いま「未知」と「遭遇」している

昔、「未知との遭遇」という映画がありました。テレビでも放映されましたが、しっかりと観た記憶がありません。ただ、いま思っても宇宙や宇宙人を否定的ではなく、肯定的かつ、期待や夢をもっていたように感じられます。この映画の実際の内容に関わらず、現実の「未知」は不可知ゆえに恐いものでしかありません。

いま人類にとっての「未知」が襲来しています。それは件の新型コロナウイルスに他なりません。特に、日本のクライシスマネジメント(危機管理)がこれほどクローズアップされている事態は、なかったのではないでしょうか。
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言論界でもさまざまな意見が飛び交っていて、この「未知」の発生がそれを惹起しているように見えます。「未知」の恐怖がそういうパワーを持っているということでしょう。

東浩紀氏の指摘は場違い

2月10日号のAERAのエッセイで哲学者東浩紀氏が、
以下のような記事を掲載しています。一部引用してみます。タイトルは「コロナウイルスで広がったヘイト発言で傷ついた心は簡単には癒えない」というものです。

新型肺炎の発生は医学的な現象であり、そこに政治的意味はない。ウイルスと中国の体制は関係ないし、中国人は疫病発生になんの責任もない。『新型肺炎は怖い』は差別ではないが、『中国人は怖い』は差別である。不用意な感染を予防するのは重要だが、それを差別を混同してはならない。…」

一行ごとに突込みどころが潜んでいるのですが、それはさておき、一点に絞って言うとすれば、私が思うにこれは「平時」の発言です。今はクライシスマネジメントが必要な事態であり「有事」だと思うのです。

東氏は政治思想的にはリベラルだとは思いますが、
いまの今、こんな脳天気なこと言っていて大丈夫ですか?私にとっては、まったく説得力のない、戯れ言にしか聞こえません。哲学者として大所高所から
斬新な視点を述べて頂きたいと、期待しているのです。

リベラルだからと排斥つもりはありません。津田大介氏と当初あいちトリエンナーレと関わったこともどうでもよく、東氏は『こういう着眼のある方だったのか』と思わせてくれるような何か…。これでは
チャイナに忖度する国会議員どもと何ら変わるところがありません。

対応策で意見割れ

また今回の未知なる危機は、言論界各所において、
波風を立てています。
珍しく、「虎ノ門ニュース」のコメンテーター間で、意見が割れているのです。直近の例では、消費増税習近平国賓で招くことなどに対して、ほぼ全員揃って反対していました。
ところがコロナに端を発する感染症対策の議論では、チャイナに対して日本への渡航制限をすべきかどうかについて、見解が異なっていました。

構図的に言えば、有本香氏らの渡航制限派と、上念司氏の渡航容認派とに割れたのです。有本氏らは渡航制限を断行できない政府批判へと鉾先が向かい、上念氏は日本の対応は比較的うまくいっているとの論調でした。このような普段は起きない現象を呼び起こす事態、これが「未知」の恐怖がもたらす影響力ではないか、と思います。

番組の視聴者サイドからすると、武漢を中心とする湖北省での死者や感染者の広がりの報道に、恐怖に染まるなか、政府の対応が生ぬるいと感じる一方で、上念氏の見解や解説に触れると、恐怖が緩和されるという効果がありました。特に彼は、チャイナと日本との衛生環境の違いを指摘したり、専門家のデータを駆使して自説を補強していたという印象を受けます。といって、渡航容認派が上念氏以外に複数いたとは思えませんが。

視聴者としては、両者を見渡してバランスをとっているという恰好とはあっさり言えないものがあり、有事において国民に安心感を与える対応がとれないことは政府、特にこのような場合、安部首相のリーダーシップに黄色信号が点滅し始めていると感じられます。

一方、アメリカのインフルエンザが猛威を奮っていて、これが実は件の新型コロナウイルスの疑いが言われてもいて、2月20日現在では、これがはっきりしていません。
今や地球に飛来した「未知」は、世界じゅうに拡散し、一刻も早くこの新種の生物*について、世界じゅうの疫学的叡智を振り絞っての正体解明が待たれています。

「概念の力」

感染症の拡大抑止等については医学的なスタディが急がれている中、もう一方で、ちょっと違う角度から考察できないか、と思います。人間の知恵の活用力といった感じなのですが危機やリスクにおける「概念の力」ついて触れてみたいと思っています。

