韓流メソッド [その1]

2000年代、韓流大ブームがありました。

「冬ソナ」を筆頭にあのブームの頃、ある年輩女性から、その世界のすばらしさへの熱烈な思いを聞かされました。しかし、その女性のレコメンドにも関わらず、私の気持ちは韓流に1ミリも動くことはありませんでした。まったく関心がなかったのです。ラマにかぶれた人々を相手に、その延長線上で韓国旅行ツアーが組まれるなど、ちょっと理解に苦しむ現象という感じでした。

そんな私でしたが、2013年頃だったと思いますが、
たまたま「トンイ」を見てしまったのです。確か、
国内のドラマがつまらなく、ちょっと見てみるかというノリです。番組に対する事前情報とか、女優の知識とか、一切ありません。
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しかし、私は、今また「トンイ」を観ています。
たぶん3回目になるかと思います。もうすぐ最終回のところに差し掛かっていますが、これは一体どういうことでしょうか。子役を務めたキム・ユジョンは、今ではすっかり妙齢の女性になりましたね。主役のハン・ヒョジュはもう33歳ときています。この作品が制作発表されてから10年ぐらい経っているということです。

韓流に限らずですが、その世界にはまった場合、ありがちなのはシフトの方向として、そのドラマの男優女優を詳しく知ることや、撮影の舞台に実際に出掛けることなど、いわゆるファンとしての行動に及んだり、あるいはドラマのマニア的方向としては、監督や脚本家の名前に精通したり、制作費や制作日数とか裏事情に明るくなるなどがあるように思います。

韓流ドラマの作り方

私自身韓流にかぶれたことは認めた上で、上記のような興味からさまざまにシフトして話題を広げ得るものの、今現在、韓流についての最大の関心事としては、その「ドラマづくりの方法」といったあたりのことにあります。日本のドラマに慣らされた身からすれば、韓国のそれは、極めて新鮮に映ります。そこには、全く別世界が広がっているのです。

しかし、注意しなければならないのは、そのドラマを知っている者同士だけに成立する会話に陥らないようにすることだ、と考えています。別の言い方をすれば、韓流ドラマを観たこともない方に、どうやってそのおもしろさや、魅力を紹介し伝えるか、ということです。
ストーリーのおもしろさを伝えるのではなく、また観ればわかることをリピートするのでもなく、そこにある韓流独特の手法という分野をクローズアップしてみたいと思います。それはすなわち、ドラマの再現記事を書くのではなく、記事として固有のバリューを持つよう試みることになるかもしれません。とはいえ、ドラマの内容に触れずに語ることはできないわけで、そこが難しいところではありますが。

それに、韓流ドラマに魅せられているといって、韓国文化すべてを礼讃しているわけではありません。何せ「反日種族主義」の国です。ディスりだしたら止まらなくなるほどですが、ドラマに限っても、むしろ、つまらないものが山ほどあります。

よく知られたことを一例として言えば、韓国には19世紀まで染色技術がなかったようで、そもそも染料が乏しかったらしい。つまり、絢爛たる時代劇のあの衣装のことですが、あれは現代の視点からの創作物として見るべきでしょう。ファンタジーとして観るべきは定説となっていると言うべきでしょう。衣装はもとより建築物にしても、あのカラーリングのセンスは、どうみても現代の匂いがプンプンします。*

時代劇と言える?

「宮廷女官 チャングムの誓い」で、私はあっけにとられたことがあります。それは、時代劇なのですが、今で言う看護士の女性の服装に関して、頭部に付ける物のデザインが「ナースキャップ」なのです。時代劇用に創作されたであろうデザインとして出てくるのですが、そこだけ現代感覚が出現して、白けます。

アクションなどでも、それは現代のポーズでしょ、と言いたくなる動作を、時代劇の中で平気で演出として使ったりします。
このようなことからだけでも、韓国の時代劇は我国のものとは違うことは、十分に感じられると思います。たぶん「時代考証」などという概念は存在しないのでしょう。

すでに、ここまでで鼻白むでしまうかもしれませんが、私は「韓国だいすき」記事を書こうとしているわけではないことを、ちょっと言いたいだけなのです。その上で、韓流ドラマならではのおもしろさがあることも間違いなく、そのドラマづくり、ストーリーのつくり方、演出等、そのあたりのことに迫ってみたいと思っているのです。

三大方針

まず、三つの大方針があるように思われます。
①わかりやすさの追求(明快性)
②美的追求(審美性)
③おもしろさの追求(狭義のエンターテイメント)
ということで、要はエンターテイメント(広義)が目指されています。

