萌え町紀行 - エピソード2

汐 入 女 子 の 朝(あした)

第1話   クッキータイム

「嘘!そんなことがあるの!」
「そうよ、ほんとなのよ。悲しいことだけど」
「小川さん、いい人だったのに」
「佐竹さん、結納も終わってたのにねえ」
事務所に着く早々、女子スタッフの二人は突然のできごとに、仕事に取り掛かる準備を忘れて呆然とするばかりだった。
京急線汐入駅前にあるこのショッピングセンターの管理事務所は、悲痛な面持ちに包まれた。事務所の社員小川裕二が交通事故で急死してしまった。同僚の佐竹良江は26
歳で婚約者を失ってしまったのである。平成4年、すなわち1992年の春、この館が開業して一年を過ぎたばかりの頃であった。
それから佐竹良江は、毎月その日になると、午後3時に全員にクッキーを配るようになった。小川裕二がクッキーをとても好きで仕事の合間によく食べていた。佐竹良江は、鎮魂を込めて、また、自分の気を紛らわす思いもあって、そんなことをするようになった。
その後、事務所では毎週金曜日になると、誰からともなくクッキーやお菓子を持ち寄るようになった。もちろん、それは周囲のメンバーが佐竹を思う気遣いからだった。

それから数年後、佐竹良江は三十代になっていた。
その年の12月24日、佐竹良江は同僚の上町健介と鎌倉駅で待ち合わせていた。上町が佐竹を誘ったのである。
事務所でのお菓子を持ち寄る慣習は、しっかり定着していた。その頃になると、曜日に対するこだわりは薄れ、異動でメンバーも半分ほど入れ替わり、佐竹の不幸に関わるルーツは忘れられた。佐竹もそれを望んだ。
しかし、本社から異動してきた上町健介は、佐竹が配る菓子がクッキーであることが多いことから、佐竹はクッキーが好きなのだと思い込んでいた。午後の事務所のひと時、女子スタッフが男子社員に菓子を配るタイミングは、微妙な会話のチャンスになった。ある日、佐竹が上町のデスクへクッキーを一個置きかかった時、上町はすかさず佐竹に言った。
「佐竹さん、鎌倉においしいスコーンの店があるから、今度行かない?」
「え·····」
その時、回りに事務所メンバーはいなかった。一瞬の隙を狙って、上町が「モーションをかけた」のである。佐竹は、以前から上町の自分に対する視線や態度に、彼の気持ちを察していた。佐竹良江は、日々の出勤に張り合いができていた·····。
鎌倉駅東口にいた佐竹良江は、待ち合わせ時刻からすでに30分過ぎていたので、不安になった。曇天の寒い日で、今にも雪が降りそうだった。携帯電話があれば、こんなにヤキモキすることもなかったが、佐竹がそれを手にしたのは後年のことであった。
後でわかったのは、上町は西口と東口を間違えて言ってしまった、とのことだった。落ち合えない二人は、お互いが反対口へ向かって二度ほど行き違ったが、西口でやっと会えたのだった。経緯の確認やら謝罪やら、この無為に過ごした時間の空白を埋めるのは、実にやさしかった。会えたそのことだけで、二人は十分だったのだ。
江ノ電に乗ると車内は混雑していた。長谷で空いたので二人は座ることができた。本当は長谷が目的地だったが、藤沢まで乗り折り返すことにした。二人で江ノ電に乗っていれば、そんな時間はかけがえがなかった。鎌倉高校前付近から見る相模湾、鈍い海のきらめきに充実した時間が流れていた。鎌倉でお互いが空疎に待った時間とは大違いだった。
藤沢から折り返して再び長谷駅に着くと、今度こそ二人は降りた。
大仏方面へ向かった。狭い歩道に観光客が溢れた。
大仏を見学してから、目的のティーハウスへ向かった。クッキーから派生して、上町健介は、スコーンなら佐竹良江に気に入ってもらえると思ったのだ。
「そこを入るよ」と上町は、佐竹に促した。二人は歩道から路地に折れた。
「あっ」佐竹は立ち止まった。何か思い当たる風だった。
木々に覆われた中に見えるモダンな民家がそのティーハウスだった。また佐竹は歩みだし、二人は、瀟洒なその店に入った。店内から外を見ると、風景に白いものが混じり始めた。雪である。
佐竹良江と上町健介は、クロテッドクリームやジャムで食べるスコーンを楽しんだ。紅茶も格別だった。会話の内容はとりとめもないものであっても、楽しく、素敵な時間だった。
実は以前、佐竹は小川裕二とこの店に来たことがあるのだった。

