触れてはいけない

─ タブーと批評の間

要するに「言ってはいけない」というタイトルにするつもりでしたが、すでに著名な同名タイトル本があるので、そこを少し避けようという意識が働きました。「タブーと批評の間」とは、余計にわけがわかりませんが、あまり触れられないというか、あまり触れないというか、触れてはいけないという感じの領域の事柄について、あえて触れてみようと企画しています。言い換えれば、誰もが何となく感じていてわかっていることながら、あえてそれを語ったり指摘しないといった事柄とも言えます。そこには、無意識に避けてしまう何かがあるような気がするわけですが、そのゾーンのことを「タブー」と名を与えたい気がしています。

SNSという町

ソーシャルネットワーキングサービスの、いわゆるSNSは確実にその世界を確立しつつあるのかもしれません。そこで形成される世界は、ソーシャルネットワ ーク社会と言えましょう。確立しつつある過程とは、ある部分の可能性を捨て去って、定型化を強めつつあるということと表裏なのかもしれません。
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たとえばLINE BLOGならLINE BLOGの町内会で「ブログ見知り」になり、お互いが頻繁にコミュニケーションをとり、ブログを切磋琢磨していくのでしょう。しかも、それはその町内会が一定の拡大の上で、一つの町を形成するとしたら、町としてのある個性を生み、他の町からの住民の流入を妨げる要素として働くかもしれません。好んで吉祥寺を選んだ住人は、横浜の魅力を知りつつも、すぐに引っ越すことはないでしょう。一旦まとまった町は、その中で、活性化することでしょう。

多様なブログを町の個性に例えてみても「散歩の達人」や、「週刊文春」や、月刊「正論」 のように明確なものではありません。その町で語られる内容的編集上の特徴というよりは、芸能人が多いとか、ブログ上級者が多いとか、構成される住民の傾向での違いなどによって色分けせざるを得ない感じではないでしょうか。このあたりは、現実の町の特徴に、より近いと言えることかもしれません。拠点となる町はあっても、住民はB町やC町に出掛けたりもするわけです。

フォローの本音

私は自分のブログにフォローしてくれる方が現れた時は、うれしく感じたものです。このコラムニスト気取りの理屈ぽいブログにフォロワーがきた!?そのうち、その流れで自分もフォローすることがあるようにもなりました。
しかし、フォローしてくれる方の中に、自分のブログ売り込み狙いが見え見えとわかるケースがあり、そういう場合は反応しようがありません。たとえば商品売り込み、ショップ売り込みは、すぐわかります。そういう場合は、結果としてネグレクトすることになります。

ちょっと考えてみれば、自分が商品やショップを作ったら、ブログで展開しようとするはずです。何なんでしょうね、この忌避感。考えてみるにこれは、自分がブログに求めるものと、記事内容への興味に行き着くのでは、という気がします。
フォローしてくれた方の記事に興味がわけば見てみるし、私のブログ内容へのコメントが少しでもあれば、私もその方のブログをフォローしたくなります。この思考に基づけば、フォロワーを増やす方法のヒントが出てきます。

とは言うものの、そこを掘り下げたいわけではなく、私は安易なフォロー、意図がバレバレのフォローがあることを言おうとしているだけです。日頃からブログをやっている方は、感覚的にすぐわかることかと思っています。しかし、ブロガーたちは、こういうことを特に非難はしないし、指摘もしないし、その必要もないでしょう。そこには自分も同類の身という漠然とした意識、無意識があるからです。もっと言えば、自分がフォローを求める立場である以上、人様のフォローに関与にしない方が得策と計算をしているのだと思います。それが100%だと決めつけるつもりはありませんが…

このあたりのことが、この記事で狙っている核心部分の一例になりましょうか。

これと同じ意味合いで「いいね」についても言えると思います。結果、SNS界では「ギリいいね」が横行することになります。
意識高い系の似非識者が「いいね、って何なんでしょうね?」と揶揄するコメントに接することがありました。私にもそういう感想はありました。しかし、自分がSNSデビュー後、「いいね」に接して、これはなかなかいいかも、と考えるようになりました。この軽さ、「見たよ」的なノリは、SNS界という薄いつながりにマッチした、挨拶としてちょうどいいと思うのです。
「ギリいいね」には、義理としてのしょうがない感と、それでも使うことでつながる、挨拶コミュニケーションの社会性があるのではないでしょうか。