わかりやすさの追求とは

テーマ、ストーリー、会話や表情の演出等、すべてわかりやすさを志向しています。
「トンイ」がどういうお話かと言えば、
・ 賤民の娘と、国王とのラブストーリー
・トンイの正義が悪を克服するサクセスストーリー
・利発でアクティブな女性が、偉大な母となる物語
などとなりましょう。
物語の主軸は明快であり、そのメインテーマが貫通しています。まずこのわかりやすい話の幹があった上で、枝葉となるエピソードが展開するこの構造のことです。

また、善玉悪玉がはっきりとしていて、善対悪の戦いの構図で物語は進展します。ストーリーは、善対悪のシーソーゲームに過ぎません。ですから、早々に善玉チームが勝利することは決してありません。何故なら、ストーリーがそこで終わってしまうからです。視聴者は基本的なこの構図をわかって、わかった上で、観ているのです。

韓流の大きな特徴として回想シーンの多用も上げるべきでしょう。「また回想?」という具合に頻発します。
しかし、これは回想なのでしょうか。私はこれは、
脚本家の戦略の一つだと見ています。回想の形を使って、その人物の想いを念押しし、確認させたり、その結果聴者にその人物へ感情移入させる効果になっているように思われます。
登場人物の今現在の心情を強調することで、視聴者の気持ちまで牽引し、物語の流れに誘導していこうとする、制作者サイドの意図と考えられます。説明的ではあっても、わかりやすさを重視しているともとれます。

会話のセリフについても、そこまで言うかと思わせるほど、ある意味徹底しています。
私の感覚では、日本のドラマや、日常生活 ー これは私の個人的な感覚かもしれませんが ー 1、2まで言ったら3は言葉にしなくても伝わるという感じがあります。私の個人的かもの部分は除外しても、谷崎潤一郎が「含蓄」を語っています。実際に日本のドラマが含蓄を踏まえてセリフ構成をしているかどうか、などではなく、韓国と日本とでは、文化的背景の違いを感じるのです。

ここまでやる?

「トンイ」の中から具体的に見てみます。
トンイとオクチョンとはコンフリクト構造の中で物語は進むのですが、終盤オクチョンの悪さ加減が確定します。ドラマの視聴者は、ついに「悪」の権化オクチョンが絶体絶命もう逃げられなくなった状態で、内心「やっぱり悪はこうなるさ、いいきみだ」と感じているそんな場面(54話)です。
その上でもなお、トンイをオクチョンに会いに行かせるのです。そして、トンイはオクチョンに、なぜ自分と息子を殺そうとしたのか、謝罪を求め、理由を正すのです。視聴者はもう、すべてわかっているのにです。
対立する二人のいわば総仕上げ、「光」対「影」の最終場面をわざわざ演出し、それぞれに最後の言葉を語らせます。
トンイ「悪に走らず、いくらでも修正できた筈ではなかったのですか」
オクチョン「宮廷は信用できないところなのだ」
死刑が決まっているオクチョンに、最後のコメントを引き出すという、この設定の構成。
ドラマは流れがあるので、このように一部分だけを指摘されてもピンとこないと思いますが、ドラマ中
何度も「ここまで言わせるんだ」と感じさせるシーンがあります。
まるで手紙の「追伸」のように、すでに触れたことでも、再度念押し、強調する「超説明」。多様な受け止め方を排除して、制作者の表現意図を100%
わからせようとする意志。視聴者の表現解釈力を信用していないかのような、小学生にでも伝えきろう
とする徹底ぶり…。ある意味劇画的、漫画的なストーリーづくり、そんな感じがします。明快性とともに簡易性もあるかもしれません。

とはいえ「トンイ」の物語中、この場面は最大の山場と言ってもいい箇所になることも事実です。トンイが子供の頃オクチョンと運命的な出会いを経て、最後に国王の側室の座を守りきるその勝負、双方が生死を分けるその勝負、「光」と「影」の勝ち負けの決着、この白黒をつける、相撲でいえば「結びの一番」であり、実はトンイがオクチョンと出会った時、この結末はコントラストとして周到に用意されていた、というか、この結末から逆算してそれまでのストーリーが構成されてきた、とも語れないこともない、制作者にとっては、絶対にはずすことはできないゴールでもありましょう。説明的であろうがなんだろうが、この二人の最後の会話へ向けてドラマが収斂してきたという面もあることは、間違いないことではあります。★

*韓国の文化・生活の劣悪ぶりは、古典的なところでは19世紀の紀行作家イザベラ・バードの著作、最近では百田尚樹著「今こそ韓国に謝ろう」などで描かれています。

付記
「わかりやすさの追求」について、まだ半分も書けていない感じです。
次回へ続けましょう。