プロがふるいに掛けられる日

プロはアマとは違って、その道の仕事で金銭を得て生活をしているとともに、それだけ専門的な知識や技術がある人、と考えられます。仕事内容は様々ですが、その道の専門家と言っていいかと思います。
プロの呼称は、スポーツなどの分野で使われる場面が多いように思いますが、大学教授も特定分野の専門家であるとともにプロであり、国会議員も政治の専門家であるとともにプロであり、芸人も芸の道の専門家であるとともにプロと言えます。ただし、芸人については駆け出しで喰えない場合はプロとは言えないことになりましょうか。

一方アマとは、いくらゴルフが上手でも他の仕事で生計を立てている場合はプロとは言えません。同じように、例えば社会学の知識が大学教授のようにあったとしても、大学からの収入で暮らしていなければプロとは言えないでしょう。

ところで、インターネットメディアの普及は凄まじいものがあるように思います。メール、チャット、ブログ、ツイッター…これらはSNSと言ってもいいのですが、特に昨今の動画配信サービスには、暴風雨が吹き荒れているかのごとくに思えます。昨年あたりからのユーチューバーの爆発的増殖は、多くの方が感じていることではないでしょうか。

作家、評論家、ジャーナリスト等そもそもプロとして表現の場を持っている方達が、一斉に個人ネット番組を開設しています。プロとは限らずアマチュアも、公開済み情報を再編集して、顔を出すにしろ出さないにしろ、ユーチューバーとしてチャンネルを公開しています。そんな中、芸人ユーチューバーも話題ですが、アウトドアライフをネタにしたヒロシや、オリラジ「中田敦彦You Tube大学」が大ヒットしているようです。

牛タン(馬肉が牛タンの人気をめざしたが…)
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馬脚を現わした中田敦彦先生

中田敦彦氏の場合は2020年9月半ば現在で、チャンネル登録者数290万人となっていて、これは大成功と言っていいでしょう。
昨年、堀江貴文氏の番組中で中田氏は、そろそろ企業がユーチューブのビジネスモデルに目をつけていて、個人がチャンネル開設するなら今のうちだ、といった意味合いのことをコメントしていました。今の状勢をカッチリ捉えていることを、なかなかだと思ったしだいです。といっても、私は彼の「You Tube大学」を一度も見たことがありませんし、見る気もありません。

今月、見る気もしない私の勘を裏づけるように、新たな動画番組ができその番組は「韓国の嘘に乗ったオリラジ中田敦彦」をアップしています。これは、月刊誌の「正論」が「チャンネル正論」の配信を始めたのです。
その中で、中田氏は韓国の応募工問題に関し、強制連行や強制労働があったと教えていることが、批判されています。慰安婦問題についても同じです。性奴隷などと教示されているようです。どちらも、事実ではないことを全くご存知ないのですね。

こんな間違いをYou Tube大学」などとして、多くの視聴者に垂れ流すことは、明らかにミスリードです。視聴者は、おそらく芸人としての彼を信奉する若いファンが大半でしょう。そもそも学校教育の中で、正しい歴史をしっかり教えられていないだけに、その分野の最初の学びはかなり深刻でしょう。それは、高学歴の中田氏も同様です。池上彰氏の韓国本をテキストにしているようですが、すでにこれがヤバいことです。
実は、チャンネル正論の指摘を待つまでもなく、およそ半年ぐらい前に、この中田氏の誤ちについては
上念司氏が一瞬で狙撃していた事実もあります。

そもそも中田氏が何故ユーチューブを始めたかは知りませんが、芸人であることの先を見据えていたのかもしれません。芸人としての人気を活用し動画大学の教授になることをプラニングしたのでしょう。
それは、ある面ではうまくいったわけですが、歴史のプロとはいえない実態が明らかになりました。ちょっと、これでは笑いがとれない、というより笑われてしまいますよね。

といっても、韓国の捏造歴史に加担する我国の大学教授がいるという点では、中田先生ばかりを責めるのはよくないかもしれません。そういう反日教授とは違い、中田先生が早く目覚めることを願っています。勉強不足の馬脚が現われましたよ。