ツイッターが、このあたりのことに関して、新しいしくみを入れるような動きがあるようです。もう、始まったのでしょうか…

Facebookのよけいなお世話

ザッカーバーグ氏は結構「お騒がせ屋さん」ではないでしょうか。Facebookのようなプラットホームを作ってしまう手腕には脱帽しますが、確か昨年、仮想通貨リブラで米国議会に呼ばれて突き上げを喰らいました。今は、Instagramの買収の件で、独禁法で問題になっていますよね、確か。
最近、いつの間にかFBとインスタが連携を始めていますが、そういう裏事情があったようです。それにしても、FBやインスタの情報更新があるたびに、いちいちスマホに通知してきます。これ、ホント、ウザい。これもよけいなお世話ですが、しかし、これはスマホの設定をいじれば変えられることかと思っています(?)。FBのよけいなお世話とは、このことではありません。

Facebookに登録する、いわゆるアカウントを持つと自分のプロフィールを記入するよう誘導してきます。生年月日、住まい、出身地、出身校等々「書け」と言ってきます。もちろん、書かなくても済ませられることです。まず、ここにある精神というか文化というか、アメリカ的なものを感じるわけです。オープンで、フランクで、アケスケ、その感覚に違和感を感じるのです。自分のミニ履歴書をFBに書き込め、と言う。

それが実際にアメリカ的なもの、といえるかどうかはわかりません。FB的なものと言っておきましょう。少なくとも日本人同士で、年月日、住まい、出身地、出身校等は、きっかけがあって個人間で伝えることはあるでしょうが、政治家や、著名人でもない限り、なんらかの媒体を通じて公開はしないでしょう。このことは、個人情報保護法の施行とは無関係に文化的、社会心理的なものとしてのことです。

しかし、その一方では、Facebookという媒体は、FB世界において一般人を有名人もどき化させていると見ることができます。そう思えば、その誘導に乗っていっぱしの著名人気どりで自らのプロフィールを公開し、いっぱしのコラムニスト気どりでブログをリンク投稿すればいいのです。それだけのことです。そう割り切れれば、ですが…
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特に、生年月日については、多くの方が公開されているのではないでしょうか。正確に言えば、月日までは、というべきかもしれません。この結果、この情報に基づいてFacebookは、誕生日を使ってコミュニケーションを強要してきます。「今日は〇〇さんの誕生日です」と知らせてきます。私は、これを通報されるたびに、これなに?と感じるのです。
何のナニガシさんの誕生日の情報が入って、それに「おめでとう」を言わなければならない、やらされ感があります。人間関係の「再開」にはなるでしょうが、往々にして、誕生日づきあいをリピートする以外の何になるのでしょう。それがFBの平均的な成果といったところでしょうか。

結局 FBは、既存の人間関係がなければ交流できないわけです。思い切ってアカウント作って、あとは他人同士の交流を傍観する「場」ということになりましょうか。たまに泊まりにいく「定宿」があるようなもので、行った時は「お、熊さん」「よ、八っつぁん」となる程度のことです。最初から参加ではなく、観覧席を押さえにいっている方もいるのでしょう。

それでも、その薄いつながりの持続や交流を目的にすれば、その人にとっては意味があるでしょう。あとは、「自分をさらす」というあたりでしょうか。
その中身は多様ですが。そもそもSNSは1対1の「通信」なわけですが、FBは1対マスの「放送」的な色彩があるとは言えるかもしれません。自分のディスクールを表そうとすれば、それはそれで表現媒体にもなり得ます。

押し売りお断り

何が気に入らないかと言えば、文化的押し売りが抑圧的と感じています。ここ、日本人向けに日本版FSを開発しろよ、と思います。家族でもないのに、恋人同士でもないのに、「お誕生日おめでとう🎁」
なんて言うわけないだろ!
これは、グローバルスタンダードでやっているからこうなるのだと思います。FBは、リブラをやったりInstagramを買収している暇に、各国の文化や慣習に合わせたプログラムを選べるように開発すべきではないのでしょうか。つながる相手が外国人の場合もあるでしょうから、それはその相手国のパターンを選択できるようにするわけです。そもそもアバウト過ぎませんか。

このことに関して思うのは日本人がFacebookを作っていたら、こうはならないだろうと思っています。ここは残念と思うと同時に、日本版FBできたら、もっと活性化するだろうと思います。グローバルスタンダード、正確にはアメリカスタンダードで日本に浸透できたと思うのは、100年早いと言って差し上げましょう。日本の風土・文化を研究してごらんよ。安全と水を只と思っているお花畑国民であることは認めるけど、恥の文化があり、建前と本音文化がある国民性はリサーチしてますか、と言いたいのです。現地化政策が不足していませんか、といったことです。

そんなことより一番心配なのは、対中国との関係です。ザッカーバーグさんは、バリバリのパンダハガー親中派)とは言えなさそうではありますが、奧さんが中国人でもあり、まだ中国進出をあきらめていないかも、という懸念があります。もしFBが中国とつながってしまったら、こんなやばいことはありません。ブログをFBにリンクさせて公開させるなんてことは、できなくなるでしょう。国家情報法や国安法を作るような国です。くわばら、くわばら…

