萌え町紀行-5赤レンガ倉庫その④

両義性の館
─「横浜赤レンガ倉庫」についての試論

4欧米と日本
─ 赤レンガ倉庫はどう評価されるのか

そもそも「萌え町紀行」とは、観光などの一時的な訪問に基づく「紀行」と対蹠的概念として用いています。そこに住んだり、仕事で関わったり、惹きつけられたりして生成される思いや思考を書き連ねているシリーズです。私にとっての「横浜赤レンガ倉庫」は、仕事の延長上で、確か商業施設として開業した2002年に訪れたのが最初でした。私の中にさまざまなショッピングセンターのファイルがありますが、赤レンガ倉庫は格別の存在となっています。その結果として「萌え町紀行」として扱うことにしました。

この赤茶けた墓標は、1945年の横浜大空襲を看取っていた。
今回、改めて赤レンガ倉庫を訪れているうちに気がついたことがあります。それは、
私と「みなとみらい」とは、結構頻繁におつきあいしていたという事実です。古くは1990年代、パシフィコ横浜で建築家ジョン・ジャーディ氏ご本人による同時通訳での講演を聞いた覚えがあります(テーマは「キャナルシティ博多」)。最近の数年の間では、神奈川県庁(ジャック)、クイーンズスクエアランドマークプラザ、ヨコハマ グランドインターコンチネンタル ホテル、帝蚕関内ビルなど、振り返ってみれば、自分の行動履歴がスッポリ「みなとみらい」エリアに、はまっているではありませんか。2015年から4年半横浜市内に住んだことはありますが、帝蚕関内ビル以外は市内在住とは無関係の往来です。この意味では横浜のみなとみらい戦略(*①)は功を奏しているとも思われますが、赤レンガ倉庫はその中心とも言えましょう。「1温存と再生─誰が赤レンガ倉庫を造ったのか」の章で触れたような赤レンガ倉庫の魅力に取り憑かれた人々の努力は、大いに報われているということでしょう。それは、商業施設造りを超えて都市づくりとしての成果ではないか、とも言えましょう。

横浜開港資料館で何が起きた?

一方、私が商業施設として魅入られている赤レンガ倉庫というものに、深く入り込んでみようというこの企画において、現地や資料等に接しているうちに、私は「とんでもないもの」に出合いました。ひとつには
「2歴史と現代」の章で述べた、横浜赤レンガ倉庫は、1945年の横浜大空襲を看取っていた件ですが、それとは質の異なる驚天動地の体験もあったのです。
それは、横浜開港資料館でのことでした。二階は展示室になっているのですが、そもそも別料金ゾーンで入るつもりではなかったのです。ところが、二階にあるトイレに用があり、その帰りに気づかずうっかり展示室に入ってしまい、せっかくなので、そこでのパネルなどの展示資料を閲覧させてもらいました。そこでは、開港以来の近代化の足跡を表現していました。逐一じっくり見ていたわけではありませんが「横浜のまちづくりの父」としてR・H・ブラントンの紹介展示が目に飛び込んできました。ブラントンはもちろん明治政府の御雇いです。日本の灯台造りで貢献したようですが、横浜の近代都市としてのインフラ整備をこの人が行なっているのでした。横浜にとっての功績としては、
・横浜居留地と横浜港の測量
・下水道敷設
上水道計画
・横浜築港計画
日本大通りの計画施工
・電信機の導入
・新埋立居留地の造成
などなどがあり、横浜についての知識のない私としては驚くばかりであり「な~んだ横浜はイギリス人が造ったのか」と思いました。次の瞬間、一気に飛躍し、私は「日本はだめだっ!」と大いなる落胆に襲われることになりました。日本のダメさ加減はここから始まっているかもしれない、開港の頃からダメさを受け入れたのではないか?とまで感じ至ることになったのです。
日本近代化の陥穽というか、盲点というか、そのようなものを垣間見た思いがしたのでした。これだけではわかりにくいことと思います。私のブラントン体験とは何だったのか、これは私自身が解明しなければならないテーマです。
わが国は、ペリーの来航以来、開国し、近代化を進めてきたわけでした。私は、横浜赤レンガ倉庫を媒介して、その近代化の足跡を具体的に体験したということなのかもしれません。妻木頼黄による倉庫の建造はもちろん、商業施設としての建設も、欧米の理論の剽窃といっていいでしょう。わが国の流通業界は、チェーンストアにしろショッピングセンターにしろ、欧米を頼りにしてきています。「西洋の衝撃」以来の大きな歴史的な潮流ではありましょう。「近代化」はすなわち「西洋化」であり、われわれの先祖は「西洋文明」の大波に喜んで呑まれた、という言い方もできなくはありません。