平成30(2018)年になった。
先月この事務所に着任して長浦達夫は、時々お菓子が配られるこの事務所の風習に
「佐竹さん、みんなお菓子好きだね。どうして配るの?なんか、きっかけがあったのかな?」
若くてフランクな長浦に、五十代になっていた佐竹良江は言った。
「単に三時のおやつよ。仲間の印みたいなものね」
「そう、しかしそれにしても佐竹さんはいつもクッキーだね」
そう語る長浦の年恰好に、佐竹は小川裕二が思い浮かんだ。
随分昔のことになったと思った。同時に、
クッキーが縁で私は結婚したのよ、といつか機会があれば長浦に教えてやろうと、今は別の会社に勤めている、夫上町健介のことを思っていた。★

第2話   三月一日のグリップ

「店長、大丈夫ですかね。もう、今月はあと5日だけになっちゃいましたけど」
店長の花咲ゆきは、バイトの前田まりえにそう言われた時、先週のバレンタインデーに選んだチョコレートのことを考えていた。
それは、チョコに添えて、過去の映画や小説の会話やストーリーを紹介したもので、チョコを食べながら文芸世界のラブを楽しもうという商品だっだ。「この世界をあなたと共有したい」というコンセプトが気に入った。こんな素敵なギフト食品を自店で扱えれば、もっとたやすく売上げを上げることができそうに思えた。しかし、ショップ「サガン」は生活雑貨を扱っていたが、食品は含まれていなかった。同時に、事務所の池上巧に、自分が思い切ってあげたチョコの趣旨が伝わっているか、気になった。
「店長!」
「あ、そうね。今のところタイムセールが効果出ているけど、残された5日間でこけたらまずいわ。なんか、追加の対策が必要ね。何か、ないかな。まりえちゃんも考えてみて」
「店長、私なんか無理ですから」
その時、入店客が尋ねごとのようで、それに気づいた前田まりえは「は~い」と言ってそのお客の方へ向かった。
サガン」は、年度末の今月さえ売上げ前年比110%超えを果たせば、一年間を通じて連続での基準超え達成を実現することになるのだった。汐入駅前にあるこのショッピングセンターでは、年度初めからこのプロモーションをしきりにアピールし、館内テナントの売上げアップに躍起になっているのだ。「サガン」では今年度の商品政策がうまくいき、売上げは順調に推移していた。しかし、この2月は息切れの感があり、店長花咲ゆきはあの手この手を講じてもう下旬に入っていた。今週に入ってからは平日午後のタイムセールでしのいでいたが、あと5日間、何かあらたな手を打たなければ失速は必至だった。
花咲ゆきは、思うところがあって、ショッピングセンターの管理事務所へ向かった。
窓口で相談を持ち掛けると、課長が出てきた。花咲ゆきは、2月の売上げ前年比110
%超えのためには何等かの打ち手が必要なことを伝え、午後のタイムセールの館内放送の許可を求めた。
「趣旨はわかるけど、館内放送でセール案内はしないルールをご存知でしょ」
花咲ゆきはそんなことは当然知っていての相談だった。でも、すべてやり尽くした感じだった。幸い本部からの商品供給は的確だったので、あとはタイムセールの効果を最大化し、徹底するぐらいしかないように思えたのである。恰幅がよく、テカテカ光る肌の事務所の課長は、見かけとは裏腹に狭量なタイプだった。
「私としてもサガンさんの売上げは応援したいけど、ルール破りは、ね」
「そこを·····」
と、花咲ゆきは粘りつつも、この一見柔和な事務所の責任者の狷介ぶりには、すでに心が折れていた。花咲ゆきはうなだれて「サガン」にもどるのだった。
事務所の池上巧に相談することは、最初から避けていた。甘えるようでそれはしてはいけない思いが先にあった。しかし、こうなった以上池上だけが頼りだった。彼は、以前から「サガン」を買っていてくれて、花咲ゆきは自分への好意を微妙に感じている。ゆきは、決心した。
翌日事務所へ行くと、池上巧がいて要点を伝えたが、彼にはやや困惑の表情がうかがえた。ゆきは、奥の席でふんぞり返っている課長の存在を感じた。
「そうか、こまったね。昨日までの売上げはどうなの。基準超えているの?」
「少し下回り始めたんです。なので、月末までなんとか追い上げたんです。
「今日は25日。今日をいれてあと4日間か·····」
その時、池上はホワイトボードの勤務シフト表へ目を向けていた。
池上の目に一瞬光るものがあったのち、彼は放送原稿用紙を花咲ゆきに渡し、こう言うのだった。
「花咲店長、とにかく、放送原稿まとめておいてください!」
「はい、ありがとうございます。池上さん」
花咲はどうするのかわからなかったが、池上の言う通りにしようと思った。何かが開けてゆく感覚があった。花咲ゆきは原稿用紙を入れた透明ファイルを大事そうに抱え、ポニーテールを揺らして自店へもどった。