FBの展開しだいでは中国の脅威とリンクしてしまう大心配とともに、誕生日おめでとうを、人に求めるおせっかい、いりませんから。余計なお世話です。
そのセンスダサい。

一般的には、自分が利用しているプラットホームの批判はしないでしょう。その意味ではタブーを冒していることになるのかもしれません。
でも、少し考えていただけばわかると思いますが、FBの日本人への最適化と、中国に取り込まれないよう指摘しているのは、タブー破りを装いつつ、FBの健全な発展を願っている、ともとれるでしょう。*

「オープン」と裸族の間

家人から回ってきた、さほど大きくはないタブレット端末で動画を見ていたら、やたら海外のファッションショーが出てきます。
このファッションショーとは、下着のそれです。いやいや裸のショーではないのかい?まじ、どっちかわからないくらいです。下着の面積が小さ過ぎるのです。いや、水着のショーなのでは?
こうした表現の曖昧さが生じるのは、「ファッション」に視点がないことを証明しているようなものです。やっぱり私は「裸」のショーを見ているに違いありません。

これだけあからさまに、堂々と、公然と、女性の裸身を、颯爽と闊歩しながら見せつけられると、例えばお尻の形に初めて気がつくことが出てきたり、微妙な体型の違いにも接することにもなり、肉体の品評会か!と思ってしまいます。
モンローウォークなのか、モデル歩きなのか知りませんが、当人たちはどういう気持ちでいるのでしょう?恥ずかしさが0ということはないでしょうから、それがありつつも、そこを乗り越えたら、陶酔感へ一歩一歩進むだけ、といった感じなのでしょうか?
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モデルが振り返ればお尻はT字だけ、前は上の一部とV字箇所だけが布部分です。V字部分だけ隠してお腹を見せる、これを「V字開腹」と名付けましょう。ショーの収益がV字回復することを願っているのでしょうか。
さらに、T字をよ~く見たいと思っていたら、今度はモデルがくるりと前を向いたとしましょう。どれどれ、V字の布地のデザインをよ~くチェックしてみようとなります。「背に腹は変えられる」ものなんですね。それにしても、「腹腹ドキドキ」、すごい見せ物です。

ここには「露出」はあるが「色気」はない、というのが私の感想です。孤絶した未開の地域で暮らす裸族に近づいているだけです。露出という感覚さえないかもしれません。オープンで、あっけらかん、セクシーとはほど遠い感性だという気がします。

盛りがついた?Instagram

この布着れっぱしだけのファッションショーに関連して、最近のInstagramはどうよ、と申し上げます。これも、私が何かを見た、そのアルゴリズムなのか、フィルターバブルで起きることなのかはわかりません。最近の女性はあきれる、というかすごい、というかはともかく、一般の方が、何のためらいもなく、胸や下着をのぞかせるのです。もう少し具体的に言いましょう。スカート姿でパンツを見せてくれるのです。
Instagramにそそのかされて、女性たちは一気に盛りがついたのか!とは男の識者が指摘しそうなことです。

いやいや、それが男の発想というものでしょう。女性はそういう動機で行動は起こさないでしょう。かわいいから、きれいだから、かっこいいから、などの思いで着火されてアクション、といく傾向が強いのではないでしょうか?いやいや、それこそ皮相的見方であり、本当はどうなんでしょうね。

ここで女性心理の分析ごっこをしてみようと思います。女性がインスタに露出する心理、いったいどういうつもりで、「何が彼女をそうさせたのか」を追究してみようというわけです。

まず、FacebookにしろInstagramにしろ、SNSで「顔だし」するかどうかが、最初のハードルになるでしょう。普通に考えて「自分に自信がある人」は顔だしをためらわず、ひょいと公開領域に飛び出すものと思われます。自分に自信がある人」とは言っていますが自分の顔に自信がある人」とは言っていません。

若い身空から自分に自信を持てる人は少ないかも知れません。しかし、自分のきれいさに自信を持つ人は若い方ほど多いとは言えるかもしれません。若さがきれいさを支えていることが多いし、見てすぐわかることなので、把握しやすい面もあるでしょう。かくて、どんどん顔だしは普及していきます。