「受容」と「喪失」

横浜という町のインフラ整備に貢献したブラントンさんを讃えることはいいでしょう。しかし、私は何か「変」だと感じるのです。欧米に学ぶことが問題と言っているわけではありません。欧米の「受容」と同時に何かを「喪失」または「排除」しているような気がするのです。「喪失」と言うと、もともとあったものを「受容」と引き換え的に「喪失」したという意味になりますが、そうではなく、そもそも日本にはなかったものなのかもしれません。だとすれば、深く「受容」することなく、本質的なものを「排除」したのかもしれない、ということもできます。あるいは「受容」機会に気がつくことができたかもしれない何かを看過したといった感じかもしれません。

開国後、そして戦後、わが国は大いなる陥穽を持ち込んでしまっているのではないか
そんな気がします。欧米に学ぶことが善である風潮や、それが「カッコいい」という美意識の台頭による影響のほか、敗戦後は特にひどく、GHQに牛耳られて腑抜けにされてしまった、学者、教員、弁護士、マスコミ人、知識人、専門家、デュープス等々、彼らによる現象は、今や洪水のように噴出しています。
あえて、今、コロナとともに大問題を一つに絞るとすれば、中国につきます。東西冷戦が終焉して30年が経ち、中国がのさばり出しています。当の「警察署長」面を見せていたアメリカは世界に辞表を出しているだけではなく、バイデン署長はアフガンで大失態を演じました。これは中国を利するばかり、と言われています。ほんとにこのままでは、ヤバい。
中国は孫子の兵法の国であり、サイレント・インベージョンを仕掛けており、超限戦の輩です。幸いなのは、反社、ゴロツキとしてわかりやすく振る舞っているところがあり、今のうちに、この機に、日本国民が覚醒できなければ、大和の国は早晩滅びるでしょう。敗戦に何も学ばず、今回のコロナでの政治的戦略的意思決定のなさ、誰も日本の舵取りをしていない現実。中国に、アメリカに遠隔操作されているかのようです。国家観のない政治家、幼稚園児のような野党はもちろん、与党議員もクズばかり。こんな実態だからこそ、驕ったマスコミは政治を動かせると思って、偏向報道に余念がありません。今問われているのは、われわれ国民の民度以外の何物でもないでしょう。
西部邁氏や伊藤貫氏の指摘する通り、インデペンデンス、インテグリティ、ディグニティもなく、経済だけ追い求めてきた、戦後民主主義の結果でしょう。形而上的なこととはいえ、それらの「基本の基」を語らなければならないところに、日本の程度が表れています。有効性に関わらず死守すべきものがあることはわかります。その通りだと思いますが、それは必要条件に過ぎないとも思うのです。それは基礎ではないでしょうか。素人考えですが、それだけでは中国に対抗できないでしょう。

このレールは、タイムトンネルのようなもので、「近代」へと通じています。

このままでいいか、日本

私は、横浜赤レンガ倉庫を契機に横浜と向き合い、日本を感受し、このままではダメだと思い、何が必要かと考えてみました。政治哲学の専門家や、安全保障のプロのようなそんな大それたことを考えているわけではありません。ほんとうは、半世紀ほど時代はズレてはいるのでしょうが、遅れてきた「脱構築」論で近代批判を語れたらとは思います。
わが国は、世界に追いつけのみで近代化を推進してきただけですし、「戦後」もまだ終わっていない、と私は認識しています。繰り返しますが、「戦後」は終わっていません。新たな「戦後」が始まっています。実際、新冷戦真っ只中です。
こういうなか、実に単純なことだけを述べようとしています。

中国が世界を日本を支配しようとしている
今、それを上回る「支配」をめざすしかないでしょう。そうすることでしか対抗できないのです。自国を発展させればいいだけでは片手落ちであり、競争視点をもちながら手段として方法として「支配」を構想しなければなりません。
日本が世界支配をめざすべき、と言ってはいません。戦後、経済一辺倒で突き進んできたツケが回ってきているのです。知識人から一般庶民までアメリカの占領政策は効いたままですし、また中国は政治家や官僚に深く浸透しています。ディーン&デルーカのトートバッグを持ち、スタバ(*②)でお茶する、戦後の古き善きアメリカに憧れたルサンチマンは、連綿とこんにちに至っていると思うのは考え過ぎでしょうか。天安門事件の後、中国の世界復帰を手助けしたり、日本の国土を中国に買わせるままにしたり、中国の若者が日本で学ぶことにお金を出したり、一体何をしているのか。思想で負けているだけではなく、防衛予算を増やすことも、靖国参拝もできないとは、誰に気を使っているのか。
結局「支配」を目標として戦略をもてなければ、やられるしかないではないですか。
自国を自分で守ろうとしない国をどこの同盟国が助けてくれますか。米中対立が激化した場合、アメリカは日本を中国に割譲するでしょう。一体平和ボケをいつまで続けるつもりか。「追いつけ」や「負けない」ではダメで「勝とう」としなければならないのです。「支配」とは、相手を上回るということです。こっそりと腹黒くやればいいのです。「喪失」したものとは、戦意なのか何なのか、「勝とう」とする気配がありません。