3月1日、事務所の池上巧は朝の店舗巡回で、「サガン」付近に来ると売場内を探すように見た。「池上さん、おはようございます」意外にも花咲はうしろから彼に声をかけてきた。
「ギリギリ達成できましたよ!」
「そう、それはよかった!」
思わず池上巧と花咲ゆきは、手を握りあった。月末週の強化タイムセールに加え、最後の2日間の館内放送によるアピールも効果が出た。27日と28日は、テカテカ課長は休みだったのだ。テナントの売上げが上がることは館のためにもなることで、池上は英断した自分に満足するとともに、花咲ゆきとしっかり気持ちがつながり合うことに幸福感を感じていた。花咲ゆきも、確実となった表彰獲得より、今年度の自分の目標へ届いた喜びに、うれしさを隠さず池上へ何度もお礼を言うのだった。
その時、花咲ゆきの目にわずかにきらめくものを見、池上巧はそれをとても美しいと感じていた。★★

第3話   インカローズの煌めき

電車が汐入駅に滑り込むと、星野小枝がいつも乗る後部車両からは、仕事先のショッピングセンターがよく見えた。館の正面とちょうど向かい合うのである。出勤の歩を進めながら星野小枝は同僚の坂本俊を、淡い想いに困惑の入り混じった気持ちで浮かべていた。
坂本俊からの星野小枝への想いの伝達は、もう一年になっていた。しかし、小枝は、それを率直に受け入れられないのだ。本心がつかみ兼ねた。何しろ、彼は既婚者なのである。嫌いなタイプではなかったが、手放しで飛び込んでいくわけにはいかなかった。二度、男女複数名同士で酒席に付いたことがあるが、二人きりで会ったことはない。坂本も意識しているのかもしれない、と小枝は思った。
国道16号の信号が青に変わったので、星野小枝は気持ちを切り換えた。昨日友人の結婚披露宴で知った「すごいエピソード」のことを思いだし、今日はそれを同僚たちに教えてやろうと、なんともワクワクするのだった。
この館の休憩室からは、停泊する米軍の潜水艦や海上自衛隊護衛艦が見渡せた。汐入ならではの眺めである。昼食の時間になっていた。
「あれ、小枝ちゃん珍しいわねえ。今日はパワーストーン着けてる」
「そうなんですよ。買っちゃったんです。私が買ってしまうぐらいのことが、昨日あったんですよ。聞いて、聞いて」
事務所の女子スタッフたちは、お弁当の包みを開きながら、星野小枝があまり熱っぽく語るので、何だろうと顔を見合せた。休憩室のテーブルはまだ空席が多かった。小枝は、昨日友人の披露宴へ出てこんなことがあった、と語り出した。
「·····新婦が私の友人なのね。
彼女が彼氏の両親に挨拶に行った時、彼のお父さんがどこかで君を見たことがあるような気がするという話になったんだって。彼女はびっくりよ。そりゃあそうよね。彼のお父さんが言うには、一時自分が住むマンションの管理をしていたことがあって、その時、子供の頃の彼女と息子が砂場で遊ぶところを時々見たらしいわ。彼女は高校の頃までそのマンションにいたらしいから、ある程度大きくなった彼女を見かけていたのね」
「へ~え、じゃあ、彼女と彼は、もともと運命で結ばれていたってこと!すごい!」