その先、水着姿で裸身をさらしたり、着衣でエッチなポーズを公開するまでは、さほど時間はかからないということになりましょうか。
女子高校生が、ベルトラインを幾重にも折り込んで、スカート丈を短くしてミニスカづくりに余念がないのは、わかりやすいことだと思います。脚をできるだけ見せた方が「かわいい」と思っているからです(たぶん)。十代半ばの年代では、まだ幼児期の記憶が強いだけではなく、今しかできない切迫感などもあるのかもしれません。
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この自分をかわいいと思える感覚は、自分をインスタに載せるモチベーションと直結します。「この水着」または「このショーツかわいいでしょ、見て見て!」となるからです。この見せたい感覚の相手は男性ではなく、同性でしょう。インスタを使って共有する遊びといえましょう。こうして、かわいいパンツ姿をさらしてくれることに相成ります。当然男子に見られてもいい、と割り切っているのでしょう。

需要とおんなごころ

一方、女性が自分がもてたことを「需要があったのよ」と表現することを聞いた時、理知的なひとだと思いました。そのひととは、2017年一世を風靡した藤原史織(ブルゾンちえみ)です。

もう一人、あるAV女優が同様の言葉使いをしたので記憶に残っています。このように理知を通じて自分をさらすモチベーションの女性は、「需要」の認識を契機として、自分はその需要に応える供給者と自覚し、買われる価値を知っているということです。こうして、着衣のまま下着を見せることなどの露出につながっている、そう考えられます。ということは、それを平気で行なっている一般の女性とは、男性のニーズを知っているということでしょう。その知識を通じて、自分の魅力を供給しよう、と動機形成しているのかもしれません。つまり、見てほしい対象は、男性です。ここは、かわいい姿を同性に見せたいとさらす、さきほどの女性とは、決定的な違いがあります。

この手のインスタにあがってくる写真の中で、ビジネスを匂わせるものが混じっています。表現を変えれば、バックにプロデューサー的な人間の存在を感じさせるのです。モデルは一般の女性にしか見えなくても、すぐわかります。同じ女性がポーズを変えて複数回登場したら、それはビジネスかと思います。需要があれば広告がつくので、それで稼ぐのでしょう。
素人のその手の投稿は、何枚も出てきません。おもしろがって見せている場合は、同性が写真を撮っている雰囲気を感じますし、本人は見せてしまっていることに気がつかずに投稿されているのではという写真は、男の撮影者の感じがします。

こうした写真の延長上には、AV嬢と男性との絡みまでがあるのでしょうか。もう、それはそこまできているのでしょうか。それは、すでにInstagramではないように思います。そこはインスタ側で線引きする、しているのではないでしょうか。わかりませんが、女性のユーザーが退くような気がします。

求む日本的美学

さて、長々と書いていますが、インスタでの女性の露出ぶり、そのほとんどの写真はつまらない、と言いましょう。「陰翳礼讃」がないのです。ランジェリーのファッションショーではないので、オープンで、明るければいい、というものではない、と申し上げましょう。先にそのショーには「色気」がないと書きました。要は、その辺のことです。

昔読んだ本で、猥褻とは何かに触れて、記憶違いがなければ、確かサルトルを引用していました。庭で沐浴する女性がいて、それを覗く塀の穴、それが猥褻だというのです。これはよくわかる話です。
もうひとつ私はエロスとの関連で、谷崎の「陰翳礼讃」も上げたいと思います。それは、欧米人のあっけらかんとした明る過ぎる裸身ショーとは対極の世界のことです。「陰翳礼讃」が失われていくという思いです。

写真の撮り方や演出というより、Instagramのお誘いに乗って、女性たちは露出とともに何かを脱ぎ捨てていっているのです。「需要」に応える合理性の裏で、日本的な奥ゆかしさや、ためらいや、控えめであるといった、気持ちや心の「所作」をドライに捨て去っているのではないでしょうか。このことはひょっとしたら、このパートの冒頭でおっさんが言いそうなこととした「盛りがついたか!」の表現に肉薄してしまう可能性がでてきます。もし、そうだとしたら、うら若い女性があられもない格好を見せるところに感じる一種の切なさは、裸の心情なのか、欲情なのかをさらされる痛々しさ、とも言えるかも知れません。
SNSの浸透によって「露出することは良いことだ」という風潮がみなぎっていると言えそうです。それは、抑制する心情、羞恥心、戸惑い、なんとなくあった禁忌を破壊しているという意味で、心の陰翳を消去しつつあるように思われます。

この最後のパートのどこがタブーだったのでしょうか。これだけオープンな世の中では、実はタブーとは、それを言わなければ存在しないものなのかもしれません。★

*註
Facebookは、4年前メインストリームメディアが
反トランプの中、保守層の言論メディアとしてトランプ政権誕生に貢献したようです。今、民主党側からの圧力で厳しい状勢が伝わってきます。これ最近知ったことですが、米国の政治状況を考えれば、ここは応援したいところです。Facebookの生き残りのために、考え方までリベラルに寄っていくようなことがなければいいのですが…。当然、日本に関わる
SNSとしてのことです。