もしかしたら真底「受容」することだけが身についたのかもしれません。何のために学ぶかの大戦略視点がない?ロングレンジで遠謀深慮を張り巡らせたり(サイレント・インベージョン)、金や女でトラップを仕掛けたり、後進国を装ってODAを呼び寄せる、厚黒学なのか孫子の兵法なのか、古来伝統的に中国に学ぶべきことも多いのではなかったでしょうか。根っこのところで「勝とう」とする気がなければ、最後はやられるだけでしょう。「受容」とともに看過されたのは、このあたりでしょうか?もしかしたら、ブラントンさんは、日本の近代化に紛れて負のインフラを仕込んでいたのでしょうか?

北朝鮮に拉致された同胞を奪還する気もなく、ウイグル弾圧に非難決議もできず、憲法改正をする気もない。そのくせ、G20議長国として「世界のエネルギー転換・脱炭素化を牽引することを決意」などとほざく(日本の製造業を潰すつもりか!)。
かつてアジアに平和な国があった、そんなことになってしまうのではないか。51年前に、三島由紀夫が極東に経済だけ繁栄したちっぽけな国ができてしまったと嘆き、こんにちの様を看取していたからこそ、憤死するしかなかったのです。その通りになってしまいました。絶望は海よりも深く希望は天のはるか彼方にあったのでしょう。

支配思想と戦略

「支配」を最上位目標として、その下位に戦略を構成するのです。軍事、サイバー、インテリジェンス、宇宙、あらゆる角度からの構築が必要です。例えば対外的な情報戦略(広報)は 全くひどいものです(*③)。経済安全保障の概念も早急に国内に浸透化させなければなりません。最近、経済人で政治の問題にはノーコメントと言った経営者がいましたが、これは実質アウトでしょう。サプライチェーンやマーケットから脱中国化できなければ、早晩自滅するかもしれません。日本国内の同社も、風向きが変われば、全身への自己免疫疾患の影響のように一気に悪化するでしょう。最近松本人志がTVの番組中で「ユニクロに行きたい」とコメントしましたが、ネット界では批判されています。この風潮が世論として表面化するのは時間の問題ではないでしょうか。そしてその先には、そのショップを入店させているショッピングセンターも問題になるかもしれません。明らかに時代は動いています。
佐伯啓思教授はその著書「近代の虚妄」で
近代主義」を批評しています。以下、引用します。
「その核心には、ヨーロッパが生み出した『近代主義』がある。そして、その近代主義がいっそう先鋭的に展開され、それがグローバルな世界を作り出したのが、『現代社会』であり『現代文明』である。···(中略引用者)···そしてそのことがきわめて大きな問題を生み出した。つまり、『ヨーロッパの近代主義はうまくいかない』、もっといえば失敗したのではないか、という否定的な気分を生み出したのである。」
佐伯教授は体系的にあくまで哲学的レベルで「論」を展開されているわけであり、私の体験的実感的叙述はそんな高邁さとはほど遠いものです。しかし、私は自分の「近代化」への疑問を後押ししてもらったような気になり、先生の論述を引き合いに出させて頂いたわけです。

私の「論」は、いきなり安全保障に結びつける唐突感は否めないだろうとは思います。しかし、赤レンガ倉庫との関わりを含めて私の「肌感覚」のみを基礎に置いています。もとより哲学的な論考をめざしているものではなく、また、それができるわけでもありません。それでもなお、今語らずしていつ言うか、という切迫感に促されているという実情があります。

