触れてはいけない その2

─ タブーとタブーの間

前回の「触れてはいけない」では、これだけの情報化社会で本当のタブーなんてないかもしれない、という感想を末尾で表明しました。タブーは批評によって破壊されていくものなのかもしれません。しかし、私の中に厳然と、そこは言ってはいけない、触れてはいけない、という事柄はあります。名誉毀損等法律違反というわけではないけれど、そこは表現すべきではないでしょう。不敬だったり、失礼だったり、そこを冒してまで、指摘、公開することは意味がないと考えています。
でも、自分の感覚で気がついていることで、ひよっとしたら誰も言ったり、指摘したりしていないように思えることは、表現したくなるという思いはあります。それが、正義に根ざすことだったり、社会性のあることだったりすれば、よけいにその思いは強まります。仮に正義や公共性と無縁でも、表現を試みる者としてチャレンジするモチベーションは、燃え盛っています。ひとえにその指摘の批評性のクオリティ、新鮮さ、斬新さ、にかかっているとも言えましょう。今回は芸能ネタのような事柄も扱いますが、私の興味は週刊誌的視線にはありません。

KK問題に触れてみる

「KK」と言ってすぐわかる方は「竹田民」か、虎ノ門ニュースの視聴者かでしょう。私が具体的にKKを明らかにしなくても、それは伝わることです。

眞子内親王殿下のご結婚が現実味を帯びてきているようです。これに関しては、すでに現れている所業から、そのお相手としてKK不適格説が出ていると思います。市井の民間人同士なら問題になることもないのですが、皇室に関わる事柄であり、相思相愛だからいいとは言えないところがあるので、いろいろ噴出しているわけです。
その最先鋒であり、最も語るべき資格のある方は、竹田恒泰氏をおいて他にはいないでしょう。結局このことは、皇統につながる問題であり、部外者ではなく、比較的近い方が述べるべき事柄と言っていい面があると思います。

竹田氏いわく、KKは死神です。彼が眞子内親王殿下に関わってきたことで、すでに幾多の不幸が生じているからです。ベスト解は、愛があるならKK自ら身を引くべきこと、と指摘されています。しかし、秋篠宮皇嗣殿下御夫妻が前向きに進める方向でのご意向が伝わる中、竹田氏はこの前向きの展開は進むだろうと見ているようです。
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今、女系天皇女性宮家、皇女などという、歴史に無知な人々や、デュープスや、レフトに傾いた輩がそのイシューに躍起のようです。皇紀2680年の皇統をなんだと思っているのか。世界における日本の叡智を壊すことに加担するのですか、と言わずにいられましょうか。
KK問題は、このような時代背景の中で噴出してきたゲリラ戦のようなものと言えるかもしれません。

話をもどせば、竹田氏曰く「愛があるなら身を引くべき」かつ、上手にそれをするには「嫌われる」ことだ言います。彼の意見は、KKについて秋篠宮皇嗣殿下が認めるような振舞いをする力量はないと判断した上で、先々問題が起きるだろうと見ているからのようです。国民感情が様々な世論を波立たせてくるからです。皇室や眞子内親王殿下を、ひいては皇統を守るそのことに彼の言説の主眼があることは明らかです。

しかし、大方の世論、すなわち地上波TV放送や芸能週刊誌的な見方は、相思相愛のお二人を結びあわせてあげたい、という論調のようです。
私は全面的に竹田氏の意見を支持するものですが、その上で、KKの「愛」を掬いあげる道があるのではないか、とも考えています。

私がこのような思考に惹かれるのは、お二人の環境の落差があまりにも素晴らしいからです。絵に描いたようにドラマチックなのです。とてもクラシックで、不滅の設定が素敵です。
一方がインペリアルファミリーのプリンセス、もう一方が、身内に自殺者あり、借金問題もありという市井のしがない家庭の男子、という圧倒的な家柄の差が、シチュエーションとして稀有のものだからです。「ロミオとジュリエット」もンタギュー家と
キャピュレット家の反目という背景でこそ起きた不幸です。1968年フランコ・ゼフィレッリ監督の名作について、当時三島由紀夫は「情熱だけがあった」と語っていました。