新型コロナウイルスについては「未知」の危機というケースであり、危機ということがわかっている状態です。
このコラムの冒頭で用いましたが、まず人間は「危機管理」というコンセプトで、今の状況に対処しようとしています。「危機管理」が必要な状勢である、そういう認識が必要と注意を喚起しているわけです。まずこの概念があることによって、危機管理対応へと進めます。この最初の受け止めが脳天気に楽観的だったりすると、「新型肺炎と中国政府は関係ない」や「中国人を差別するべきではない」などという発言を構成する土壌となります。

また、これはひどい話ですが、兵庫県知事が備蓄しているマスク120万枚のほとんどを中国に寄付したり、都知事二階俊博の要請で5万から10万着の防護服を中国に支援するという有様です。
この方たちは、「危機管理」という概念をお持ちではないことを自ら証明しているわけです。「リスク管理」上の必要で準備している装備品を、目の前の「危機」に際して捨て去っています。税金で備えた物を自分の立場を利用してチャイナに供与するとは、売国行為でしかありません。

もう少し感染症に即した側面では、当初「パンデミック」が出てきましたがその後「エンデミック」も
交えて使われるようになり、現象を細分化して概念が使われ出しました。こういう切り分けて対象化することも概念の力でしょう。無神経に「アウトブレイク」ばかりを連発する愚は避けなければなりません。

新型コロナウイルス」とは、病原体名の仮称といった趣きでありまだ名前は付いていないわけです。これを原因として発症した場合の病名も「未知」です。青山繁晴氏は「武漢熱」とネーミングし、自らニュース解説に使っています。他には「中国肺炎」と言っている方もいます。最悪なのはWHOが発表した「COVID‐19」です。みごとに発生地チャイナを隠蔽するネーミングとなっています。テドロス事務局長は、チャイナマネー漬けであることは、つとに知られています。
ネーミングは物事を捉える際の重要な知恵ですが、
これも概念の力と言えるでしょう。

兵器の可能性

「ウイルスと中国の体制は関係がない」と、東浩紀氏は、宣いました。しかし、いくつか公開されている情報があります。
まず坂東忠信氏がチャイナの「非典非自然起原」という本を紹介しましたが、これはサーズの兵器化を意図した記載が出ています。

また、石平氏の解説によるもので、武漢には病毒研究所があり、黄燕珍というそこの女性研究員が一番目の感染者で昨年の11月に亡くなっているとのことです。かつ、ウイルスのDNA配列に人工的なものがあるとされています。
その上で石平氏は、習近平が軍の機密を隠蔽するために武漢封鎖を行なったと結論づけています。
状況証拠ではありますが、これまで、衛生上汚ない
だけでなく、知的所有権問題はじめ、恐るべき国家情報法を制定するなど、チャイナの汚なさは、世界の常識と言うべきでしょう。

文脈が逸れましたが、コロナウイルスの件は、「未知」であることからくる「危機」でした。これに対して、「クライシスマネジメント」ではなく「リスクマネジメント」の観点から新しい状況や、すでに変わった事態を、概念化して対応するというような方向もあります。ここにも、放置できない状態を概念化により、ガッツリとマネジメントする姿勢が見えます。状況をパッシブに捉えていては、こういう発想は出てきません。そこには積極的に「未知」に挑んでいく人間の知恵があります。

米軍の概念変更

2月13日の「JBpress」の記事からですが、高松五郎氏がすばらしいコラムを書いています。私は「目から鱗が落ちる」とでも言うべき体験をしました。それは「世界が驚愕、戦争と平和の概念を変更した米国」と題されています。

webでも読めるので、全文はそちらに当たって頂くとして、一部を拾い上げてみますと「米軍、新しい国際安全保障環境に対応するため、今までの平和戦争二元論を廃する」という斬新なフレームワークを行なったということです。エッセンスを抽出すれば
「武力紛争に至らない競争」という捉え方をし「競争継続」をコンセプトとしたということです。

何という「知」の営みでしょうか。こういう変容している状態を、いわばグレーの事態を概念化して、
把握する人間の知恵です。「遭遇」している状態を敏感に感受し「未知」のリスクに即応するアグレッシブな行動、これこそ安全保障にかける者のすさまじさというべきでしょう。

日本は新型コロナウイルスに対して、国家安全保障会議は何を為したというのでしょう。もちろん、その内部の動きはお気楽に公開される性質のものではないでしょうから安易なディスりは慎んでおきますが、果断に知恵を発揮するような機会を見たことがありません。常に果断であればいいというものではないのですが、今回は即応性が求められていました。そういう場面でした。

