
この年1945(昭和20)年は、日本国じゅうに大放火が行なわれました。それを免れた代表として京都を浮かべることはたやすいでしょう。大阪大空襲も何回にもわたって敢行され、京都は隣でそれを見届ける存在になりました。こういう図式で考えると、横浜の無被災エリアは、市内とともに東京大空襲、長崎、広島をも看取ったことになります。
ここに至って、アメリカへの呪詛へと書き進めるのは容易ですが、「事」はそれほど生易しいものではない「深淵」が、その端緒をのぞかせ始めているように感じられます。横浜赤レンガ倉庫を、わが国の戦禍を見届けた存在だけが奏で得るレクイエムとして犠牲者に捧げるとともに、あの優美さに負の歴史も継承するわれわれの熱情の印としたい、とでも言うしかありません。その記憶は、保存されなければならないし、復元されるべきだし、再生されなければならないのです。

折しも、今は2021年8月。「東京オリンピック2020+1」が崇高な意志によって遂行され、そして、あの忌まわしい8月15日がまたやって来ました。★

(続く)

●注釈
※① 1号倉庫の設計は大蔵省臨時建築部、施工は原木仙之助。
※② 明治の三大建築家とされるのは妻木頼黄、辰野金吾、片山東熊。磯崎新氏によれば、表現の文脈は異なるがジョサイア・コンドル辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵を位置づけている。
※③ 横浜市開港記念会館は50周年事業のコンペによって公募設計が為された。
※④ 焼夷弾アメリカが日本の木造建築を放火するために考えたもので、ゼリー状にしたガソリンが詰まっているらしい。

参考文献・資料
・「生まれ変わる歴史的建造物」都市再生の中で価値ある建造物を継承する手法─野村和宣著 
・「明治の建築家·妻木頼黄の生涯」─北原遼三郎著
・「ジャックの搭 100年物語」─神奈川新聞社
・「建築用語図鑑 日本篇」─オーム社
・「幕末·明治の横浜 西洋文化事始 」─斎藤多喜夫著 明石書店
・「日本建築思想史」─磯崎新太田出版
・「横浜・歴史の街かど」─横浜開港資料館

●全体構成と現在地
両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論
1温存と再生
─誰が赤レンガ倉庫を創ったのか
2歴史と現代
─なぜ倉庫を造ったのか
3美と思想
─なぜ赤レンガは惹きつけるのか
4欧米と日本
─赤レンガ倉庫はどう評価されるのか

●補足
前章「2歴史と現代─なぜ倉庫を造ったのか」のなかで、『横浜赤レンガ倉庫物語』P62に基づき生糸が赤レンガ倉庫から出荷されたのだろうと述べましたが、出典である『横浜赤レンガ倉庫物語』の別ページP234にはそれを否定する記述が出てきます。文献内の矛盾を指摘したいわけではなく、もっと精査しないと明確なことは言えないと思っています。
また、私は輸出が多かったのだろうと書きましたが、同一本に赤レンガ倉庫は輸入品の保管が多かったと記載があります。さらに、わが国のこの時代の貿易は輸入の方がまさっていたようです。