竹田氏が皇族をナンパしたKKを非難していますが、一面では、それは所詮男女はそんなものでしょう。もちろん、竹田氏が指摘する意味はわかります。皇族のBIoodが汚染されるようなことではこまるわけです。しかし、愛とBloodとを截然と分別できるものではないところがあります。そもそも皇統とは本質的にBloodの問題でした。

ここで伊藤詩織氏を持ち出してみるのですが、伊藤氏と山口氏(ペアA)の関係に恋愛は感じられません。眞子内親王殿下とKK(ペアB)との関係には比較的恋愛が感じられます。ペアAは「欲」があり、ペアBにはやや濁りつつまだ「愛」が感じられます。この対比で見る時、ペアBが少し清廉なものに見えてくるような気がするから不思議です。いや、不思議ではないかも…。一方「ロミオとジュリエット」と比較してみると、ある意味欠落しているものが少し見えてくるような気がします。

もし、KKが眞子内親王殿下への愛の純潔性を保持し、それを表現したかったら、方法はあります。そのことは、今起きている幾多の困難 ─ 世論の不評や母親との折り合い ─ を一掃することも伴っています。それは、ロミオとジュリエットになること、とは言わないけれども、KKが愛に生きることです。永遠に愛に生きる男になりきることです。富士山の見える丘の上で、一人で永遠を手に入れることです。今の年齢のまま、永遠のKKとなることです。具体的には書きません。その後に予想される展開も触れません。いよいよ、これはタブーの領域に入ることになるでしょう。
しかし、こうした選択ほど、KKから遠いものもないでしょう。まして、彼がこうした美学に殉じる可能性は皆無と言えましょう。虚構でのことではあり、ケースとしては全く異なりますが、竹山信二中尉のような苛烈な行為は望むべくもありません。

成功すれば尖鋭な美学としてレジェンドになりうる可能性を秘めています。海外の目からは、一種の日本的なこととして見られる可能性もあるでしょうか。欲と打算と思われることだけで自分を羞じるような精神、ただひたすら情熱だけで「愛」を成し遂げようとする精神だけが起こし得る奇跡は、やってこないと結論づけます。

12月上旬現在、KK辞退の一部報道もありますが、その反対もあります。週刊誌は、とにかく売れればいいので、両論がしきりに煽ることに終始するでしょう。早々に決着しないことが一番の望みでしょう。

K国の「恨」に触れてみる

先日、私のスマホに「夢幻美 IUまるで妖精?美しす過ぎ…」と題する写真と記事が載ってきました。
写真を一目見た瞬間から、韓国はここまでやるのか
なんというルサンチマンか、と見たくないものを見たような、非常な不快感に支配されました。

これには少し説明が必要かと思います。
まずIU(アイユー)とは韓国の歌手・女優で今27歳国民的スターです。私は数年前からフォローしていて以前のブログでもすでに2回触れています。コンサートでの観客の年代的多様さから幅広く支持されていることがわかるだけでなく、常套的な言い方になりますが、ますます女性として輝きを放っています。

私があまりに頻繁に彼女の音楽に耽るものですから、彼女に関連した動画が、これまたたくさんアップしてきます。TV番組でのトークショー、コンサートの舞台裏でのようす、映画撮影のメイキング・・・私はこれらをまともに観ていられません。売れっ子スターが酷使されているようで、堪えられないのです。消耗品のように使われ、金のなる木のように周りに人が群がっているのが見えるようです。プロダクションやら代理店やら裏方の関係者が、姿なき姿で蠢いています。