星野小枝のグループからひとしきり大きな歓声が起こったので、休憩室の周囲の人は何事かと、驚いた。小枝は続けた。
「披露宴中も、私、隣のテーブルだったんだけど、新郎のお父さんが、急に、お酌をしにきた同じ年恰好のお客に、なんでお前がここにいるんだ、って言うわけ。それが新婦の叔父だって。彼のお父さんと中学校の同級生だって」
星野小枝たちは、弁当を開いたまま、別世界へぶっ飛んでいた。
やっと、彼女たちの箸が動き出して、星野小枝が着けているパワーストーンへ話がもどった。小枝は説明した。
「その友人の新婦がこのパワーストーンを身に着けていたのね。これきれいでしょ」
「それ、たしかインカローズ?」詳しそうな同僚がそう言った。
「披露宴会場が横浜国際ホテルだったから、帰りに隣のビブレで、これ買っちゃったというわけ」
「小枝ちゃん、きっといいことあるわよ」
年長の同僚がそう言うと、星野小枝は同僚たちにからかわれることになった。
「この素敵なラズベリーピンクに惹かれただけよ」嘘ではなかった。星野小枝はこの色が本当に好きでたまらなかった。

翌月になって、星野小枝の誕生日が近づいていた。
久しぶりに、坂本俊から星野小枝の携帯にメールがあった。小枝は覚悟していた、と言えば大袈裟だが、去年の誕生日プレゼントが格別のものだった。高価というわけではないが、坂本が小枝への想いを伝えるために腐心していた。今回坂本は「チェリーチーズケーキを一緒に食べよう」と誘っていた。小枝は坂本の表現に二つの意味を読みとっていた。一つはは酒を飲もうとか食事しようとは言っていないこと。もう一つは、二人きりで会おうということ。
小枝は、迷ったが、煮て食うなり焼いて食うなりされるわけでもない、と思うと気が楽になった。翌日オーケーの返信をした。
顔文字を添えた。
一週間後の午後、汐入駅前メルキュールホテルのシャンゼリゼに、星野小枝と坂本俊の姿があった。小枝は、久しぶりにチェリーチーズケーキを食べたがとてもおいしいと思った。坂本は今まで見せたこともない真顔だった。小枝の手首のインカローズと、チェリーの黒ずんだ赤が接近すると、美しいコントラストを構成した。
二人はシャンゼリゼを出ると、汐入駅でお互い反対ホームへ上った。星野は追浜へ向かい上りへ乗るが、坂本の住まいは県立大学なので下りへ乗るためである。先に上り電車が来た。星野小枝は下りホームの坂本俊に手を振った。坂本も応じた。
平日午後の電車は空いていた。平日に休める仕事でよかったと思えた。座席に座り星野小枝は、坂本が離婚したというニュースや、今後つきあってほしいという言葉を、坂本の表情とともに反芻していた。
小枝は電車に揺られながれ、手首のインカローズの煌めきを、しみじみと眺めるのだった。★★★

付記
京急線汐入駅前にあるショッピングセンターとは、令和三年の今ではアジアパシフィックランドが運営する「コースカベイサイドストアーズ」になっていますが、前身はダイエーが経営する「ショッパーズプラザ横須賀」でした。
上記の掌編ノベル三話は、その商業施設の時代を舞台に想定したフィクションです。
こんなどうでもいいことを書くのは、あくまで「萌え町紀行」シリーズのエピソードとして位置づけているからです。