自ら立ち上げた「You Tube大学」の教授として、こんなにチャンネル登録者数があれば、一定の広告収入がありユーチューブのプロとは言えるでしょうが、歴史の専門家のプロとは認定し得ないところです。何か資格的な裏づけがあるわけではないので、
一回一回のレクチュアのクオリティだけが内容を保証しているといえます。その意味ではYou Tube大学」の看板が傾きつつあると言われてもしようがないでしょう。ただし、訂正レクチュアをすれば、看板の傾きは直せるかもしれません。

萩の月(恥の満月かもしれない)
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お里が知れる石垣のりこ先生

立憲民主党の石垣のりこ代議士先生の悪辣ぶりについては、言うまでもないことでしょう。ツイッターで、耳を疑うような腐臭漂う発言、噴飯もののツイートを発信されています。昨年は髙橋洋一氏をレイシストと差別発言して物議を醸しましたが、最近は安部首相の辞任に際して「大事な時に体を壊す癖がある」などと本来であれば、党除名相当のツイートを為されました。

宮城県民はさぞかし肩身の狭い思いをされていることでしょう。石垣先生は宮城県仙台市の出身です。エフエム仙台のラジオ放送局アナウンサーからの大躍進だったわけです。
宮城県、ラジオアナといえば、地元の方ならピンとくることがあると思います。元東北放送(ラジオ)アナウンサー岡崎トミ子です。ラジオでの声と名前の露出はかなりなもので、地元では著名人と言っていいと思います。宮城県選挙区からいつの間にか国会議員になっていて、菅直人内閣の時に国家公安委員長までになりました。

2000年代は日本の国会議員として、完全に韓国に「行ってしまった」人になってしまいました。 2003年に韓国の水曜デモに日本の国会議員として参加したという一例だけの紹介にしておき、虫酸が走るので詳細はともかく、韓国の反日に加担した方として悪名がとどろき渡っています。2017年には、ほんとに逝ってしまいました。ああ、恥ずかしい。日本人として、人間として。誤った歴史認識に乗っかり、何を血迷った行動をしているのか。

本籍はどうにでも変更できるのですが、出身地の事実は変更できません。昔、地元の吉川団十郎が歌いラジオでもヒットした「ああ宮城県♪」を思い出してしまいます。そうか、私は今後出身地は秘匿することにしよう。

そんな汚名の仙台そして宮城県に、さらに泥を塗りたくる石垣のりこ代議士先生。先輩岡崎トミ子の、最大限に総理を罵倒しようとして滑ってしまっているところは、受け継いだようです。しかも、アメリカで犯罪を犯した菅野完を秘書として活動しているわけですからね。宮城県民よ、もう投票してはいけません。石垣のりこ先生のお里は、完全に知れてしまいました。

投票で参議院議員に選出されただけでは、政治のプロとは言えません。それ以前に人としてどうなのか、というレベルです。これで歳費約2000万とは、
世の中何か変ですよね。ここまでくると、石垣先生を倣い、ツイッターで、「拝啓 石垣議員殿」としてディスり倒したいという企画が浮かびますが、そんなお里が知れるような軽挙妄動は致しません。それが表現者の品格というものです。石垣先生には議員の品格を勉強され、宮城県や、仙台の汚名をそそいでもらいたいものです。恥の満月はまずいが、萩の月はおいしい。

ずんだ餅(尻餅をついたわけでない)
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メッキが剥げた宮台真司先生

宮台真司先生については正真正銘の大学教授であらせられますし、社会学者であります。中田敦彦先生や石垣のりこ先生と同列に扱われて「クズ野郎」と言われそうですが、ピンポーン♪そこがこちらの狙いですから。

去年騒がれたアート展「あいちトリエンナーレ」は、今、愛知県大村知事のリコール運動にまで発展し、署名活動が進展中のことは、よく知られているところかと思います。このことに関し、最近見かけたのですが、社会学宮台真司先生のインタビュー記事がありました。

HUFFPOSTという「表現のこれから」と題するネット時代の言論について考えるサイトがあり、そこでの記事です。記事自体のタイトルは「あいちトリエンナーレの『表現の不自由展・その後』をふりかえる」(2019.12.30)となっています。

