韓流メソッド [その2]

韓流ドラマの大方針の一つとしての「わかりやすさの追及」について続けます。

「トンイ」では、何やら不可思議な予言者が登場します。また、怪しげな占いを行なう祈祷師も登場します。こういう道具立ては意味深な感じがして、興味深く感じられます。

で、結局、予言者や占師の言う通りにストーリーが動くことになります。彼らがドラマの中で、どういう役割があるかと言えば、私は、「劇中内解説者」と捉えています。まさか、ドラマ中に、現実中の解説者が割り込んでストーリーをあれこれ語るわけにはいきません。今さら昔の弁士はないでしょう。
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予言者は、トンイと会った際に彼女の将来の可能性を見抜きます。「光」の存在となることを予言します。トンイ自身に対してではありません。あえて言えば、視聴者に対してです。一方、オクチョンと出会った時は、彼女には「影」となることを言い渡すのです。

超説明

わざわざ、ドラマ中でストーリーをわからせるような仕掛けは理解できませんが、これも視聴者に対する「超説明」の一つとして考えるしかありません。
説明的になることを薄めるために、「予言者」や「占師」という道具立てを用いて時代劇らしさを演出しているものと思われます。

因みに、日本においては「説明的」表現は評価されない文化があると思っています。特に文芸では致命的でしょう。前回すでに触れた谷崎の「含蓄」とも関連する性質のことだと思いますが、説明的な説明は、「表現になっていない」として批判される類の事柄です。韓流においては、エンターテイメントなら何をやってもいいというポリシーを感じさせる一例です。

また、トンイに対しては本人には予言を告げずに、オクチョンには告げる、その意味ですが、視聴者に対してトンイは「持っている」感を出す効果として使われ、オクチョンはそれを告げられてもドラマ中では、自分で「自分は影などではない」と否定します。視聴者は、予言者からオクチョンが影であることを知らされるわけですから、『否定したってお前は悪役だからきっと滅びるのさ』と心理誘導させられます。

このように韓流では、視聴者の心理、しかも、極めて人間臭い劣情を刺激する効果を巧みに操る面があります。そこに国民性を見ると言っても、韓国をディスることにはならないでしょう。

ストーリー自体も、現代のこの国の政治状況が、感覚的に納得できることばかりです。事実は関係ないのです。そこを利用する利害関係の感情と、お金で動くだけの方たちのように見えます。

ファクトのない世界

この意味では、韓流ドラマを観るとあの国がどういうことになっているのか、本当によくわかるような気がします。

一旦話が逸れますが、数日前ある番組でこんな報道がありました。
韓国は日本に対して、慰安婦問題や応募工問題など、ないことを「創造」してわが国から金をくすね、また、そうしようとしていることは周知の事実ですが、先般のレーダー照射問題では、白を黒という完璧なクリエイティビティが曝されましたが、今また軍艦島に関して、同じような反日の動きが出ています。その反日とは、なかったのに朝鮮人差別があったと騒ぎ立てる、韓流ビジネスに他なりません。

番組では、ジャーナリスト大高未貴氏が、韓国のジャーナリストが産業遺産情報センターに取材した際に、日本側の説明者から軍艦島での強制労働等は事実としてなかったと説明しているにも関わらず、韓国側はそこをすっ飛ばして、捏造報道していることをあばき出しています。

特に、その韓国女性取材者の映像ビデオをみるにつけ、マスクをし、目だけはにこやかに、「せめて、被害者の気持ちに寄り添うことはできないのか」とセンターの館員に語る姿に、この国の腐れ具合いを目の当たりにしました。

要は事実は関係ない心性なのです。

下世話な脇役の存在

閑話休題。「トンイ」には、彼女の半ば家族的な役回りで、掌楽院に務めるちびのファン・ジェシクと、のっぽのヨンダルが登場します。父や兄に先立たれ身寄りのいない彼女にとって、不遇な目に遭っている時には何かと心配してくれ、良いことがあった時には本当の家族のように喜んでくれる、かけがえのない存在です。彼らの感情表現は結局トンイの感情を強調する効果を持ちます。トンイの気持ちの代弁者、気持ちの増幅装置と言っても良いでしょう。

トンイの敵方にもそのような下世話な存在を置いています。無能の父子として描かれるオ・テプンとその息子オ・ホヤンです。オ・ホヤンは、トンイの美貌にぞっこんで、その入れあげ方が尋常ではありません。無能である設定により、自身の思いを恥ずかしげもなく表出するキャラづくりをすると共に、そういう男の存在を通してトンイの美貌が稀有のものだということを強調する効果を持ちます。

これらも、「トンイ」の物語をわかりやすくすることに資することにつながっていると考えられます。たえず庶民目線を当てることによって、明快さの獲得に役立っていると思います。

表情のパターン化演出

韓流は逐一、すべからく視聴者の感情に働きかけることに心を砕いているように見えます。
それは、俳優の「表情のパターン化演出」にもそれが見られるように思います。ここでは「振り返りの表情」を見てみましょう。

例えば、トンイが国王と会った後、そこの建物から外へ出た一歩目で振り返り、表情がクローズアップになります。王様と話し合ったことを振り返り、それを反芻する瞬間として、首を傾げ、今出てきた部屋を振り返るのです。

例えば、終盤になって風見鶏的悪役として登場するチャン・ムヨルなどにも、この演出が使われます。自分の策略が計画通りにいっていて、しめしめといった場面で、この「振り返りの表情」がでてくれば、視聴者はこの先のトンイへの不安が高じてしまうという効果を持ちます。