このように思う私の心情は、決して主役として始まったわけではない最初の出演ドラマや、主役を演じた「最高です!スンシンちゃん」を2・3回観たり、無名の頃のギター一本で歌ったYou Tubeを聴いたり、よその国のこととはいえ、彼女の成長過程を「ともに共有している」かのようなファン心理があってのことです。歌手や女優としての才能はさることながら、素の女性として飾らなく、率直で、庶民的なところは、かの国で「国民の妹」と呼ばれる由縁かと想像します。日本のファンも多いとは聞きますが、
私との関係は鉄板です、誰も近づけませんから👅。どうしても自分の娘を見るような視線になってしまうわけです。
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彼女の周囲を取り巻くハゲ鷹のようなK国の「商魂」を感じる一方で、歴代の最高権力者や富める者を次々に断罪したりする遡及法の国柄の底には「恨」の感情があるのだろう、そしてそれは今をときめく李知恩(アイユー)に対しても一部の輩が向けているのでは、と勘ぐってしまいます。「夢幻美 IUまるで妖精」というタイトルで演出された写真とは、着色した光の影で彼女の顔を汚しておもしろがっている、と私が感じてしまうものです。まるで、美貌を傷つけて「いい気味」と舌を出している心根を咄嗟に直感してしまったのです。

もちろん、この着色した影を使った企画のすべてのショットがひどいとは言えません。他のものはそれなりですが、記事としてアップされたメインは悪ふざけが度を越しています。誰が見てもそう感じるかはわかりませんが、私はそう受け取ったのです。
青い光を使っているのでまるでお岩さんと見紛うばかりです。この演出に、才能と美貌に恵まれ、名声も経済力も手に入れた当代のスターに対するルサンチマンや、もっと言えばK国らしい「恨」の感情がある、と思わせるのです。

今年、コロナに関連して彼女は2・3回寄付金を拠出しています。ニュースになりました。こうした振舞いが、彼女の「富」を表現してしまい、上述した劣悪な企画をもたらしたとは、あまりに考え過ぎと言うべきでしょうか。彼女の写真についての冷静な評価という点では、譲歩して言えば両義性があると解釈できないことはないかもしれません。では、実際にK国の人に聞いてみたらどうでしょう。私の受け止め方について。しかし、そういう問題ではありません。他国の感情的素地に基づいて、日本人がそう受け取った以上、それはそれで確定というべき事柄のように思います。

K国については根深い、ほんとうに面倒臭いものがあるのですが、一方、音楽、ドラマ、映画などの芸能面については、わが国にはない才能があります。これも以前のブログで触れています。しかし、その上で、両国が円満になることは不可能でしょう。そうしないことが日本のため、と見ています。

この記事で問題にしている写真はダウンロードしていたのですが、大元で削除したようです。掲載できればわかりやすかったのですが…

一枚の写真に「ケチをつけた」ことがタブーだったのでしょうか。また、他国のスターを言うに事欠いて娘扱いにすることは、他のファンのことを考えたらそら恐ろしく、ここは触れてはいけない、だったかもしれません。

プロの仕事に触れてみる

米粒写経の居島一平といえば、インテリ芸人として知られています。博覧強記、驚くべき知識の持主です。平日の朝は、DHC「真相深入り!虎ノ門ニュース」の司会を務めていて、コメンテーターをフォローする史実の補強があったりして、驚かされることしばしばです。しかも、司会者というポジションを堅持していて、決して出過ぎることなく、抑制的に振る舞っていることが、よくわかります。
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この居島氏は正に非の打ち所のない方なのですが、
たまに、私の感覚と合わないところが出てきます。
2~3あります。彼を批判しようとしているのでありません。私の方がおかしい可能性があります。「感覚的不一致」について触れてみようとしています。

初めてそのように感じたのは一年ぐらい前だったかと思います。今は番組を下りた参議院議員青山繁晴氏がコメンテーターの時でした。外国との政治問題だかに関して「覚書」のことがニュース原稿にでました。この時、居島氏は「カクショ」と読んだのです。「覚書」は「オボエガキ」でしょう。青山氏が指摘すると思いましたが、そこはスルーでした。私はこれを聞いた時の違和感はかなりなものでした。私の中では「オボエガキ」以外あり得ないからです。

これはどういうことかと言うと、他の事例を出せば
ある講師が広告主を「コウコクシュ」と言って憚りませんでした。また、ご教示くださいと言うべきところを「ゴキョウジュ(ご教授)」くださいと同僚が電話口で語っているのを聞いたことがあります。そういう時に感じる違和感です。

