「日本国紀」論争のゆくえ

10月11日、自由民主党杉田水脈氏(衆議院議員)が、当日の勉強会での内容をツイッターで投稿しました。その要点は「講師に八幡和郎先生をお迎えし、皇室についての勉強会を行いました」というもので、その際のテキストだろうと思われる八幡氏の「『日本国紀』は世紀の名著 かトンデモ本か」の書影もあげています。

これに対し翌日、百田尚樹氏は自身のツイッターで、「八幡和郎が私を攻撃した本を堂々とアップしたということは、この女性議員は、はっきりと私を挑発しているんやな。あるいは宣戦布告か。・・・」と反応しています。
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このあたりが「日本国紀」に纏わる、最近のホットな動きと言っていいかと思います。
本ブログのタイトルも「日本国紀論争・・・」としたものの、私は当人同士の直接的な論争はまだ為されていない、と思っています。もちろん「日本国紀」に対するいくつかの批判本が出ていて、正にそのことが
論争と言うべきなのですが、そのことはさておき、
周囲がザワザワしている印象が強いことを言いたい
わけです。

凄い論争があった

その意味では、かなり昔のことになりますが、朝日ジャーナル誌上で、立花隆氏と渡部昇一氏とが、恐ろしく具体的な論争をしたことが思い出されます。立花氏が、渡部氏の著作の該当頁の該当文章について、これは間違っているので削除せよ、といったもので、この応酬が何回かに亘り連載されました、と記憶します。どちらも、知の巨人と呼ばれるお二人です。漠然とした記憶でのイメージですが、ある意味凄惨な印象が残っています。

このことに比べると、百田氏は論争になどなっていない、と感じるわけです。まして、テキストとして取り上げた杉田議員を攻めるなどは、児戯に等しいと言うべきですが、百田さんのキャラからすると、
押さえられないのでしょうか。

小説などの文芸批評の世界では、作家は評論家に批評されまくりで抑圧されてきた、という感じがします。小説が小説として力を持っていた時代のことです。作家は、次回からの作品でのみ応えるしかなかったし、実際そうしてきたと思います。
今では、批評に値する作品自体があるか疑わしいと言っては言い過ぎでしょうか。

なぜこの話題を出したかというと、八幡対策がないものか、と思うからです。
文芸作品に対する批評は当然あるものとして、抑圧される必要はないのですが、百田氏は八幡氏を黙殺すればいいと思うのです。まずそれが第1案です。

百田氏の対策の第2案は、八幡氏はテキスト論*できているわけですから、関係ない杉田さんにあたるなど論外として、八幡氏の指摘している内容に即して検証した上で、テキスト論で返すことで良いわけで八幡氏を「物書きとしての誇りはないのか!」と罵倒するのは、どうかと思います。百田さんを下げるだけではないですか。
ツイッターなどではなく、一定のまとまりの反論状で返せばいいと思うのですが。
八幡氏がブログ記事で提示している「日本国紀」に
対する10の疑問がありますが、これは、素人目にも
百田氏の論理力なら、淡々と切り返せる類いの指摘と見えます。

百田さんも論争しますか

対策第3案は、八幡氏との対面での論争です。これは、誌上対談や動画・テレビでの討論などになると
思います。百田さんのキャラでは、これが最も御本人を刺激するものと思われます。
ひょっとしたら、論駁すべく準備中かもしれません。

では、そもそも八幡和郎氏の著作ですが『日紀』は世紀の名著 かトンデモ本か」です。このタイトルはいただけません。出版社で付けたような売らんかな臭がプンプンで、百田氏が「小判鮫本」と言うのもわかります。タイトルに品がなく、無粋と申し上げましょう。
実はこの書物が入手できず、八幡氏のネット上の
論を複数確認してのことですが、このタイトルの下品さが、内容を台無しにしている印象を受けるのです。内容は冷静なものという気がするからです。
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私は「日本国紀」にとって八幡氏の著作が出たことは、むしろ歓迎すべきことと思っています。