「近代の虚妄」の先へ

佐伯教授の著書出版は昨年の秋のことで、冒頭ではコロナの問題にも触れておられます。もちろん、哲学・思想論のスキーム内での論評です。このコロナの件については私も、赤レンガ倉庫から逸脱するように見えても、目の前にある安全保障上の危機と言う点では、一言だけ触れておきます。
ワクチンの評価は最低でも2023年の春まで待たなければならないようです。ということは2022年の冬に何かが起きるかもしれないことを意味しています。「ワクチン」と呼べないものを「ワクチン」として世界の同調圧力に負けてわが国においても投与実施する政治家、厚労相は、大きな禍根を残すことに繋がる可能性さえあると言われています。河野大臣の「妊婦への影響はデマ」などと言うのは、全く医学的知見から程遠いものです(*④)。
キーワードは「ADE」「サイトカインストーム」「自己免疫疾患」などでしょう。ワクチン打つ打たないは、選挙で誰に投票するかに似て、個人個人が判断せざるを得ないところがあります。私はこうする、とは言えても、あなたはこうした方がいいのでは、とは言いにくいものがありますし、仮に同じ情報に接していても、判断が分かれるようなところもあります。但し、この選択には命がかかっています(*⑤)。
医学的検証・治験もないものをワクチンと称し、そのリスクを押してまで実施するレベルではない状況であるにも関わらず推進するという、政治的、戦略的意思決定のない判断は対中国問題対応とまったく同じです(日本は中国に塩を送りっぱなし)。
今われわれは、政治・軍事~ウイルスの問題まで、政治家の選択について、わが命に関わる事柄として捉え、子たち孫たちに自由で民主的な国を残せるよう、リテラシーを磨かなければなりません。

さて、私にとっての横浜赤レンガ倉庫とは、わが国の近代化の体験であり、その象徴であり、同時に大きな戦略の「喪失」シンボルとして、今わたしの前にあります。かなり大きな両義性となってしまいました。また、横浜開港資料館を筆頭に、私の横浜スタディを通じていくつかの発見もありました。自分の知識が新たに書き換えられ、更新され、再構成されていく過程、これこそスタディであり、クリエイティブであると信じたいと思います。

最後に、仲正昌樹氏著「ポストモダン左旋回」に、「死者との関係を公共化する」という考え方がでてきます。横浜赤レンガ倉庫1号館では、五代路子氏が演劇「横浜ローズ」に取り組み、その中で横浜大空襲のことも出てくるようです。私は、横浜赤レンガ倉庫では、毎年イベントとしてそれに対する慰霊を横浜市ともども大々的に行なうべきと思っています。やや理屈っぽく言えば「死者との関係を公共化する」ことにつながるはずです。国内的にも意義は小さくないと考えています。今までのところ、「横浜赤レンガ倉庫」では、横浜大空襲を慰霊するイベントを行なってはいないようですが(*⑥)、近代化促進の裏側としての敗戦という大失敗を、近代化の象徴ともいうべき赤レンガ倉庫が横浜市街の火の海を見届けた以上、その慰霊の役目を負うのは当然のことではないでしょうか。「虚妄の近代」を埋葬する意味もあります。そのことにより、横浜赤レンガ倉庫の建造物としての価値はもちろん、歴史的価値もいっそう高まるのではないでしょうか。それとも、経済的繁栄だけに満足し、「画竜点睛を欠く」館として後世に伝えようとでもするのでしょうか。★

(4回シリーズ了)

注釈・補足
*①
横浜市のみなとみらい事業の陰に港湾ビジネスでの藤木企業の存在が無関係ではないでしょう。具体的な結びつきは知りません。山中新市長の誕生にも影響力があったようです。
*②
スタバもディーン&デルーカも日本法人ですが、アメリカイメージを売っています。源は西洋文明ということになるのでしょう。
*③
日本も安全保障に関してある程度は行なっているのですが、インテリジェンスが弱いのと、軍事予算が少な過ぎるように思います。自衛隊の人員確保も問題があるし、核についても積極的に推進すべきでしょう。国家観のない政治家、インテリが多いのは、教育の問題に行きつくのでしょう。ちょっと骨がありそうに見えた河野太郎大臣でしたが、女系天皇容認論が出てきてお里が知れてしまいました。
*④
コロナに対する指摘の根拠は、大阪市立大学井上正康教授の見解に基づいています。
*⑤
リスク分散からすれば、似非ワクチンの投与は国民
最大半数までとし、最悪の事態でも歩留り50%とすべきかと思います(約1億2300万人×1/2)。組織や業界単位でもリスク分散が求められます。
製薬会社が免責取得の上で販売する薬品とは、似非であることを裏づけるようなものです。ファイザーのCEOは、自社株を売却しています。医薬品を免責の上で売る一方で、その自社株を現金化するとは、ユーザーの命と引き換えに金儲けする構図に見えますが、どうなんでしょう。株が売り時と判断したことは確かでしょう。モデルナの幹部も株を売却、現金化している模様。現金化の意味が自社株の無価値化のリスク回避ではないでしょうね。危うい世界的な人体実験が今まさに進行中です。
*⑥
株式会社横浜赤レンガへのヒヤリングではそのような回答でした。

参考文献・資料
・『横浜まちづくりの父』浜開港資料館
・「虚妄の近代─現代文明論序説」佐伯啓思著─東洋経済新報社
・「ポスト・モダンの左旋回仲正昌樹著─作品社