少し広げますが連想ゲーム的に思い出されてくることがあります。私が同僚Aに「さっき支社のBさんから電話があって、例の件はコンプリートだから大丈夫だと言ってたよ」と伝えると、Aは「あ、コクンクリートね。がっちり固めたってことか、よしわかった」・・・?これは聞き違いなどではありません。Aは「コンプリート」を知らないことを結果的に自ら表現してしまっているのです。こうなると、私はコンプリートの語の説明などできないことになります。また、私の作成した書類の文中に「喫緊の課題」のフレーズを使ったところ、当時の上司が私を呼んで、「君、なんか違っとるよ、ここおかしいよ、ハハハ」。と、笑っていました。「喫緊」を初めて見たのでしょうね。私としては上司のプライドを傷つけないように、そういう用語があることを伝えなければなりませんでした。この人は、一生このことは残ることになるでしょうね。

さらに、業務で頻発するのは「その件は、後日文章で連絡します」などのメール文です。ここは文書と書くべきです。私は感覚的に受け付けられません。
間違いかどうかと言ったら間違いとは言い切れないところがあるのですが、私の感覚は「文書」です。
これって、目上の方に「ご苦労様です」という指摘と似たり寄ったりの感じとも言えましょうか。いや、違うでしょう。もし、「文章」で良しとするなら、ここは、明確に、わかりやすい文章で、しっかり文書で表明して頂きたいところです。

話が逸れました。たまたま私は覚書の読みを知る機会があったのでしょうか。逆に、一生関わることもなく、読めもしないことになる分野の用語はあるのだろうと思います。
私は知識としてどうのこうのではなく、居島氏との感覚的なギャップを強く感じるのです。
その後、別の同番組でもう一度「カクショ」は登場しました。さらに、その後別の最近の番組で氏は「オボエガキ、カクショ」という言い方をしました。読みを意識しているもののご自分の中で確定していない、それが表れていました。

また、同番組で前半が終り、後半に移ろうとする仕切りコメントで当日の二人の解説者への敬意を込めて、司会者居島氏は「後半もお二人がニュースをズバズバ斬りまくられます!」と毎回コメントしています。これも私は以前から、違和感を感じています。「斬りまくられます」って何?
番組が始まる時も当日の解説者がスタジオに現れると、「あ、お見えになられました」と言います。間違いとか、そういうことではなく、私の感覚と合わないのです。敬語の感覚が合わなさ過ぎるのです。私の感覚からすれば堪えられないのです。「お見えになりました」「斬りまくっていただきます」でよかろうに。

もう一つ、タイトルコールの抑揚の件があります。
日によってテンションのかけ方が違うのです。ということは、居島氏はこのことを意識していない、と思います。意識していたら、毎回最善のパターンでコールするはずですから。
ちょっと矢印で図式化してみます。「真相深入り!虎ノ門ニュース」のタイトルコールの抑揚です。毎回↗️であるべきと私は考えるのですが、日によっては➡️であったり↘️であったりするのです。「真相深入り」はほぼ棒読みでいいと思うのですが、「虎ノ門ニュース」の部分を、特に「ニュース」の「ニュー」の音程を↗️上げるのがいいと思うのです。平坦に「ニュース➡️」と読んだり、「ニュース⤵️」と下げる場合もあるのです。

畏敬すべき芸人さんですが、感覚的な私とのズレに触れてみました。もう一つ、三島由紀夫のバルコニー演説の物真似は、三島の最後の悲哀を表現し得ているかもしれません。私は見るに堪えないという思いを感じつつも、居島氏が演じることによって、鎮魂の域に達しているとも感じることができます。歴史に対する深い造詣があればこそ表現可能と言うべきです。並みの芸人にはけっしてやってほしくないモノマネです。

リスペクトする司会者に「感覚が合わない」と迂遠な表現をとりつつ批判をぶちかますのは、やはりタブー破りと言っていいかもしれません。★