素人視点  本コラムについて②

「大言壮語その2」という感じになりましょうか。
私は、緑の星コラム星より地球の日本国に赴任することで、自分のミッションを果たそうとしています。人間としては、1970年に没しました。

その後コラム星で輪廻転生を果たし、日本に着任した際に、一気に人間時代の記憶が復元しました。
ご覧の通りただのオヤジですが、コラム星人として
数年の文章トレーニング期間がありました。最終試験の結果、専門家としての教養が不足しているとして、「素人」身分が確定しました。

コラム星は厳しいもので、地球のMBA取得ぐらいのIQと教養が身につくまで待ってもらいたかったのですが、時間切れ(生存余命)で、銀河系に放り出されたのが実状です。

日本着任後、最初に私が取り組むべきは、思想的基盤を構築することでした。今回はこの話が中心になります。

事を書き終えくつろぐコラム星人スンガー
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「素人」身分といえど、それなりの戦略がないとコラム界では戦っていけません。
IQや知識や教養でハンディキャップを持っているのですが、それなりの工夫が求められるわけです。頭の回転は遅くても、時間をかければ考えることはできます。知識は専門家とは比較にはなりませんが、専門バカになることはありません。自分なりの戦う方法論が必要なのです。

この時一番やっかいなのは、才能の問題です。私に才能があれば、スイスイとコラム界を泳いでいけるでしょう。結論から言えば、「自分なりの戦う方法論が必要」と思った時点で才能なし、から出発しています。才能の有無の評価は第三者が決めればいいことです。当人としては、そこは意識の外に置けばいいことなのです。

素人視点の事例

理論的な説明ではなく、具体的な事例を紹介してみましょう。
まず、コラム「藤沢周平の愉楽にひたる②」(ラインブログ公開済)では、短編小説集「たそがれ清兵衛」を題材にしていますが、この8編からなる短編集について、「たそがれ清兵衛の分解」としてマトリックスを作成、各作品ごとに①主人公②舞台設定③章立て④主人公のモチベーション⑤関わる女人⑥ストーリー⑦山場⑧大団円⑨メインテーマ⑩評価の項目ごとに分解、分析しています。⑩評価は5点満点で採点しています。*
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これを批評の方法論として採用しています。このマトリックス自体が方法ではなく、これを基礎として、論拠に据えて、分析を加えることを言っています。「分解」に基づいて「分析」する手法として定式化を試みています。これは、作家の創作過程を再現するようなもので、作品を解体することと同義でしょう。作家にすれば、自分の思考プロセスをなぞられるようで、不快感を持つかもしれませんが、批評とはそういうものです。
プロの文芸評論家が採りそうもない、素人の批評のメソッド例ということです。この分析に基づいて
小説への総合評価を5点満点で採点してしまうことも、作品を相対化するにはおもしろい試みでしょう。これは、文芸評論家福田和也氏の方法論を借用しています。この借用や引用の明示も、素人としての当然のことです。

小説作法として読めるという点では、小説家志望の方には興味深く見ることができると思います。上記の各項目のバリエーションを考えれば、藤沢周平に連なる小説を書ける理屈になります。もちろん、この要素は骨格の部分ですから、藤沢周平の文章の筆致、コクは真似できるかはわかりません。もちろん藤沢亜流小説を書くより、オリジナルをめざすべきでしょう。

もう一つだけ事例を挙げますと、はてなブログに載せた「抒情の意味」があります(公開済)。これは財津和夫氏の往年のヒット曲「WAKE UP」を題材にしたコラムです。
この曲の歌詞は少しわかりにくいところがあって、その解釈について、ネット上で議論になっています。以前から、どの解釈も私は合点がいかなかったので、一コラム記事の中で詳細に私の分析を加えたものです。

プロの音楽評論家が取り上げそうもない題材に着眼する、これも「素人視点」ということです。音楽評論家の湯川れい子氏やピーター・バラカン氏が財津和夫氏の歌詞を論じるとは考えにくいことです。

このようにフォーカスを当てる対象をもっと広げていき、専門分野が確立していない分野であれば、専門家と競合することもないわけで、また専門分野であっても多様な隙間があり、理論的には広大なマーケットが広がっている可能性があります。うまくいけばブルーオーシャンを見つけることができるかもしれません。

基本スタンス(修証一如)

2020年現在、インターネットメディアの隆盛は凄まじいものがあります。昨年私はメンタリストDaiGoの存在を知りました。比較的短時間のYou Tube動画で夥しい知識や情報を提供しています。かつ、彼はきっちりブログで文字情報でも公開しています。

イムリーにその時々の話題を解説したり、批評を加えたりしていますが、主たる内容は世界の様々なな研究論文の紹介・解説と見ます。彼の言説のエビデンスとして使っているのです。ここだけに焦点をしぼり彼を規定するならば、情報解説キャラを演じているのではと思います。ビジネス的に言うなら情報紹介・解説業を立ち上げている、そんな感じです。「情報解説」という、他人の言説を活用するだけで新たな地平を切り開く、その点に着眼したいのです。アイデアが重要です。

実際はそんな単純ではなく、インテリユーチューバーとも言えるし、タレント性もあります。時事的なネタをすかさず拾い上げてくる感度や、見識豊かでIQも高そうです。あれだけのスピードで話して、意味を伝えきるとは、ちょっと驚きです。

ここで強調したいのは、彼のようないわゆる「優秀」でかつ、「才能」ある人間でさえ、人の研究成果をエビデンスにして、自分の論陣を張るという程度の話だという点です。こき下ろす点にポイントはなく、そういう自分なりの手法の開拓のことを言いたいわけです。ノーベル賞級の発明発見が必要ではない、ということです。