この中で宮台氏は、アートの本質論を展開しているというのが第一印象です。インタビュアーが、先生の言説を以下のようにとりまとめています。
「そもそもアートは誰かの心を傷つける。『生半可な覚悟で見に行けば不快になって当然です。』
社会学者らしく歴史的な事例を次々に示し、宮台ワールドの開陳というわけです。ご他聞にもれず、「ヘタレ」だの「クズ」だの「損得野郎」だのと、宮台用語が駆使されます。

これを読んでの私の結論は、ハフポスト側は「表現の不自由展」について意見を求めたわけですが、宮台氏はテーマを抽象化してしまい、直接的具体的に答えることをかわしている、アートに引き寄せて、自説を述べている、そういう記事だと思います。
めずらしいと思うのは、いつも抽象度をあげた表現をされるのに、この中では割合具体的に自らのポリシーを披瀝しているところがあることです。

そりゃあ、薄っぺらな反対論か擁護論かをしゃべくるようなスタンスは取らないでしょう。そこに先生の戦略と美学があるように思います。
当然ながら私の興味は、「不自由展」をどれだけ擁護するかの点にあったのですが、むしろ同展への批評も交えるくらいで軽薄な肯定は示していません。

ここでハフポストの思想的立ち位置あるいは傾向が気になるのですが、他の記事のタイトルと書き手を見てもあまり偏りは見えてきません。「不自由展」を擁護する立場にあって、宮台氏を担ぎ出してその理論づけをしようとしたのか、もともとニュートラルでありながら宮台氏に自由に語らせたのか、それはわかりません。もし、前者の場合は文字通り「担がれて」いるわけですが、いずれにしても宮台先生はすべて承知の上で、単純で素朴でわかりやすい、そんな立場表明はしないでしょう。

傷つけ不快になれ

君たち本当のアートを知っているかね、生やさしいものではないんだ、もっと傷つきたまえ、芸術の真価を理解できるかね、と述べているように私には聞こえます。
先生の言われることの私の理解は、小説もアートとしてみれば、アルベールカミュが「異邦人」で母親の死をどうでもいいことだとしたり、三島由紀夫
金閣寺」で国宝に放火したりすること、そのことを指していると思っています。小説が芸術になるか
どうかはそこにかかっているとも言えましょう。だからそこは、世事や常識を突き抜けていなければならないのです。
その意味で「不自由展」はどうよ、と言えば、先生は明言していませんが、絶賛はしていません。罵倒もしていません。むしろ、本当の芸術を知らない輩が「不自由展」を中途半端に批判するのを罵倒しているわけです。
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しかし、この記事には二つの難点が見えます。
一つは「不自由展」の話題について少女像だけをピックアップしていることです。英霊を愚弄し国旗や昭和天皇の肖像を焼いたりしていることには触れていません。問題はそこでしょう。そもそも、反日と芸術は違います。
二つ目は、芸術の本質論という論理の建てつけでありながら、補助金の認可に関して法律論を持ち出して、行政の補助金停止を批判している点です。ここは、先生は滑って尻餅をついているかもしれません。芸術の本質論というアプローチは法令など関係ないっしょ。人間の本質の窮極を追究する営みだったのではなかったのでしょうか。これって先生の言われる「法の奴隷」ってこと?

該博な歴史的知識、OEMではない自家製用語での、
抽象度の高い独特の論理展開、すなわち宮台節が少し滑っているのではないか、ということ以上に、すでに軽く触れましたが、めずらしく宮台先生は率直に自らの信条を吐露されています。アート展の議論の流れで公共性が論点になっているところです。

「不安や不快ゆえに多くの人が受け入れられなくても、無理に知らせることが公共的であるような事実があります。イヤでも知ることがみんなの利益や幸せにつながることを僕は伝えようとしています。」

すなわち本質的芸術と同じように自分のディスクールは、人がいやだと感じることをあえて語るものである、というものです。「不自由展」をネタに、自説を展開したという、極めてわかりやすい話です。