歌舞伎で「見栄を切る」というパターン化された仕草がありますが、私は、「トンイ」に多用される「振り返り」クローズアップ場面に、それに似たものを感じぜずにはいられません。

登場人物の心理的強調、念押し、確認といった演出として受け止められますが、これも、わかりやすさに供するものになっていると考えています。

美的追求とは

この美的追求についても、視角、聴覚的なことに留まらず、かなり拡大してしまうと、際限がなくなってしまいそうです。ここは、映像、カメラワーク、音楽等の部分に限って触れてみたいと思います。

最初にお断りすべきは、「ファンタジー」を前提とするということです。「韓流メソッド [その1]」で触れた歴史的事実ではないとか、時代考証云々といったことは看過しての話です。

まず登場人物の服装のきらびやかさは見ものです。トンイ自身に限っても、立場がステップアップしていくにつれ、その変容ぶりは蝶々が脱皮して、美しく変身を為し遂げるかのごとくです。わけても、彼女が晴れて王宮に入る時は、圧巻というべきでしょう。古風で豪奢というのではなく、服装のスタイルは時代的なものではあっても、その色使いやデザインは現代感覚的に美しいと感じられます。制作者は
ここで明らかに山場を作っている、そう感じられます。

この時、カメラはトンイの乗った駕籠に対して、引き、かつ低い位置の状態から並行移動します。このカメラワークが効果を上げていると感じられます。さらに、チャン・ナラの歌うテーマソング「チョネジア」が哀切なメロディでドラマを支配するという盛り上げを構成します。

その上で、この場面について誰かが書いているとか、語っているとかは知りませんが、明らかにシンボリックなワンシーンになっている、トンイが駕籠から足を一歩踏み出す、「名場面」になります。
特に、そのトンイの履いている鹿革の履物には意味があって、それが効くワンカットとなっています。

トンイだけではなく、正室や、敵対するオクチョンなどとの服装の描き分けが、実によく練られていると感じられます。それぞれの立場を巧みに表現するものとなっていて、この徹底ぶりは見事というしかありません。

もちろん、女性のことばかりを言っているのではなく、両班や従事官等においてもです。おそらく、女性視聴者にすれば、王様はもちろんのこと、左捕盗庁従事官のソ・ヨンギや、トンイの事実上の兄といえるチョンスには、たっぷり魅了されていることでしょう。

私は、エンターテイメントについての韓流の徹底ぶりには、日本は負けていると思っています。ドラマに限らず、音楽のMVなどを観てもそう思います。最近、何かのネット記事で同じような意見を見つけましたが、ダウンロードを忘れました。あれは、誰だったか?その論調は、韓流に学ぶべきだ、という指摘でした。

美的扇情としての音楽

「トンイ」には何曲も音楽が使われます。
何となく5~6曲くらいかなと漠然と思っていたのですが、あらためてチェックしてみると、正確ではありませんが、20曲くらいになると思われます。何故こうなるかというと、メインの音楽以外に、さまざまな場面で効果音ならぬ効果音楽として使われるものがあるからです。

音楽を文字では表わしにくいのですが、効果音、効果メロディとしての機能では、その使われ方で、説明することができます。

まず、なんと言ってもこれは名曲と呼ぶことを躊躇しませんが、すでに触れた「チョネジア」をあげるべきでしょう。この曲の情感に匹敵するものといえば、映画「ロミオとジュリエット」(1968年)で歌われた「What Is A Yoots」あたりかな、と…
「チョネジア」はトンイ自身のテーマ曲のようなものですから、恋しい亡き父や兄はじめ、王様を想う時に繰り返し流れます。

私は、日本の映画やドラマで、「うるっ」とくる場面のあるものを想起して、意外に出てくるものがありません。もちろん、忘れているのでしょうが、あえて言えば、松本清張の「鬼畜」のラストシーンで
の切迫感というか、憤りに充ちた、哀しさが浮かぶぐらいです。もちろん、「 トンイ」の場合とは、哀しみといっても、かなり意味合いが異なります。映画音楽・ドラマ音楽で「チョネジア」のような情感の系譜に連なるものが、何かあったかと想うのですが、ジャンルを移せば純粋な音楽畑では「クリスマスイブ」(山下達郎)などがそれにあたるでしょう。

「チョネジア」以外では、それぞれにタイトルはあるようですが、使われる頻度の高いものでは、というか、頻繁に使われるものが耳に残っていると言うべきかもしれません。

ドラマの最初の方でトンイの兄が掌楽院の楽師として登場する場面がありますが、この場面も極めて印象的なシーンになっています。彼女の兄も普段は賤民なのですが、もう一つの顔、掌楽院の楽師を表現する際に、映像は一瞬で賤民から楽師に転換させます。この時、流れる雄大で壮重な音楽が、場面の切り換えを見事に演出してくれます。何と言うか、希望に充ちた感覚、トンイの兄も堂々たる人物なのだ、といった表現として功を奏していると感じられます。

あとは、男性ボーカルで切ない曲があり、これはトンイや国王の淋しさの表現として使われたと思いますし、また、確かトンイの子供クムの登場する場面などで流れたと記憶する、気持ちを弾ませてくれる子供の合唱曲、「♪サラン、サラン…」とうたわれる歌が印象的です。

ここまで、ドラマにおける機能面から音楽を表わしてみていますが、何らかの形で感情を揺さぶってくれる音楽を「美」として解釈しても良いものと思っています。★

付記
韓流ドラマの制作ポリシーの第2番目「美的追求」についてはこのぐらいにしまして、第3番目「おもしろさの追求」については、次回へと続けましょう。