そういうアイデア・着眼に加えて重要なのは、「継続」です。才能を身につけるなどと言うのは至難というよりそういう発想自体が間違っている、と思わせるニュアンスが「才能」の本質として感じられます。才能を入手しようとしてがんばりようはないけれど、「続ける」ことは挑戦しようがあります。
ひょっとしたら続けられることは、「才能」が牽引しているのではないか、その証しではないか、とさえ思えます。

道元は14歳で出家しています。三島由紀夫は10代から小説を書き続けました。小松茂美は高卒後、自力で勉学、85歳まで古筆学の研究に邁進しました。白川静は73歳から10年計画で取り組み「字統」「字訓」「字通」を完成させています。
宇多田ヒカルも、松任谷由実も、若い頃から作詞作曲し、歌い続けています。

ここから導き出されるのは「継続」が「才能」を導き得るのではないか、ということです。「才能」は努力しようがないけれども「継続」は取り組みようがあることに着目したいわけです。

「才能は人の評価に委ねればいい」と宣った私が、
結局こんなに才能に拘泥しているように受け取られそうですが、そうではなく、才能ある人が獲得する成果を、どうすれば自分のものにできるか、という模索研究なのです。
本当は「継続が才能をつくる」と言ってしまいたいのですが、それは飛躍でしょう。継続を通して才能に近づく、細い道はあるような気がします。

洞川院(曹洞宗/宮城県
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また、継続して打ち込んだからそれが評価されるかどうかを気にするものでもありません。
継続して打ち込こむことを、道元の「修証一如」のように修行僧がひたすら精進するように、いわば望まずに、陶冶していくことに身をおく、という自分の在りかたのことです。その行為自体に自足し、それで世界が満ち足りているような境地です。
有効性がなくても戦わなくてはならない時があるように、これは哲学の問題というべきです。

素人視点の思想(民芸)

インターネットはわれわれ素人にも、メディアを賦与してくれました。発表機会としては、プロアマ関係なく目の前に置かれています。

ここで、専門家(プロ)と素人の違いに触れておきたいと思います。

・対象領域ですが、素人は専門家が立ち入らないゾーンでも入っていけます。隙間でも入れます。
広大なマーケットがあるかもしれないとは、すでに触れました。

・プロではないので、業界の通念や常識に支配されず大胆な言説が可能です。
例えば考古学界は左派思想が支配的と聞きます。弁護士界は「日弁連」が牛耳っているのは、よく知られるところです。

・プロではないので、業界の利権構造に束縛されない自由な主張ができます。
例えば新聞記者は、新聞業界の軽減税率を糾弾する記事は書けないでしょう。押紙問題についても同様です。自社の脛をかじることはあっても、自らの脛を自分で断つことはできません。

・プロではないので、売れることを気にする必要はありません。収入につなげるために売れる題材、テーマを追いかける必要はありません。

  以上を確認の上で、素人視点の思想の、その内容として「民芸」をコンセプトとして展開したいと考えています。

「民芸」は柳宗悦が提唱した民衆の工芸品に美を見出だそうとした運動でした。私はこの概念を換骨奪胎しようとしています。
この既存の概念を転換して使う手法の良し悪しはわかりませんが、本歌どりとして考えています。パロディに趣旨があるのではなく、別意義を装填させることに主眼があります。
もし、専門家の駆使する論理構築としてこの方法がメジャーではないなら、この立案手法も素人視点のものとしている、と申し上げましょう。
マーケティング・広告などの企画書では散見される
手法です。わかりやすさと、説得力と、波及性を求めているように思われます。

柳宗悦は庶民の普段の生活に、手づくりの品々に美を探索していたとされます。柳宗悦の場合は
「民」⇔ 民衆
「芸」⇔ 美
です。
私の言うのは
「民」⇔ 素人
芸」⇔ 論
となります。

私は、自らの言論をコラムを通じて表わしていこうとしています。
これが私がコラム星人として、この日本国におけるスタートラインで確認している考え方です。

そもそもの「民芸」のように運動を起こそうとか、そういうことではなく、インターネットメディア時代の潮流にあって、「民」=素人がメディアを装備している今、「芸」=論を推進していくという決意についての、自己確認のようなものです。私の個人的なつぶやきに過ぎませんが、コラム星人として自覚的な振る舞いこそ、あって然るべきと思っています。

知識のハンディは重々知りつつ、専門家からの指摘があればそれは是非お願いしたいところです。それもどんどん自らの肥やしにさせて頂く所存です。そういう意味では、情報、論理の行き交うステージであり、制作者のリテラシーがすべてといって過言ではないでしょう。基礎になるのは、国家観であり、戦略思考であり、論理である、と考えます。

志だけは高く、コラム星の高みから地球を見下ろす私だけの視点を、常にたずさえて。

ご託はこのぐらいにして方法論や理屈よりも、実際のコラムを通じて表現していくべきでしょう。★

蛇足
*表の記載内容が読めないので、PDFにしたものをリンクを貼ろうと悪戦苦闘したのですが、うまくいっていません。現状は確か、エクセル→スクショ→ペイント→記事中にとり込み、ですから、写真データになっている状態です。

今日、ひと様のブログ(PC)を拝見していて、テンプレートなのか、オリジナルなのかは分かりかねますが、しっかりデザインされたものは良い、と感じました。ブログを意識し出した頃、やたらデザイン性だけに目がいっていましたが、改めてこの課題を
考えるべきかもしれません。有料ブログも視野に入れる・・・?
デザインと併せて前回投稿の「本コラムについて①」で勝間和代氏の指摘に触れたように、閲覧をアップさせるシステム面での一工夫が必要かも、とは思うのですが・・・?