しかし、私が最も解せないのは、全体として宮台氏はこのアート展を擁護しています。今、反日プロパガンダ側につくことは中国を利することにしかならない時代の岐路にある中で、それでいいのですか、
という点です。米中新冷戦下、あちら側に行ってしまうのですか。重武装中立論の方が、日本を見捨てる方向に加担するのですか?ということです。というか、この状勢で「中立」の選択はあり得ません。日本だけで中国に勝てるわけがないし、対中包囲網の一員として旗色を明確にせずして、日本の未来はないでしょう。

先生、見るに堪えないです

今回、宮台真司氏を取り上げる気にさせた直接のきっかけは今年2月のABEMA Prime(ネットTV)でのことです。いつの間にか朝生のような討論番組の気配を帯び、専横な論陣を張って番組をジャックしているごとくでした。相手が田原総一朗氏だったこともあるでしょうが、司会者は機能せず、ひどい番組でした。司会者側にいたケンコバが勉強になりました、などとまとまりもしないまとめにかかっていましたが、勉強にはなりません。怒鳴り声がうるさくて言説が入ってこないのです。まさか、これが不快にさせる公共的言論アートではないでしょうに。

一点だけ言うと、日本の平均賃金の低さをあげ、政府の無能を呪っていたと思いますが、安部政権の推進で雇用が増え失業率が改善した以上、平均賃金が下がるのは当たり前なのです。雇用が増えたことに意味があるのではないでしょうか。これについては
髙橋洋一教授の言説*を一度スタディされたらいいのではないでしょうか。われわれ一般リスナーは、この見解をインプット済みなのです。

同番組の別の回でもこういうことはあるのですが、
今回はさすがに私も嫌気が差しました。10人コメンテーターを揃えておいて、宮台VS田原のリングになり、枯れ木も山の賑わいとなっていました。息の合わない餅のつき手と返し手を見るようでした。議論の応酬というより尻餅をついていたのかも知れません。しかも、宮台氏は仙台出身ときています。ああ、宮城県

知識や情報がマックスに飛び交う時代

インターネットメディアの氾濫により、誰でもプロアマ問わず自由に表現できる時代になりました。それに伴う言論言説の氾濫は、チャイナの三峡ダムを揺るがす大洪水のようなものです。百家争鳴、情報量の秤があるとすればその目盛りの針は振り切れんばかりではないでしょうか。知識的な言説についてはプロのものがその価値で消費される一方で、プロ自身の表現機会の拡大により、多用な見解、視点が提供されています。

プロの表現者は、自分の言論言説が相対化されていないか気にする必要が生じています。プロ間批評があるからです。例えばこういうケースもあります。虎ノ門ニュースのような日替りコメンテーターとなっている場合、テーマが日々リピートされることがあるので、他のコメンテーターがどういう視点で述べているかチェックしておかないと、自分の見解の説得力に影響する場合が生じます。独自視点や見解を出さないことには、すでに伝えられている別のコメンテーターの見解に相対化されることも出てきます。
視聴者はそこを見ているのです。

・同じこと言っているじゃん…
・その見方はA氏が論破済みなのに…
・この人、B氏の情報知らないんだ…

等々視聴者に相対化されてしまうのです。プロアマ間批評です。
だからそれは、対立論点が明確な場合に限らないのです。アマの視聴者はすでに多用な知識や見解をすでに持っていることを、プロは踏まえなければなりません。アマの平板な見方をプロが正すといったパターンでだけではなく、プロがプロに異論を突きつけたり、アマもプロを相対化する、そういう状況が形成された時代になっていると思います。それがネット社会が生んだ新たな側面ではないでしょうか。

プロアマ関係なく表現機会の増大は、プロアマ関係なく批評機会の増大を意味しています。この点では、プロにおいてもアマにおいてもリテラシーの質だけが、その言論言説の価値を決めるものとなると思われます。すなわち、その分野の言論で生計を立てているいないに関わらず、プロアマ関係なくその質だけが、問われていると言えましょう。こういう意味でプロフェッショナルといえど、ふるいに掛けられる時代になっていると考えられます。★