ここで「日本国紀」批判について、八幡氏以外のものを見てみましょう。
まず、文芸評論家斎藤美奈子氏のサイト「世の中ラボ」の「第105回 日本国紀をどう読むか」についてです。

ざっくり言って「日本国紀」に比べて、前半は西尾幹二氏の「国民の歴史」の方がおもしろい、後半は学び舎の中学歴史教科書のほうがいい、という論で、立場的には左寄りの歴史観と見られます。
恣意的な批判があるだけで、すぐれた文芸批評に見られるその論述自体がもたらす独自の着眼や、元本の意外な魅力を照射するような、それは期待すべくもありません。
まして、学び舎の歴史教科書をおすすめしてくるなど、首を傾げてしまいます。

「日本国紀」は随筆か

もう一つは、歴史に関わる専門家としての浮世博史先生のものですが、これはBusiness Journalサイト2018.12.1の記事で「百田尚樹氏『日本国紀』は随筆である・・・定説と大きく異なる部分、事実誤認部分」と題するものです。

これは、歴史に関わる立場の方からのご指摘らしく
通史の書き方に沿って方法的なご指導をなさっておられます。その方法論を五項目にわたり、教えてくれています。しかし、私は浮世先生の論理展開が少しおかしいように思えてなりません。

タイトルにもあるように先生は「日本国紀」を随筆であると規定して、通史であることを真っ向から否定されています。
その上で百田通史の瑕疵をいくつか拾いあげてみせるわけです。つまり、それは歴史書としての価値をファクトや定説度や方法的信頼度に求めるもので、それに照らしてみて批判しているのですが、随筆と言い切るそちらの指摘については、なんら言及がありません。

浮世氏は「日本国紀」を通史をめざした歴史書という面と、叙事詩、つまり主観で書いた随筆との、二面性を語っています。
ここで微妙におかしいと思うのは、いわば主観の物語と蔑んでおきながら、客観的、方法的な原則に基づかないものとする、論理的矛盾です。自ら叙事詩と言っておきながら、それが歴史的記述として確かなものでないという論理は破綻していないでしょうか。それは、当たり前のことですから。
それは「永遠の0」を歴史書ではない、と糾弾する
おかしさと同じです。

素人ながら僭越ですが私に言わせれば、先生は「日本国紀」をだしにして、歴史論述の方法論を語りたかっただけなのではないか、そう思えます。随筆としてはどうだったのでしょうか。随筆と言う以上、その内容についての分析、評価も語って頂かないことには片手落ちとなるでしょう。

記事の最後で浮世氏はこう述べます。
「本書(日本国紀)はあくまでC0095**で、『文学・評論・随筆』です。読者諸氏は、これらの定説や多くの研究者の説明を覆すようなものではない、と考えてほしいと思います。」
それ、わかりきったことでしょう。先生が冒頭から
断定してくれたことなのですから。

批判本たちありがとう

また、冒頭ののような作も、「日本国紀」の性格を補強してくれるような効果を持つと捉えることができないでしょうか。浮世氏が期せずして示してくれた、百田史の二面性の叙事詩としての面を強調してくれるからです。
「日本国紀」は歴史のファクトを尊重しながら、そこに作家の想像力と構成力で日本の歴史ストーリーを叙述した「壮大なる叙事詩」です。私たち日本国民は、百田節にのせられながら前代未聞の通史の形で歴史に出会い、知り、発見し、驚きもし、学びもします。
何よりも、作家百田尚樹氏の日本をリスペクトしてやまないその熱いモチーフが、五百頁に及ぶ制作を通じて我々日本人の魂を揺さぶり、覚醒させてくれる、そのことにこそ、価値を見いだし、また、
感動を与えてくれているのです。★

*テキスト論:作品を作家と切り離して論評する方法。これに対して作家論があります。
*C0095:文学、評論、随筆などを括る書物の分類コード。浮世先生は「日本国紀」を歴史書と分類していない、ということです。