ここで申し上げたいのは、安全保障について中長期の戦略プランを基礎に、普段からしたたかな戦略思考ができているのか、ということです。汚ないチャイナを上回る腹黒さをもって対応できているか、ということです。このようなマインドがない限り、新概念を活用したタクティクスを駆使することも、まあ期待できないでしょう。

大前研一氏が「ストラテジックマインド」を出してからもう30年以上が経っています。日本の政治家はマハティール首相を見習うべし、と声を大にして言いたいところです。

話をもどして、米軍の「競争継続」に触れて思うのは、マーケティング界のことながらマイケルポーター教授が「競争戦略」や「競争優位の戦略」を世に出した時の、あの水際だった斬新さを思い出させてくれました。「競争」の概念の類似性とは関係なくです。
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戦争は変わった

いつのことだったか会社の同僚が、トランプ大統領が米中貿易戦争を活発化させた頃、そのマスコミ報道に「近所のおばさんがテレビで戦争始まったと騒いでたよ」と、その驚きぶりを笑っていました。戦争の形が変わっていることに気がついていたら、そのおばさんを笑えなかったと思っています。

感染症問題も安全保障問題と捉えるべきでしょう。存立危機事態と捉えるべきです。今回仮に、パンデミックもなく終息したところで、日本のお里が知れてしまったことは否めません。有本香氏が指摘しているのはここだと思うのです。政府が主体的に意思決定し、それを表出していくスタンスがないことを問題にしている、と思われます。

「チャイナ共産党とコロナは関係ない」どころか、戦略的に関係づけて、この危機を活かす視点で振る舞うぐらいでなければ、日本の未来は絶望的でしょう。

感染症の脅威にしろチャイナの脅威にしろ「遭遇」している「未知」に対して、最優先順位として「安全保障」の概念を置くべきではないかと思うのです。

概念の効用

そもそも「概念」の効用としては、規定性、包括性があり、展開力や共有力などが挙げられると思います。特に、可視化の効用が大きいのではないでしょうか。厳密には、「概念」は抽象的なものなので、
視覚化とは言えないのでしょうが、「未知」のものに「名前」を与え概念的に捉えた時、可視化に近い効果を持つと考えられます。つまり、「可視化」とは、視認性の獲得ではなく、認識の意味となりましょう。

ここに至って「遭遇未知」という概念を提案したいと思います。これは、未知の状況や事態、変化し更新が起きている状況、言い換えれば、従来の既成概念で白黒がつけられない、いわばグレーの状況や事態を指すわけです。新概念として確定される前の段階ですが、この状態を「遭遇未知」と概念化してしまうわけです。確定を待っている新状態、そういう「未知」であるかもしれないという規定性を与える
のです。分野に関わらず研究者は、ある意味「遭遇未知」を探索しているとも言え、それが発見や開発につながるということです。

コロナウイルスの場合のようにクライシスマネジメントの場面というより、リスクマネジメントの局面の方が有効かもしれません。コロナウイルスは未知ながら脅威は確定しているからです。この意味では、安全保障や国防、経営などで利用価値があるかもしれません。この分野では、何がリスクになりうるかの視点が重要だからです。リスク探索に「遭遇未知」が活かせるだろうからです。もちろん、クライシスマネジメントにおいても、確定している危機への対応策において、「遭遇未知」は使える可能性があります。

リスクマネジメントからわが国の安全保障を思うとき、ダダ漏れ状態と言えます。その内容項目はあり過ぎてウンザリします。二階俊博がサイレントインベージョンに罹患していることなどを始め、日本は十分にエンデミックを起こしていますが、本稿の構成上、これ以上触れる余地はありません。今後たち現れる「遭遇未知」に対して、果敢に立ち向かっていくしかありません。

いま、医学的な領域を大きく逸脱して、影響が及んでいます。この感染症騒動のさなかに尖閣を航行するチャイナの脅威、インバウンドやサプライチェーンなどチャイナ頼み経済の負の露呈、クライシスマネジメントにおいて意思決定できない日本への評価下落、安部政権への不信、しかもオリンピックという大イベントが控えているという事態を前に、正に「遭遇未知」の事態が出現していると言えます。このため、抜本的な政策変更が行なわれたり、価値観の変容が起きたり、パラダイムの転換が発生し得る状勢となっており、新たな概念が創出される可能性を秘めています。

世の中の潮目が大きく変わろうとしているのかも知れません。

それにつけても、何よりもまず、新型コロナウイルスの封じこめが急務なことは自明のことです。★

*ウイルスが生物であるか、非生物であるかは、議論があるようです